2025/1/19 仙台青葉荘教会 講壇交換礼拝

「心騒ぎ立つ中で」

ヨハネによる福音書14:1~7

 石巻山城町教会牧師 関川 祐一郎

 本日は、宮城中地区と宮城北地区との講壇交換ということで、地区を越えて仙台青葉荘教会の皆様と共に主を礼拝する恵みを与えられたことに感謝いたします。主の年2025年が幕を明けて2週間が経ちました。昨年は新年早々、能登での地震が起こり、それに加えて羽田空港での飛行機事故など、痛ましい災害や事故が相次ぎました。能登半島地震から1年が経ちましたが、復旧復興に向けてはなお多くの課題があるようです。被災された方々に必要な支援が届くよう、祈るばかりです。また困難な状況の中で、被災地に建てられている諸教会の礼拝が支えられるよう、聖霊の導きを祈ります。

突然の自然災害や予期せぬ事故のように、私たちに襲いかかる様々な苦難があります。東日本大震災を経験した私たちはこのことをより深く実感しています。また戦争や紛争を通して、主の御前に生きる私たち人間の罪深さと悪の問題に直面させられます。私たちの生きるこの世界に横たわるそれらの現実が、いつもわたしたちの心を騒がせます。しかしこのような私たちの間に神さまは共におられ、生きて働いてくださる。それが私たちに与えられた信仰です。神さまはこの世界にあって呻き、心騒がせる私たちに永遠に変わることも、決して廃れることもない、命の言葉を語ってくださるのです。

神さまは今日、私たちにヨハネによる福音書14章のみ言葉を与えてくださいました。主イエスは今日の聖書の冒頭で、次のように語りかけてくださっています。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。

 この言葉は十字架の死を目前にして、主イエスが弟子たちに向かって告げられた言葉です。このとき主イエスの弟子たちは、この先主イエスに待ち受けている十字架の苦難を正確には理解できていませんでした。しかし、主イエスのお語りになる言葉や一連の行動から「主イエスの身に何かが起ころうとしている」。このことは察していました。主イエスはそのような弟子たちに向かって「心を騒がせるな」とお語りになったのです。

 今日の聖書の直前13:36ではペトロが主イエスに対して次のように尋ねています。

「主よ、どこへ行かれるのですか」

このペトロの問いに主イエスは次のようにお答えになりました。

13:36

「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」。

 主イエスのこの言葉は、ペトロの心をさらに騒がせました。このときペトロはとっさに「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と宣言しました。

主イエスの身に何かが起きようとしている、ペトロはこのことを確実に感じ取ったのです。このときのペトロは主イエスの身に何が起ころうとも、自分は主イエスについて行く。この固い決意を抱いていました。この時点において、ペトロの決意は偽りのないものだったことでしょう。しかし、主イエスはペトロがやがて主イエスを否認し、主のもとから逃げ出してしまうことを見抜いておられました。それゆえに、ペトロのつまずきを予告なさいます。

「わたしのために、命を捨てると言うのか。はっきりと言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのこと知らないと言うだろう」。

このペトロ姿は神の御前に罪深く、弱い私たち自身の姿でもあります。

この先弟子たちに待ち受けているのは、さらに心騒ぐ事態です。主イエスは間もなく逮捕され、ポンティオ・ピラトのもとで死刑判決を受け、十字架に磔にされてしまう。主イエスは、弟子たちが自らの死に直面し、悲しみと嘆きにくれることも知っておられます。主イエスはそれらすべてをご存じの上で、弟子たちに向かって冒頭の言葉をお語りになりました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」

「この先、あなたがたに苦難が待ち受けている。しかし何があろうとも心を騒がせる必要はない。ただ神を信じ、イエス・キリストを信じなさい」。

 主イエスは弟子たちにこのようにお命じになったのです。「信じる」とは「信頼し、委ねる」ことです。主なる神さま、イエス・キリストにこそ信頼し、自らを委ねる。主イエスはこの信仰へと、弟子たちを招かれました。そして今、主イエスは時を越えて、弟子たちに語ったのと同じ言葉で、私たちをもこの信仰へと招いてくださっているのです。

