2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日礼拝

2023.06.18.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙14章7~12節

説 教  裁きたくなる思い

前回、6月4日はローマの信徒への手紙14章1~6節から「強い人、弱い人」と題して説教しました。信仰の世界において、信仰の強さ、信仰の弱さがあるのかと疑問に思いますが、実際聖書にはそのことに関して取り上げているのです。本日は、おさらいと申しますか。再度、この問題を取り上げ、次に移りたいと考えております。

 そこには、当時のローマの教会の問題がありました。教会に「強い人」、「弱い人」の二つのグループがあったのです。「信仰の弱い人」とは、いわゆる禁欲生活を専らとし、肉食及び飲酒を禁じ、野菜のみを食べ、また安息日、祭日等を特別な日として、これを守る必要があると主張した人たちです。その反対に、信仰の自由を主張する人たちは「強い人」で、これらの規則に束縛されることを否定するグループでした。この違いが、弱い人は保守派、律法主義的と軽んじ、一方は今日でいう「リベラル」として「裁く」ようになったのです。

 1.再度、「強い人、弱い人」

信仰に強い、弱いは関係ありません。「救い主を信じると救われる。」

これがわたしたちの基本的な信仰です。それ以上でも以下でもない。信仰により救われる。罪赦され、永遠のいのちをいただくこと。これがイエス様の約束です。神の国に迎えられる大きな恵み、祝福です。

信仰告白し、神の国に入れる。問題は、その後の具体的な生活。信仰生活ですね。信仰の実践的、具体的な事柄です。そこには自由の問題があります。それは同時に規則、律法の問題であるのです。

わたしたち仙台青葉荘教会が属するグループは日本基督教団の中のホーリネスです。教理的にはメソディストの教派に属しています。日本での歴史的なはじめは今の青山学院大学の基礎を築いたアメリカからの宣教師がはじめました。メソディストの宣教師です。メソディストとは、メソッドつまり几帳面と申しますか、規則的な生活をする。時間厳守、決まり切った生活。退屈ということもあります。ギャンブルをしない。禁酒、禁煙を主張し、それをほかの人にも要求します。東京聖書学校は全寮制です。4年間の寮生活、献身生活ですが、禁酒、禁煙が求められます。神学生時代の恋愛もタブーです。もちろん、テレビ、ゲームなどに時間とお金を使わない。そういう生活の細やかなところまで縛り付けられる。これがメソディストの立場です。  

聖霊に満たされると、その世俗的な生活をする必要がない。教会でも、これを家族に配偶者に求める。禁欲的な生活です。

これに対して、キリスト者は律法から自由になった。縛り付けていた規則から自由になったのに、なぜまた規則に縛り付けられるのか。規則破りが横行するのです。お酒を飲む。煙草を吸う。ギャンブル、ゲーム、映画、テレビを観て楽しむ。この世の楽しみを退けない。

それでも信仰し、教会生活を送っている。

日本基督教団は戦時中、合同しました。いろんな教派の教会が合同したのです。80年近く経っていますが、今も旧教派の伝統は生きています。

今の時代。迫害も弾圧もない時代です。

大切なことは、聖書に記される愛の神は、弱い者とともにおられる神です。むしろ、強さを誇る者を退かれるのが、神。神は慰めの神。共におられる者の神です。

 信仰の世界における、強さ、弱さはありません。パウロは、15章1節に「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」と記しています。また、「わたしは弱い時にこそ強い」(Ⅱコリント12章10節)と言っています。その確信が強さなのですね。

 

2.キリストのために生きる

 さて、強さ、弱さに関して、7節には次のように記されます。

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

信仰の強さ、弱さに関して、どちらにしても、キリスト者の信仰の歩みは、自分のために生きるのでも自分のために死ぬのでもありません。ここの聖書は、ただキリストの栄光を現すために生きなさい、死になさいということです。

フィリピ1章20節も同じ内容が記されています。

生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

聖書は言います。あなた方の話すこと、行うこと、すなわち生きることのすべては、キリストの御名があがめられていることか。

食べることも食べないことも、日を尊重するにしてもしないにしても、互いを尊重しなさいということです。争ってはならない。自分が信じていることで他人を裁くことは、神に対して越権行為をしているのです。

 3.召命

 そのことで、考えさせられるのは4節です。

他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

このみ言葉は、1節から3節の内容に関連して語られます。先ほど、聖書学校のことを申しました。ホーリネス、メソディストの神学校である東京聖書学校は全寮制です。4年間の寮生活、献身生活ですが、禁酒、禁煙が求められます。神学生時代の恋愛もタブーです。もちろん、テレビ、ゲームなどに時間とお金を使わない。そういう生活の細やかなところまで縛り付けられる。そのように申しました。

現実にどうなのか? わたしは聖書学校の教師歴は、20年になります。神学校で禁酒、禁煙ですが、見つかると始末書、謹慎となります。過去、そういう事例が幾度かありました。聖書学校4年目になって、退学した神学生もいます。もうすぐ卒業という時に、退学したのです。また、卒業し、牧師、伝道者となった人もしましたが、牧師を退任した人も幾人かいます。

一般に牧師は、神の召命を受けて神学校に献身し入学します。4年間の寮生活。団体生活です。24時間、4年間の祈りと聖書研究、神学研究の生活が続くのです。

さきほど申しましたように、いろんな事情で退学する人がいます。まさに、いろんな事情があるのです。ある時、駆け落ちするように学校から若い男女の神学生がいなくなりました。失踪したのです。

双方の親は、熱心なクリスチャンです。一方の親は牧師家庭でした。しかし、まさに

14章4節なのです。

牧師は神の召使い、神の奴隷です。その子もまた召命を受けて献身し、ひとたび聖書学校で献身生涯を始めたのです。途中で挫折したとしても、その召命は消えることがないと確信します。倒れても、神がいやし立たせてくださる。そのために召命の言葉が求められるのですね。そこに立って、神から与えられた務めを全うするよう、聖霊を与えられる。

 この20年間で10名以上が途中退学しました。その人たちはいま、どうしているでしょう。ある人は信徒として忠実に礼拝に出席し、役員になっている人もいます。復帰して伝道者となり、教会に仕えている人もいます。

 裁きたくなることがあります。しかし、「神の賜物と召命とは変わることがありません。」ローマ11章29節

ひとつの家族があるとします。夫婦、子ども、両親。3世代あるとすれば、みな違います。子どもも、何人兄弟がいてもそれぞれ違うのです。性格の強い子も弱い子もいます。健康な子も病弱な子もいます。父も母も性格も性質も違います。それでいて、激しく罵り、喧嘩することはありません。家庭が分裂することはありません。

 教会も同じです。イエス様を信じる人は神の子であり、教会では兄弟姉妹です。100人いて同じ人はいません。強い人も弱い人もいます。だからといって裁き合うことはありません。裁きたくなる思いがあっても、みな神のしもべ、神様の大切な子なのです。

 謙遜であること。人のことを思いやること。弱さを担うこと。強い人を軽蔑しないこと。必要以上に恐れないこと。愛をもって互いに受け入れあうことです。

 イエス様の十字架の赦しと贖いは、すべての人にあるのです。自分だけの特権ではありません。考え違いをしないように、謙遜であるように努めましょう。




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