2020年12月27日 まがさち(禍幸)

聖 書   マタイによる福音書21323

説 教   まがさち(禍幸)

2020-1227-Shyuujou

 2020年最後の礼拝を迎えました。今年は新型コロナ・ウィルス感染のニュースが中国・武漢から発し、わが日本では、2月の横浜港におけるプリンセス・ダイヤモンド号のからほぼ一年間にわたって毎日のように感染者の数のニュースが報道されてきました。

 その中で、教会も礼拝を休止し、インターネットでの礼拝を配信するようになりました。その後、6月末から礼拝を再開、インターネットの配信は続けられています。しかし、一年間、教会の諸行事や計画はすべて中止となりました。

 12月に入り、アドヴェント・クリスマスの期間になっても、本来は楽しみと喜びのクリスマスの諸行事は行えなくなったことです。その中で、本日の一年の終わりの聖日礼拝を、聖書のみ言葉に向かい合いたいと願うことです。

 いのちの誕生は、元来、喜びと感謝に満ちる出来事です。わたしたち、みなさんのご家庭において、子どもの誕生は、おおいなる喜びです。わたしたちの人生は、子どものことで一喜一憂します。子の病気、成長において、自らも年齢を重ねるものです。わたしたち自身がそのように家庭では、親から愛されてきたと思います。

 人生において、幼年期、少年期、青年、壮年と歩んでいく。そこには、期待、喜び、感謝の積み重ねの人生であります。しかし、生まれたことを嘆く人たちがいることも確かです。なぜ、生まれてきたのか。生まれなかったほうがよかった。そのように嘆き、悲しみ、憂い、絶望的な苦しみを覚える人もいると思います。いろいろな凄惨な事件がありました。そのような事件をみると、いのちの誕生はむしろ悔恨であり、嘆きであります。

聖書において、ヨブ記に示されたヨブの生涯は、まさにそのことに当てはまります。幸せの絶頂にいたヨブは、一夜のうちに、財産も子どもたちも失ってしまいます。しかも、自ら重い病気にかかってしまうのです。嘆き、病、死、悲しみ、辛さ、訴え、なぜ、生きているのか。それでも生きていかねばならないのか。ヨブは神と対峙していきます。ヨブは言います。「自分の生まれた日を呪って、言った。わたしの生まれた日は消えうせよ」「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」(ヨブ記3章1、11節)と。

今日の聖書交読では詩編137編を読みました。「幼子を捕らえて岩にたたきつけて」殺してしまいたいという惨たらしい詩編です。復讐者の黒い喜びを肯定するような詩編です。神を賛美する詩編の中に、この詩編があるのです。

 旧約に哀歌という書物があります。バビロン捕囚に遭ったイスラエルの悲劇が記されています。そこにも理不尽に惨たらしく殺される人たちが記されています。わたしたちは喜びのうちに、クリスマスを終えました。コロナ禍のために、いつもと違うクリスマスを送らざるを得ませんでした。しかし、現実はクリスマスであっても、世の中の出来事は不幸なことが多くみられるのです。まさに不条理です。

 今日の聖書、イエス様の誕生によりベツレヘムで幼児殺戮が行われた。聖書は、そのこ明らかにしています。2章16~18節ですね。

 お読みします。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

聖書には謎というか、理解できない箇所が多々ありますが、このところもその謎の一つです。ある意味では、占星術の学者が問題を引き起こします。星を観察して、探究心を起こして、はるばるイスラエルまでやってきたのです。占星術の学者は、星を観察してイスラエルの王が生まれると言うメッセージを受け取ったのです。そして、エルサレムのヘロデ王のところに行きました。

ヘロデは、残忍な王であったと言われます。身内の者を殺戮することで、王となり、自己保身のためなら何でもするという専制君主でした。現代でも、独裁者は自己の地位を守るために、どんなことでもします。そこには、人権などありません。

12月13日の礼拝で、マタイによる福音書2章1~12節から「二人の王」と題して説教しました。そのことを想い起していただければイエス様の誕生に際して、ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子が殺された聖書の記述は、実際はどうだったのでしょうか。本当に、このようなことが起こったのでしょうか? イエス様の誕生によって、このような悲惨な事件が引き起こされたのでしょうか?

一般的な解釈では、出エジプト記(エクソダス)にあるモーセの誕生に際して、同じように幼児の殺戮がエジプト王パロによって行われました。それにもかかわらず、モーセは生き延び、モーセによってイスラエルの民をエジプトから脱出させ、救いを実現するという神の計画が実現するのです。聖書はイエス様の十字架は第2の出エジプト(エクソダス)として、位置付けています。イエス様はモーセ以上の救い主である。そのために、幼児殺戮の事実というよりもむしろ、イエス様はモーセ以上の存在なのだということを強調するための記事であるという解釈です。

しかし、それでもなお、殺された幼児たちの死の意味は解決されません。イエス様の誕生に際して、天使の合唱、羊飼いたち、東からの占星術の学者たちというクリスマスの華やかさとは異質のクリスマスの悲劇がそこにあります。

イエス様が成長されて、ご自分のために幼児殺戮があったことを知られた時の主の胸の内はいかばかりであったろうか? それさえも神のご計画であったということであれば、神は人の命を恣にされるヘロデ以上の専制君主ということになります。しかし、神は愛である。これは決して誤りではありません。虚偽でもありません。では、なぜ愛なる神が、救いイエス様の誕生のために、よりによって幼児虐殺が引き起こされるようなことを容認されたのだろうか? これが先ほど謎だと申し上げた所以です。

