2022年2月20日 降誕節第9主日礼拝

2022.0220.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙 8章1~8節

説 教  霊の法則による解放

 1.霊の法則、罪と死の法則

 本日、読まれた聖書を読みますと、7章から8章にかけて何度も使用される言葉があります。それは法則という言葉です。2月6日の礼拝説教では、「こころの法則、罪の法則」と題して説教しました。その時、申し上げたことですが、善と悪の葛藤とこころの分裂の危機が見られるということです。そこでは、心の法則、罪の法則という言葉が出てきます。

 7章21節「悪が付きまとっているという法則」、23節「五体にはもう一つの法則」「心の法則」「五体の内にある罪の法則」ですね。

また、21節の「内なる人」としての神の律法という言葉。これも法則です。

 ギリシャ語原典では同じ言葉なのです。法則は、「戒め」「律法」「原理」とも訳されます。もともとは、ノモスというギリシャ語です。翻訳上、苦心して訳しているのですね。ちなみに、英語訳はlawです。(KJV)(2月6日「こころの法則、罪の法則」)

 8章に入りましても、この法則という言葉が出てきます。1節、2節です。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」

 ここの1,2節は非常に大切な言葉です。7章で法則と言うことばを使いました、パウロが一番言いたいことは、これらの罪と死の法則から、キリストにある者はすべて解放されたのだということです。なぜなら、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が新たにもたらされたからです。ここに新約における画期的な神の恵みがあるのです。

 先週の礼拝では、イエス様はわたしたちが本来負うべき呪いを引き受けて十字架につけられ、呪いから解放してくださったと説教しました。それは、十字架の贖いが滅びという審きから永遠のいのちへと変えられたからです。

 ローマ書8章ではこのことを、「いのちをもたらす霊の法則」と記すのです。イエス・キリストを信じるということは、キリストの十字架はわたしの罪を赦し、滅ぶべきわたしが永遠のいのちをいただくことを信じたからです。

 これは神が定められた霊の法則、原理、決まりなのです。ハレルヤ!

 初代教会当時、教会の人たちで語られた有名なたとえ話があります。分かち合いましょう。ある金持ちが死にました。生前、信仰をもち、多額の献金を献げて教会に貢献しました。多くの慈善事業にも携わり、教会のみんなからも信頼されていました。それで天国に行けるものと思っていたのです。天国の門で、天使が尋ねました。「合い言葉は何ですか?」 きちんとした身なりの紳士は答えます。「わたしは教会に多額の献金をしました。道徳的にも潔癖な生活を送ってきました。人々から賞賛と尊敬を受けてきたのですから、もちろん、天国に入ることができますよね」

 しかし、天使は答えます。「それは合い言葉ではありません。あなたは入れません」

この金持ちで慈善事業家は悲しみながら立ち去りました。次に別の立派な人が門の前にきました。天使は尋ねます。「合い言葉は何でしょうか」

 彼は答えます。「わたしはこころを尽くして主なる神に仕えてきました。クリスチャンとして善行の限りを尽くし、多くの大学が名誉博士号を授けてくれました。天国に入る資格は十分にあると思います」

 しかし、天使は答えます。「それは合い言葉ではありません。あなたは真実の王を知りません」

 りっぱな身なりの人が去って、次に年老いた女性が来ました。天使に合い言葉を尋ねられると、この年老いた女性は手を高く上げて、賛美を始めました。

「血、主イエス・キリストの血潮こそ、わたしの救いのすべて

 ハレルヤ! 主の血潮はわたしをきよめます。

 ハレルヤ! 主の血潮はわたしをきよめます」

 すると、すぐさま天国の扉が大きく開かれ、年老いた女性は天国に招き入れられたのです。伝説であり、言い伝えです。単純な物語ですが、真実でもあります。

  聖歌総合版 449番 ♭ 次のような賛美がありますね。

罪のけがれを 洗いきよむるは イエス・キリストの血潮のほかなし

  イエスの血潮 ほむべきかな われをあらい 雪のごとせり

2.肉と霊

次に、聖書を読み進めていきますと、肉と霊の二つの言葉が何度も出てくるのが理解できます。5節以下を読みましょう。

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」

 「肉」という言葉と「霊」という言葉が交互に何度でも出てきます。特に、「肉に従って歩む」、「肉に属する」「肉の思い」そして、8節「肉の支配下にある」

これに対して、霊は、「霊に従って歩む」、「霊に属する」、9節「霊の支配下」という具合です。この霊とは、聖霊を意味します。キリストの霊、神の霊である聖霊です。

 ここで語られる肉とは、神と敵対する罪の性質と言えるでしょう。7章から学んできましたように、善いことをしようと願ってもできず、むしろ悪を行い、罪を冒している。そういうわたしたちの内にある罪の性質のことです。そのことを聖書は、罪と死の法則というのです。

