2024年11月17日 仙台青葉荘教会礼拝
PDF Embedder requires a url attribute
使徒言行録6章1節-7節
「教会は有機体である」
野々川康弘牧師
今日は、教会の具体的なもめごとに対して、最初の教会がどのように具体的に対処していったのかということ。そのことを皆さんと共に学びたいと思います。そしてそこから、教会の本質とは何か、そのことを豊かに知らされることが出来ればと願っています。
最初の教会の具体的なもめ事は、6章1節に記されている通り、「やもめに対する日々の分配」のことです。ギリシャ語を話すユダヤ人たちから「ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちは、ヘブライ語を話すユダヤ人のやもめたちよりも軽んじられている。」そういう苦情があったのです。
このことを理解するためには、4章32節以降のことを、知る必要があります。最初の教会の人たちは、財産を分かち合いながら生活をしていたのです。財産のある豊かな人が、それを売って教会に献金して、そのお金を教会が、貧しい人、生活に困っている人の必要に応じて、それを分け与えていたのです。つまり、教会内で、お金や物の分かち合いが、日常的になされていたのです。それが「日々の分配」です。
やもめは、みなしごと並んで、当時の社会では、社会的弱者の代表だったのです。つまり、貧しい人への分かち合いは、多くの場合、やもめたちの生活を支えることを意味していたのです。しかし、その分配において、不公平が生じていたのです。
使徒たちが、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」そう2節で言っていることを見ますと、分配は、今まで使徒たちが行なっていたことが分かります。でも、次第に人数が増えていって、教会全体を正確に把握して、分配をすることが出来なくなったのです。それ故に、不公平が生まれてしまっていたのです。
自分の全てを分かち合う教会の交わりで、お互いを支え合いながら福音を宣べ伝えていた中で、そういったことが起こってきてしまったのです。
自分の全てを分かち合っていた教会の交わりは、最初の教会の素晴らしい信仰の実りでした。素晴らしい実りがあったからこそ、周囲の人たちは、教会を尊敬の目で見ていたのです。しかし、もめ事が生じてきてしまったのです。
教会で起こるもめ事の多くは、よい事をしようとしている時に、生じてきます。
教会の話し合いの中で、「これは良いことである。」そういう確信をもっている時に限って、人は傲慢になって、自分の意見を通そうとし始めるのです。
日々の分配という素晴らしい分かち合いの業をしている時に、もめ事が起ったことは、そのことを私たちに教えています。
では、起こったもめ事に対して、最初の教会は、どう対処したのでしょうか。2節-4節の「」内に、使徒たちが弟子たち全てを呼び集めて、提案したことが記されています。その提案は、食事の世話、つまり、日々の分配の業をする七人の奉仕者を、新たに選ぼうということでした。弟子たちはそのことに賛成して、ステファノを始めとする七人を選びました。そして、「祈って彼らの上に手を置いた」のです。つまり、「按手」をして、ステファノを始めとする七人を、教会の奉仕の務めに任命したのです。
「按手」の祈りとは、聖霊の働きによって、前任者が与えられた奉仕の務めを、ちゃんと果たすことができる力が与えられますようにという祈りです。
「按手」は、先にその務めを負っていた人たちが、手を置いて祈る祈りです。「按手」の祈りが指し示していることは、先に務めを負っていた人たちの奉仕の賜物が、継承されたことを意味しています。
牧師となる時、必ず「按手」が行われます。また、改革派教会では、長老や執事が新たに立てられる時、按手が行われたりします。改革派教会の長老や執事は、ホーリネス教会でいえば、役員です。
余談ではありますが、改革派の中には永久長老の「按手」を行なっている教会が存在しています。ホーリネス教会でいえば、永久役員が存在している教会があるということです。
でも「按手」は、何かの資格を得るということではありません。資格は個人が持つものです。でも、教会の「按手」は、教会がその人を、教会のある務めに任命して、立てることです。教会を離れて、資格として独り歩きするようなものではありません。つまり按手は、「とりあえず資格を取っておけば将来役に立つ」そういった感覚で、受けることが出来るものではないのです。「按手」を受けるということは、教会の具体的な務めに着くということです。
これも少し余談ですが、何故、日本基督教団は、牧師に教会籍が無いのでしょうか。それは、「按手」を受けた牧師は、日本基督教団という全体教会の「説教」と「祈り」という具体的な務めに召されている人たちだからです。
