2023年3月17日 受難節第5主日礼拝
聖 書 ルカによる福音書11章1~4節
説 教 御心が地に
わたしは、洗礼を受ける方に対して、このように述べています。
「クリスチャンには、三つの責任がありますよ。これは日本のまた世界中のどの教会に行ってもつきまとう責任です。あなたはキリストにあって新しく生まれ変わった人間です。生まれ変わった(born again)のですね。聖霊によって新しくされたのです。
今までは、自分のためだけに生きてきた。自己中心です。これからは、自分を神に献げて生きていくのです。自分の体は、もはや自分だけのものではない。神のもの、神の栄光をあらわすために生きていくのです」
そのように宣べ伝えます。
そこで、三つの責任とは、何か? 第一に礼拝に出ること。神を第一とすることです。
神を第一にしないありかたは、これは自分を第一にすることです。大多数の人の生き方、あり方です。クリスチャンになっても、この生き方がなおりません。牧師でもそうです。
自分を第一としている生き方は、自分を喜ばすことが優先されます。
自己都合が第一です。それに対して、神第一とするとは、自分のことより神のことを優先させます。そのことが、結果的に自己のことが祝福されるからです。
自分のこころと体、霊において、神の恵みと慈しみに生かされている。いのちは、神から来ている。それを告白すること。それが礼拝ですよ。そのように述べます。
第二は献金です。自分の働きによって生じる収入、この十分の一を神に献げる。これが旧約聖書以来の定めでもあります。これは、自分のものはすべて神から与えられたという信仰の告白でもあります。献金は、教会を支えます。教会の宣教のために用いられるのです。牧師が安心して伝道と牧会の働きができるために。教会の事務や活動費に当てられます。礼拝するための会堂を建てるということもあります。
第三は奉仕ですね。奉仕は、ディアコニアとギリシャ語では記されています。英語ではサーヴィス(service)です。仕えるという意味です。もともと、奴隷が主人に仕える。そのような意味で用いられています。そこから、神に仕える。礼拝。礼拝もServiceなのです。出エジプト記では、神に仕えるために休みをください。ここから離れて礼拝したいのです。とモーセはファラオに言います。
僕として、ご主人様である神に仕えます。神はMasterでありLordです。主なのです。
奉仕にはいろいろあります。聖書的には、奉仕の賜物が与えられています。説教、預言、癒し、援助、管理、異言を語るなどがあります。現代の教会では、説教者は教えと預言の賜物、長老・役員は管理の賜物でしょうね。また、ピアノ、オルガンの奏楽、教育(これはCS、青年の教育)などがあります。
聖霊なる神様からいただく賜物を通して、神に仕えるのです。神に仕えるというのは、教会に仕えることであり、それは世に仕えることでもあるのです。これは大事なことです。
それは自分が神となり、仕えられるのではなく、自分が神と教会と世に献げていることなのです。
そういうことを、洗礼を受ける前に申します。それを神と会衆の前で誓約するのです。残念ながら、洗礼を受けても教会に来なくなる、献金も奉仕もしなくなる。そういうことがあります。そういう人もいらっしゃいます。2000年の教会の歴史で、沢山あるのです。聖書にも、旧約・新約において、その危険性と神から離れた人たちのことが記されています。
主の祈りを講解説教していますが、本日は「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
読まれた聖書はルカによる福音書11章1節から4節ですが、実は、ルカにはこの「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」はありません。マタイによる福音書6章9節には「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とあります。わたしたちが普段、礼拝で祈る主の祈りは文語訳です。
では、「みこころが行われる」とはどういうことでしょうか。
みこころとは、神のこころです。神のこころとは何でしょうか? ギリシャ語はセレマ(θελημα)です。ご意思ですね。命令、決意の意味もあります。
イエス様の使命は神のみこころを行うことです。マタイ6章9節は、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。
「御国が来ますように」先週の礼拝説教で取り扱いました。神の国、天国です。
イエス様は御国をこの世において現すために来られたのです。その中で、父なる神の御心とは何でしょうか?
「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行なうためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行なうためである」(ヨハネ6:38)とあります。
そして、ゲッセマネにおいても
「わたしの願い通りではなく、御心のままに」
と祈られるのです。(マタイ26:39)。
父と子は一体です。御国でも、この世においても一体です。
御国を来たらせたまえと祈る時、イエス・キリストにおいて、すでに御国は来ているのです。御心が天で行われている、そして地にも行われるとは、キリストにおいてすでに行われているのです。
わたしたちが信仰を全うして、神の国に召されます。これがわたしたちの信仰です。永遠のいのちに与っています。神の国の現実に生きるのです。御国は、愛そのものがあるところ。イエス様が光であられるように光そのものが、御国です。
その御国で何をするのでしょうか? 礼拝です。讃美歌544番です。
地においても、かしこにおいても、神を礼拝する。これが中心です。礼拝は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛すること。そして、自分を愛するように隣人を愛すること。」(マルコ12章29節)
御心とは、愛です。ご自身が模範となられたのです。イエス様ご自身は、愛そのものでした。互いに愛し合うため、これが父とイエス様のご意思です。その愛の見本、お手本を御子イエス様がご自身で現されるために、この世においでになったのです。
そこには、
1.父と子との一体性があります。
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)
父の命令、決意、意思を行う。それがイエス様の使命なのです。
それがイエス様の見本、手本、模範でした。
それは十字架です。十字架の愛です。自己を死に至らしめるほどに世を愛し、隣人を愛されたのです。
2.子は、父に従順ということです。
従うことです。十字架の死に至るまで従順でした。わたしたちキリスト者は、イエス様に従うのです。どういう形で従いますか? 友を愛することにおいてです。愛がなければすべてがむなしい(Ⅰコリント13章2,3節)なのです。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハネ15章 12節
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。15章 13節
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。 15章 17節
3、父は子に栄光を与えられた
復活、昇天、聖霊降臨、そして御国の支配、権威をお与えになったのです。
それは、イエス様とわたしたちクリスチャンとの関係でも言えます。
1.クリスチャンとイエス様(教会)とは、一体性ということ
2.わたしたちは、イエス様(教会)に従う
3.イエス様は御国の栄光をわたしたちに与えられる。
御国の中心は、礼拝です。
喜び、自発性、自由です。僕でありながら、そこに喜びと感謝を持つ。
基本は愛。
ヨハネの手紙一 4章 7節
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4章 8節
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
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