「神を信じ、キリストを信じる」それは私たちがどこまでキリストに結びつき、キリストと共に生きることです。なぜならば、イエス・キリストこそ、私たちの救いであり、命そのものだからです。

 主イエスは今日の聖書の14章2節で続けて、こうお語りになります。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言っただろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。

 主イエスはこの言葉を通して、御自身の十字架の御受難の意味をお示しくださっています。天の父の家。この場所こそ、神の子とされた私たちがやがて、帰るべき場所です。パウロはフィリピの信徒への手紙4章で「わたしたちの本国は天にあります」と語りました。そこは、父なる神さまのもとにある平安が永遠に満ちる場所。神さまの御前に罪人であるわたしたちは、本来ならば、その家に住まう資格を失ってしまった存在です。しかしこのわたしたちのために主イエス自ら、天の父の家に私たちが住まう場所を用意してくださる、というのです。ほかでもなく、わたしたちのために、あなたがたのために、主イエスが永遠の住みかを整えてくださるのです。

 クリスマスの出来事によって、主イエスがこの世に来てくださり、十字架の道を歩み通してくださったのはこのためなのです。主イエスは私たちのために十字架の道を歩まれ、死より甦られ、天に昇られました。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちの罪が赦されました。私たちにはどうすることもできない、罪と死に主イエスは打ち勝ってくださったのです。主イエスはヨハネ16:33で次のように語っています。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」

主イエスがすでに世に打ち勝ってくださっている。ヨハネ福音書はキリストの勝利という、最も

大きな恵みを私たちに告げています。わたしたちの罪を赦し、すべてに勝利してくださったイエス・キリスト。このお方こそ、父なる神へと至る、すなわち永遠の御国へと至る唯一の道なのです。それは、主イエスが6節で次のように述べておられる通りです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる。」。

この主イエスを通ってこそ、わたしたちは、天の父なる神の永遠の住みかに入れられ、キリストの永遠の命にあずかる者とされます。

 混沌としたこの世界にあって、わたしたちは時に進むべき道を見失い、さまよってしまう。心が騒ぎ立ち、不安や苦しみ、悲しみがわたしたちの心を支配し、一体どこに向かったら良いのか分からなくなってしまいます。しかし、そのような私たちを主イエスはお見捨てにならず、私たちを御自身のもとに招いてくださるのです。

「わたしこそ、あなたがたの通るべき道だ。わたしのもとにこそ、真理があり、命があるのだ」

この主の語りかけを聞いたわたしたちは、もはや心騒がせて、暗闇をさまよう必要はありません。私たちはキリストの命、それも永遠に朽ちることのない復活の命に与る恵みを与えられているからです。キリストの復活とはどういうことなのでしょうか。

私が牧師として仕えている石巻山城町教会は1885年(明治18年)に創立し、今年140周年を迎えます。昨年から140周年に向けてささやかながら記念誌と証集の作成にとりかかっているのですが、その作業の中で改めて石巻山城町教会の歴史を振り返る時が与えられています。

石巻山城町教会は東北学院の創設者押川方義牧師と石巻出身の吉田亀太郎牧師によって建てられた教会です。この二人が新潟でスコットランド人の医療宣教師パームのもとで出会い、やがて吉田の故郷である石巻への伝道の志が与えられました。なぜ彼らは石巻を目指したのか。それは吉田自身が石巻に暮らす自分の両親に福音を伝えたいという熱い思いを抱いたからでした。ここに、彼らの東北伝道の原点があります。彼らの働きによって、石巻山城町教会をはじめとして、この東北の地にいくつもの教会が生み出されました。また押川方義はその後東北学院の創立に尽力しました。