 さて、肉と霊は対立するものとして考えられていることは明らかです。肉とは、わたしたちのからだを意味しているのではありません。からだは、生きている証しです。衰えてはいきますが、からだ自体は悪でも罪でもありません。

初代教会の時代、からだは、肉だから悪だ。腐敗する。とくに、欲望を生み出し、欲望のとりこになるとして、極端にからだを罪悪視する傾向がありました。からだを軽視し、心、精神、霊的なものを重要視していく傾向があったのです。そのために修道院を作って、できるだけからだを衰弱させ、からだを無価値なものにしようとしました。結婚の軽視もそうです。しかし、聖書は、そうは言っていません。むしろ、健全なからだに健全な精神、健全なこころが宿るのです。肉体、からだとこころはバランスよくつながっているのです。

ガラテヤ書5章16節以下にはこのように肉の性質のことを記しています。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、  ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」

 同じように、聖霊によって歩むことを次に続けて記しているのです。

パウロは、この歩む、従うという言葉が大好きでした。ガラテヤ書5章にも霊の実と肉のわざということで、記しています。5章16~25節

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」

3.聖霊の法則、聖霊に従って歩む

 この罪と死の法則を超えるものこそが聖霊の法則であります。わたしの娘は、東京に住んでいます。埼玉にいた時は、一緒に住んでいたのですが、仙台青葉荘教会に赴任して別々に住むようになりました。年に2,3度親の許に帰省するのですが、その時は新幹線を利用します。娘は方向音痴の要素があります。今時の若い人には珍しいと思います。また、車や電車などの乗り物に乗るとすぐに寝てしまうのです。

 ある時、こういうことがありました。12月の終わりころ、正月休みで帰省する時に、仕事を終えて、最終の新幹線に乗ったのです。それは、仙台行きと山形行きの両方の車両が連結した新幹線でした。娘は急いでいたので、新幹線の前の方の車両に乗り込んだのですね。寒い夜で暖かな新幹線の車両に座ると、疲れですぐに寝込んでしまったのです。

 実は、この新幹線は福島駅で前の山形行きと、後ろの仙台行きの車両が切り離されるのです。娘はそのことを知らないで、終点まで寝込んでしまったのですね。駅に着きました。仙台駅だと思って新幹線を下りました。改札口を出たら、その駅は山形駅だったのです。

 最終の新幹線で、福島に行く新幹線はありません。どうしようかと、思案して、駅から我が家に電話をしたのです。わたちたちは、電話があった時、娘は仙台だと思いました。しかし、山形駅だったのです。それでどうしたと思いますか。自動車で山形まで娘を迎えに行ったのです。2時間ほどして、山形に着きました。駅はほとんど無人で人の出入りはありませんでした。駅のそばのホテルのロビーで待ち合わせました。それから無事に仙台に戻ることができました。

 このたとえは何かと申しますと、聖霊の法則と罪と死の法則のたとえでもあります。間違った車両に乗ると、違った場所に着くのです。わたしたちは電車に乗っていると、そのまま目的地に連れて行ってくれます。同じように、罪と死の法則という電車に乗っていると、この電車は罪というレールにのっかかっていますので、このレールは死と滅びにつながっているのです。乗り換えなくてはいけません。聖霊の法則という電車に乗り換えて、永遠の命につながるのです。

 これが信仰です。この切り替え、乗り換えることを悔い改めといいます。悔い改めとは、方向転換を意味します。肉の思いに支配されていたわたしたちが、解放されて聖霊の思い、神の思いに支配される。切り替えていく。

 教会に来る。信じて、教会の交わりにつながっている。これも聖霊の法則にのっかかっていることです。わたしたちは、神の国行きの電車に乗っているのです。その電車に乗る。これが教会です。しかし、その旅路は順調には進まないことがあります。風や嵐で止まったり、電気系統の故障で立ち止まり、待たされることもあります。

 わたしたちの信仰生涯も順風満帆でないことだってあるのです。困難、苦難、障害、足を引っ張るもの、サタンの誘惑でこの電車から降りて、別の電車に乗りなさい。快楽を味わいなさい。そういう誘惑だってあるのです。

 しかし、最後の勝利は神を信じ続ける人にあります。神の恵みによって、神は必ず豊かな祝福を与えてくださいます。それが神の約束なのです。ですから、わたしたちはどういう法則に従って生きていくか、歩んでいくか、属するか、支配下にあるか。それが大切な決断なのです。信じて、聖霊に従い、聖霊に導きによって歩みましょう。




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