聖書はそこで注目すべき言葉を選び、記しています。選択したというべきか、何か別の意図があって、そう記しているように思われます。すなわち、

「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉です。エレミヤ書31章15節から引用される言葉です。すでに旧約の預言者たちによって預言された神の言葉が成就したというのです。実は、この成就したという言葉は1章22節にも出てくるのですが、2章では15節、17節、23節です。これは、旧約に著された聖書の言葉が実現・成就するための必要事項であって、イエス様には責任はないのだというばかりです。

 12月6日に「神の言葉の成就」と題して説教しました。

イエス様の誕生も、聖書の預言の成就であり、2章13節からのエジプトに逃げるのも、幼児が虐殺されるのも、19節以下にあるようにエジプトから帰国するのも、聖書の実現と言うわけです。それは、神の計画にあったということです。

では、幼児の殺戮は神の計画であったのか? もしそうなら、やはり、神は残虐な神であると言わざるをえません。そういう神が、果たして愛と言えるでしょうか?

さて、わたしたちはクリスマスを喜びの時として過ごしてきました。一ヶ月間のアドヴェントで気分を高め、待ち望む喜びと期待を膨らませてきました。特別なシーズンでした。

しかし、クリスマスだからと言って、素直に喜べない人もいると思います。今年もいろいろな事件がありました。コロナ禍の中で家族を失った人。テロで亡くなった人たち。

人の死を現実にして、素直に喜べないものでもあります。

 マタイ2章16~18節の記事は、そういう人たちのために記されたクリスマスの物語であると考えます。

 生まれたばかりの乳飲み児が多数殺された。幼児虐殺です。母親、父親のみならず、身内の人たちの悲しみ、憤りは察するに余りあります。しかも、救い主イエス様の誕生によって惹き起こされた、悲惨なニュースです。歴史は、こうした無差別殺戮を起こしてきた専制君主たちを枚挙に暇なく挙げることができます。21世紀の今もなお・・・

 イエス様が成人され、ご自身の生誕の時に、自分と同じ幼児が無数に殺戮されたことをご存知になったとき、その胸中はいかばかりであったでしょうか。しかも、それはご自身の身代わりの死なのです。

 すでに、イエス様の誕生は凄惨な死のイメージに覆われています。メリー・クリスマスではないのです。

母親、父親はそのイエス様を罵るでしょう。 

「汝がために、わが子は殺されし・・・、それが神の計画であるなら、われ、神を信ぜじ・・・」

 それにもかかわらず、イエス様は屠られて行く羊のように、黙して死なれました。その生涯を豊かに、明るく、悔いなく全うすることから程遠い命を生きた、無数の人たちの死を覚えるように。生きてきたことのあかしも、意味もなく、無残に死んだ夥しい人たちのことを身に負ってイエス様は死なれたのです。 

 (イエス様の誕生はすべての人のいのちのため)

 運命づけられたいのち、それは神の御手のうちにあるいのちです。-恐怖、恐るべき事柄、冷徹、人の命に引換えて、自分の息子を殺すというありえない事柄。神とイエス様の関係は、アブラハムとイサクの関係でもあります。

 十字架、それは、すべての人間のまがさち、悲しみ、不幸、を引き受けてくださったのです。

コロナ禍の中でのクリスマスでした。永遠の相のもとで、いまの時を観る時、すなわち、   90年、100年は一瞬のような時間の経過でもあります。しかし、そこに生きた人々、わたしたち一人ひとりは、かけがえのない命を生きている。永遠と一瞬、瞬間的な時間のなかにあって、永遠の神は今のわたしたちと係わってくださる。イエス様の十字架において。

クリスマスはすべての人の哀しみと苦しみをも共に担う決意を表しています。畢竟、すべての人の命は意味があり、貴く、神にあってはかけがえのないものであることを聖書は降誕のメッセージとして語っているのです。

 ですから、無数の幼児の死、歴史的に失われた不条理のような死、自爆テロ、パレスティナ、ナチスによる数百万のホロコースト、第二次大戦で亡くなった多くの人々の死、ガナルカナル、インパ-ル、沖縄、東京大空襲、広島、長崎は無駄ではないのです。

彼処において、もう一度互いに会うことができる。復活と再臨です。イエス様の降誕と復活は、すべての人の生と死を価値あるものとし、意味あるものとされるのです。これがキリスト教なのです。

 あなたの苦しみは無駄ではない。労苦は意味があるのです。

この一年、主のために労苦したいと思います。わたしたちの主にあってなすこと、行うことは、何一つ無駄になることはありません。汗を流して、働き、種まきをしましょう。

神は必ず豊かな刈入れ、収穫を与えてくださいます。

祈ります。

主なる神

生きることと死ぬことは、みなあなたの御手のうちにあることを信じます。クリスマスの喜びの余韻の中にあっても、苦しみ、哀しみに満たされた人たちは世界中にいます。あなたはその哀しみと苦しみを持つ人と共におられます。また、喜びをもって新しい年を迎えた多くの人ともおられます。

 すべてにおいて、あなたの栄光が現され、神の然りがそこに見出され、祈られるように、ご自身を現してください。

 讃美歌331番「この世のまがさち いかにもあれ

        さかえのかむりは 十字架にあり」




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