押川と吉田は東北の地に「何としても福音を伝えたい」この情熱に燃えて、聖霊の導きに身を委ねて伝道しました。教会の歴史を振り返りながら、私自身改めて先人たちの伝道のスピリットに励まされています。

少し話がそれてしまいましたが、石巻山城町教会の創立者の一人である吉田亀太郎牧師が「復活の意義」と題する説教の中で、「キリストの復活」について次のように語っています。

「基督の仰せられし『復活』とは、『蘇生』ではなくして『甦生』の意味である。蘇生ということは、人が気絶して仮死の状態に陥ったような場合に、あとになって再び元の状態に回復することを意味するが、然し、『甦生』の方は、元の状態に立ち返る蘇生ではなくして『更に新しく生まれる』ことである。即ち元の状態よりも一段進化した形に於いて、新しく生まれるのが『甦生』の意義である」(『吉田亀太郎追憶集』67頁)

 吉田牧師は、基督の復活は「蘇生」ではなく「甦生」=字のごとく、更に新しく生まれることなのだと、語っています。キリストの新しい命、すなわち復活の命に新しく生きること。それが、復活だと言うのです。ですから、イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれるわたしたちにとって、死は決してすべての終わりではなく、キリストの命に新しく生まれることなのです。このことについて、吉田はさらに続けてこう語ります。

「死は人生の終局ではない。それは永遠に続く生命の一区切りに過ぎないのである。人々は徒(いたずら)に死を恐れる。然しそれは死の彼方の甦りの事実を知らないからである。・・・死が、終局でないことを信ずる者には、死の彼方に存在する生命の飛躍的な大進化たる甦りの麗しい姿を想見して、彼の心は喜悦にふるえるのである」。(『吉田亀太郎追憶集』69頁)

 わたしたちは自らの死に対して、あらがうことはできません。自分の死は、わたしたちが決して経験則で語ることのできない未知の領域です。そのため、わたしたちは死を恐れます。死がすべての終わりのように感じてしまうからです。しかし、キリストにおいて、この世の死は人生の終局ではなく、むしろ永遠に続く生命の一区切りに過ぎないと吉田は語ります。主イエスが十字架の苦難をたった一人で引き受けくださり、三日目に甦られた。このことにより、わたしたちには、決して朽ちることのない永遠の命とわたしたちの住むべき、永遠の住みかがすでに用意されているからです。それを知らされるとき、私たちの心は喜びにふるえるのだと、吉田は語っています。

 今は天におられる主イエスは、世界の終わりの時、再びこの世に来られます。その時には神を信じ、キリストを信じる者たちが共に甦らされ、主イエスが用意してくださった天の父の家に住むことになります。この天の住みかにおいてわたしたちは、神さまと主イエスと相まみえ、さらに既に主のもとに召された、わたしたちの愛する人々と再会を果たすことになる。ここに、わたしたちに与えられている希望があります。この復活の希望に思いをはせるとき、わたしたちの歩みは決して止まることはありません。わたしたちの歩みは新しく生きる復活の希望に向かって、常に新たに前進させられていくからです。

私たちは週ごとの礼拝において、み言葉の説教と聖餐によってこの恵みと希望を新たにされます。礼拝で語られる説教は目に見えない神さまの言葉であり、聖餐は目に見える神さまの言葉です。これらを通して罪の赦しと復活の希望がいつも新しく私たちに告げられるのです。主イエスはみ言葉の説教と聖餐によって、「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」と語ってくださいます。さらには「心騒がせることなく、神を信じ、わたしをも信じて、すべてを委ねなさい」と呼びかけてくださいます。

心騒ぎ立つようなこの世界の現実、私たちの生きる現実があります。そのような中でこそ、私たちがイエス・キリストのもとにある平安と希望を見つめ、主イエスに全幅の信頼を置いて、自らを委ねて歩んで参りたいと思います。共にお祈りをささげましょう。