それはそうと、最初の教会は、教会員による選挙と按手によって、七人の奉仕者を新たに立てました。たてられた彼らは、どういった務めが与えられたのでしょうか。それは、「日々の分配」をする務めです。つまり、食事の世話です。更に言うと、教会員たちが献げたものを、必要のある人たちや、貧しい人たちや、支えを必要としている人たちに、必要な度合いに応じて、分配して、生活を支えていく務めです。つまり、使徒言行録4章34節に記されていた「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」という言葉が、実現していくための務めです。そのための「按手」が、ステファノを始めとする七人に、与えられたのです。そういう「按手」を受ける人が、改革派でいう長老や執事であり、ホーリネス教会でいう、「役員」です。
最初の教会が、教会内にもめ事が起こった時、改革派でいう長老や執事が、つまり、ホーリネス教会でいう役員が、与えられたのです。それが、最初の教会では、ステファノを始めとする七人だったのです。
最初の教会が、教会内でもめ事が起こり始めた時、教会員による選挙と按手により、七人の奉仕者を新たに立てたという事実から、私たちはとても大事なことを教えられます。
私たちは、教会でもめ事が起こった時、どう対処しているでしょうか。
教会でもめ事が起こったら、即座に止める。もめ事の原因となったものから手を引く。そういう消極的な対処の仕方をしているとしたら、最初の教会とかなり違っています。最初の教会は、それと真逆です。
もめ事になるから、日々の分配の働きをやめたのではなくて、もめ事を解決して、さらに適切に、よりよく教会の業がきちんとなされていくために、ステファノを始めとする七人が選ばれたのです。
私たちホーリネス教会でいえば、そのために役員が選ばれたのです。つまり、今行われている良い働きを、さらに成長させていくための、積極的な対処をしたということです。積極的な対処をしたとは、信徒が増えてきた変化に対応して、新しい体制を整えたということです。
それまでになかった新しい事態に直面した時、最初の教会は、自らを変えることを拒まずに、積極的に変化したのです。教会はキリスト者の集まりです。教会は生きています。生きているということは、絶えず変化があるということです。小さい教会が大きくなったなら、それに伴った変化をする必要があります。逆に大きかった教会が小さくなったなら、それに伴った、変化をする必要があるのです。
確かに変化には、いろいろな違和感、苦痛、不和などが伴います。しかし、新しく起ってきたことに対して、積極的に対応していくためには、自らを変えて、新しくなっていくことが必要なのです。そうであってこそ、生きている教会といえるのです。今までの在り方や、自分たちの思い入れや、自分たちのプライドに固執せずに、教会に、まさかということが起こって来た時に、「御言葉」と「祈り」に、更に支えられていくようになるために、役員が中心となって、もめ事に対して柔軟に対応するのです。そういう教会が、聖霊の働きによって、生かされている教会です。聖霊は、御言葉が教会の中にちゃんと立っていくようになるために、時に変化を恐れずに、積極的に、教会自らが変わっていく勇気と力を与えて下さるのです。聖霊は、主イエスの救いの御言葉が、前進していくために、教会に、絶えず新しくなっていく勇気と力を、与えて下さるのです。
それはそうと、ステファノを始めとする七人は、具体的に、どういう奉仕の務めが与えられたのでしょうか。それは、キリスト者たちが献げたものを管理して、それを適切に、必要なところに分配する働きです。私たちホーリネス教会でいえば、献金の管理の務めをしていたのです。つまり、会計の働きです。その奉仕の務めが与えられていたのです。でも、ステファノを始めとする七人の奉仕の務めは、単に会計に留まっていません。弱い人や、貧しい人や、支えや助けを必要としている人を、教会として支えて、必要な助けを与えるための働きも、含まれていたのです。つまり、ステファノを始めとする七人の奉仕の務めは、自分の命を分け与える主イエスの救いが、教会に属している一人一人と、直接関わることを通して、具体的に及んでいくようにすることでもあったのです。つまり、ステファノを始めとする七人は、教会に属する人たちの、魂を配慮するために、つまりは、牧会を担うために、立てられたとも言えます。
実は6章は、教会の執事職の起源となった箇所です。「日々の分配」の「分配」という言葉と、「食事の世話」の「世話」という言葉は、原文を見ますと同じ「ディアコニア」という言葉が使われています。その「ディアコニア」という言葉の意味は、「奉仕」という意味です。そしてそれを担う職務とし、「ディアコノス」という言葉が生まれたのです。つまり、「執事」という職務が生まれたということです。
更に言えば、6章が語る「献げものを管理して、必要な所にそれを分配する」働きを負った人たちは、後に執事と呼ばれるようにったのです。
