2023年11月5日 降誕前第8主日礼拝

2023.1105.Syuuhou

聖 書  コリントの信徒への手紙 二  4章7~12節

説 教  土の器

 クリスチャン作家、阪田寛夫さんの小説に「土の器」がありました。この小説で芥川賞を受賞しました。高齢でガンになった実母の最期の様子を書いていて、(学生時代に読んだだけですが、まだわたしはクリスチャンになる前でした)感銘を受けたのを覚えています。高齢のお母さんはガンの手術中に麻酔が切れて、耐えがたい痛みの中で、讃美歌を歌うのです。阪田さんもご両親もクリスチャンでした。

 

1.土の器

 「土の器」とは、ものを収める器が土でできているということです。素焼きの素朴な器です。(聖書には、器に関する記述があります。旧約、新約とあります。とくに、Ⅱテモテの手紙2章20節では、金の器、銀の器、木の器、土の器が記されています。)

 この土の器とは、今、申し上げましたように、素焼きの器です。弱く、壊れやすい、決して高価ではない、器です。パウロは、ここで自分の肉体の弱さを土の器としてたとえたのかもしれません。しかし、精神はそうではない。外なるもの、外見はみすぼらしく、弱弱しく見えても、中身はそうではない。決して壊れることなく、砂のように脆くはない。そう言いたいのでしょう。まさしく「外なるものは滅びても、内なるものは日々新たなリ」ということです。

 また、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」のであり、「弱いときにこそ強い」のです。(12:9、10)

 なぜか、それが7節以下にあるとおりです。

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 土の器としての弱く、もろい器であっても、宝を納めているからです。だからこそ、強められている。この並外れて偉大な力、神からのものであるからです。

2.宝

では宝とは、何か? 壊れやすい器に入れている宝とは? ここに聖書の不思議があります。宝ものを入れる器は、金や陶器のような重厚で、壊れない器に入れるのが一般です。どっしりとした金庫に入れる。これで安全だ、地震が起きても、火事にあっても大丈夫。そのような器に入れるのが当然です。しかし、宝を土の器に入れる。その宝とは何でしょう?

前の段落から言えば、6節、

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

宝とは、神の栄光を悟る光であります。4節「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」であります。命そのものと言っても過言ではありません。

その光を納めているのです。すごいですね。だからこそ8節以下に記されているように、パウロは使徒としてのあらん限りの試練、艱難にあっても、使徒の務めを果たすことができたのです。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

6章にパウロは、自分が遭遇した試練や艱難を記しています。1節から10節までです。本当に、パウロという伝道者は苦難をものともせず、よく福音を宣べ伝えたなあと感心します。その働きによって、福音が伸展し、教会がどこでも建てられたのですね。

3.イエスの死といのちにあずかる生涯

まさに10節以下

わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

ここでは、イエス様の十字架の死と復活による命そのものを生きている伝道者パウロの姿があります。初代教会のキリスト者も徳川幕府での殉教者たちも、そのようにイエス様の十字架の死と復活のいのちをいただいたのです。

パウロの神秘主義といわれます。死ぬことが生きることということです。死は、キリストの十字架の死を指します。しかし、キリストが復活されたように、信仰者もキリストの復活のいのちにあずかるのです。キリストにあっては、死ぬことも生きることも同じである。これが聖書のメッセージです。わたしたちは、その信仰をもって生きるのです。そして、死んだあとに、キリストから与えられる永遠のいのちを受けるのです。

代々の教会はそれを信じ、伝えてきたのです。そして、わたしたち現代のキリスト者も受け入れ、信じているのです。

4.宝を実感する

 さて、土の器であるわたしたち人間に宝を納めている。そのような実感があるでしょうか? 神の似姿であるキリストの栄光、福音の光、そして、キリストのみ顔に輝く神の栄光の光です。

 わたしたちに、そのイエス・キリストの贖いの命が与えられている。それは神の栄光をあらわす光、キリストのみ顔に輝く神の栄光の光であります。土の器であるわたしたちに、です。神は土の器で造られたわたしたちを用いようとされるのです。神の栄光を現すようにと。

本日は召天者記念礼拝です。仙台青葉荘教会は創立114年となります。その114年の間に、召された教会員と関係者は198人となります。召天者名簿にその名が記されています。天に名が記されているのです。大いなる喜び、感謝です。イエス様の再臨の時に、神の国において再会する恵みが約束されているのです。

昨年11月の召天者記念礼拝からこの1年の間に召された3名の兄姉のご遺影があります。齋藤和子姉、阿部宣彦兄、阿部好宏兄の3名です。この方々は若い時から信仰を持たれ、その召される時まで、熱心に礼拝に休むことなく出席され、奉仕において、献金において、祈りにおいて教会のために尽力されました。感謝です。いまは神の国、永遠のいのちに与り、先に召されたご両親や親族、教会関係者と再会の恵みにあることでしょう。

その方々の信仰は、今日の聖書の箇所を通して証しされていることです。

16~18節

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

落胆しないしない信仰を持ってきた。その信仰の内容、内実。

1.「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」

口語訳です。「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされる」というみ言葉に立って生涯、信仰を全うされました。

「外なる人」は否応なく衰え、滅びます。しかし「内なる人」はどうでしょうか。衰え、滅びることなく、なんと「日々新たにされている」のです。この「内なる人」というのは内向的な人、内気な人という意味ではありません。その人とは「宝そのものである『キリスト』」への信仰に生きる霊的ないのちです。

2.17節「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」という信仰に生きてこられました。

3.18節「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 神の国の恵みを信じてきた信仰です。

これが教会の恵みであり、喜びであり、祝福であります。

 

信仰は頭だけのものではありません。経験であります。生ける神を礼拝する。生ける神の臨在に触れる。その聖なる体験をする。先に召された兄弟姉妹は、その経験をされた、まさに信仰の勇者である方々なのです。聖名を賛美します。ハレルヤ! いまや神の国の永遠の命に与っておられるのです。わたしたちもその信仰にならい、忠実に信仰をまっとうしましょう。そして、この信仰を家族や友人、知人に継承し、福音を証して参りましょう。

祈ります




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