2023年10月1日 聖霊降臨節十九主日礼拝
2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝
聖 書 マタイ21章28~32節
説 教 何が基準?
ローマの信徒への手紙を連続講解説教してきましたが、前回で終了しました。月に一度、旧約聖書、出エジプト記の講解説教をしていますが、新約聖書については、これからしばらくは、示された箇所から説教することにしました。
1.二つのテーマ
聖書は、旧約聖書、新約聖書を通して兄弟関係をテーマにしています。兄弟の相克と申しますか、葛藤です。カインとアベル、イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ヤコブの12人の子どもたち。創世記ですね。長子権を巡っての争いです。同時に、親の愛情を巡っての兄弟の葛藤でもあります。
つまり、兄弟同士の葛藤と相克が一つのテーマであり、もう一つ、兄弟と父、それは神ですが、その関係のテーマがあるのです。兄弟と神をめぐる関係です。
とくに新約聖書では、放蕩息子が有名ですね。ルカ15章です。
兄弟のことですが、創世記4章ですね。神が人間アダムを土から創造されます。また、アダムのあばら骨からエバを創造されます。その二人によって、カインとアベルの兄弟が生まれます。しかし、神への献げ物をめぐって、兄のカインは弟のアベルを殺すのです。兄弟仲が悪いのですね。弟を殺すほどの理由があるのだろうか。そんなことを考えます。神をめぐってです。今の宗教戦争でもそうです。神をめぐって、民族間で同じ人間同士が殺しあっている。
兄弟の争いや葛藤を聖書は隠すことなく記しています。イサクとイシュマエル。アブラハムの息子たちです。これは、母親同士の葛藤が問題でした。エサウとヤコブの兄弟仲も悪いですね。弟ヤコブは兄のエサウを出し抜き、長子の権利と祝福を奪うのです。それで殺されそうになり、逃げ出します。
ヤコブの息子たちは12人いますが、11番目のヨセフと他の兄弟の仲も悪く、ヨセフは殺されそうになります。エジプトに奴隷として売られるのですが、そこで聖書は決定的な展開を進むことになります。出エジプトの出来事です。
兄弟は、仲が良くても悪くても歴史を作るのです。いのちを継承していく過程で、個性がぶつかります。
本日の聖書の箇所も兄弟の話です。
28節以下を読みましょう。
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
ここでは、兄弟間の問題というよりむしろ、父と息子の関係のことが重要であるかもしれません。兄は父の求めに対して、「いやです」と即座に拒否しましたが、後で考え直して出かけました。弟は「承知しました」といいながら、結果的に出かけず、父の求めを拒否したのです。
31節
「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
ここで兄、弟の問題が起こってきます。どちらが父に従順であったか、という問題です。兄弟の葛藤、相克というのは、親の愛情を巡って生じます。聖書の関心事は親の愛情が大なのです。親の遺産とか財産、成人しての権力争いなどがありますが、聖書はそのことに関しては沈黙しています。関心事ではないのです。
実は他の訳、たとえば口語訳(新共同訳の前の訳です)、新改訳(1970年版)では、兄が「行きます」と言いながら行かず、弟は「いやです」と答えますが、結果的に考え直して行く。そういう訳になっています。聖書は、兄よりも弟が重んじられていることがあります。
なぜ訳が違うのか? 底本(ていほん、そこほん、そこぼん)の違いです。聖書はオリジナルがない。聖書考古学。一等最初の原本がないことによります。もともと、書かれた書物、当時は、羊皮紙、あるいは定本がない。筆写で書き写していたため、ところどころ書き間違ったり、筆写する人の解釈で勝手に訂正されたりすることがあったのです。いろいろな異本が生じたのです。後世、学者が比較して何が原本に近いか。それが学問研究に至ることになったのですね。
このたとえは、イエス様がエルサレム入城後のことで、ここから受難週に入っており、その受難を前にしたイエス様のたとえを語っていることです。そこでは、祭司長や民の長老たちがイエス様に対してすきあらば、イエス様の言葉尻を捕らえて逮捕し、殺そうと企んでいたのです。
2.何が基準・・・? それは従順さ
本日の説教題は、「何が基準?」としました。本質的な問題は、父に従順であるかということです。父とは、神ご自身であります。神のみこころに忠実で従順、従う心があるかどうか。それが一番の聖書の関心事なのです。
従順ということは、神のみこころに従うということです。おおよそ、信仰とはこの従順をいいます。信じることは、従うことなのですね。神のしもべとなる。
聖書に、
それをわたしはあなたたちの先祖に命じたが、彼らは聞き従わず、耳を貸そうともしなかった。彼らはうなじを固くして、聞き従わず、諭しを受け入れようとしなかった。
エレミヤ17:23
うなじが固いというのは、強情、頑固で素直でないことを言います。
彼らその項を強くして、わが言を聽かざればなり
文語訳です。口先では、「はい、はい」と素直そうでいながら、腹の中は反対で、反抗と裏切りのこころでいっぱいなのです。
これがイスラエルの指導者の信仰というのです。律法学者、パリサイ人、長老たちをさします。それに対して、彼らから駄目人間、罪人として軽んじられ、無視されている徴税人や娼婦たちが、外見は罪人だが、心は素直で神に向かっているというのです。
32節にあるとおりです。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。
ですから、兄がいいとか弟がいいという問題ではありません。ここにおられる教会の皆さんの中でも、兄の人もいるでしょうし、弟もいるでしょう。お姉さん、妹もいらっしゃるでしょう。わたしは、5人兄弟の末っ子で弟の立場です。
大切なこと、従順さということです。自分を正しい、義であると自認しているファリサイ派の人たち、律法学者ではなく、彼らによって罪人とされている人たち、徴税人や娼婦たちこそが神の国に入るにふさわしいとイエス様は言われるのです。
従順さとは、神の言葉を聞いて、受け入れること。たとえ、罪を犯した人であっても悔い改め、イエス様に従うことを言うのです。
ルカによる福音書15章では、放蕩息子のたとえ話があります。放蕩し放題の弟が罪を悔い改め、父なる神の御許に立ち帰る姿があります。それに対して、品行方正な兄は、そんな弟が帰って来ても喜ばず、むしろ邪魔者扱いをするのです。それがファリサイ派、律法学者だというのですね。
先ほど、このたとえは、イエス様がエルサレム入城後のことで、ここから受難週に入っており、その受難を前にしたイエス様のたとえを語っていると申しました。十字架の死を四日後に控えて、イエス様は父なる神への従順さと合わせて、このたとえを語られるのです。
それは、キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 フィリピ2章6~8節(口語訳)
イエス様はご自身に従順な人たちを求めておられるのです。
祈ります。
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