つまり、教会の執事の務めの本質が、今日の箇所に示されているのです。
でも肝心な事は、執事がする働きは、分配をすることです。分配されたもの。それは、全て教会員一人一人が献げたものです。つまり、献げるという神への奉仕は、教会員一人一人がしていたのです。
ということは、執事の働きは、教会員一人一人が、神に献げたものを適切にアレンジして、必要な所に、必要なものが行き届くようにすることだったということです。
執事の奉仕は、教会員全員の奉仕を取りまとめて、教会全体が、互いに仕え合って、支え合っていく群れを築いて行くことだったのです。それが執事の務めだったのです。
聖書に話を戻します。教会の中でもめ事が起った時に、それに適切に対処するために、ステファノを始めとする七人が選ばれました。
では、教会は何故、ステファノを始めとする七人を選んで、もめ事に対して適切な対処をしてもらったのでしょうか。その理由を知る鍵が、2節と4節です。2節を見ますと「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」そう記されています。また4節を見ますと「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」そう記されています。
つまり、使徒たちが最初の教会に、もめ事に対して適切に対処する7人を選ぶように提案した理由は、祈りと御言葉の奉仕が、教会でしっかりなされていくためだったのです。罪人の集まりである教会では、いろいろな問題やもめ事が起ってきます。ある意味、それは教会にとっての一つの危機です。しかし、教会にとっての最大な危機は、神・罪・救いの御言葉が、ないがしろにされていくことです。神・罪・救いの御言葉への真剣な思いが失われて、神・罪・救いの御言葉に聴き従う姿勢がなくなってしまうことなのです。そのことこそが、どんなもめ事や、対立にも勝る、教会の致命的な危機なのです。
教会の生命は、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を告げる御言葉が、聖霊を通して、与えられることだからです。主イエスの御言葉に対しての真剣な思いが失われてしまったら、どんなに活発な活動がなされていたとしても、そこに神の生命はありません。神の救いの御言葉が語られて、それが真剣に聞かれるところにこそ、教会の生命があるのです。その生命が維持されていくためには、「祈りと御言葉の奉仕」がしっかりとなされていかなければなりません。基本的に牧師の奉仕は、「御言葉の奉仕」と「祈りの奉仕」です。
因みに、「祈りの奉仕」とは、勿論、個人の祈りも含んでいますが、それ以上に、皆が集まって、司式に沿ってなされていく共同体の祈りの奉仕です。礼拝での礼拝順序は、賛美も含めて、神と私たちの対話です。神と私たちの対話ということは、礼拝そのものが祈りであるということです。その祈りの内容を、全て取り決めること。つまり、礼拝の、礼拝順序の内容を全て取り決めることが、牧師の最大の「祈りの奉仕」なのです。そして、神・罪・救いの御言葉を、捻じ曲げることなくしっかり捉えて、しっかり捉えた御言葉を、しっかり取り次ぐ「御言葉の奉仕」を担って、神の御旨がないがしろになることを防いでいってこそ、教会の生命が守られていくようになるのです。
米子教会に仕えていた時に、ある兄弟姉妹が私たちを気遣って、ちょくちょく御馳走を届けて下さいました。その方たちは、改革派教会の重鎮だった人たちです。その人たちが、私たちに良く言っていたことがあります。それは、「私たちは、先生たちのために食事を届けているのではありません。教会のためにしていることです。教会が教会として、ちゃんと建て上げられるために、私たちや教会が、ちゃんとした神の御言葉に養われるためにしていることです。ですから、わたしたちに対する、感謝や御礼など必要ありません。そういう気持ちを持って下さるなら、御言葉を教会でちゃんと取り次ぐために、充分に祈って、しっかり御言葉の整えをして下さい。その時間が充分にとれるようになるために、食事を届けているのです。」
最初の教会が、新しい奉仕職を立てたのは、今でいう長老、執事、役員を立てたのは、礼拝で御言葉がしっかり語られるようになって、それが真剣に教会の人たちに聴かれるようになるためです。
第一義的には、そのことがちゃんとなされるようになるために、最初の教会は、もめ事に対する対処をしたのです。
更に言えば、もめ事の問題解決は、礼拝において御言葉が語られて、それが真剣に聴かれることによってこそ得られるのです。だからこそ、御言葉に立つ教会を整えることが、もめ事に対する最も有効的な対処方法なのです。
そのことを私たちが覚えて、今週一週間、皆さんと共に豊かに歩んでいけたらと願っています。
最後一言お祈りさせて頂きます。
Comments are Closed