2021年11月21日 降誕前 第5主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙6章15~23節
説 教 どちらを選びますか
わたしたちの人生において、重要な局面で二者択一を迫られる時があります。皆さんもそのような時を経験されたことがあろうかと思います。
とくに青年期においての二者択一は、その後の人生において大きな転換点となります。
大学受験で二つの大学に合格した。どちらの大学に行こうかとか、二人の男性から求婚された。どちらを選ぼうか。価値観の違い。魅力。結婚、就職、転職、人間関係、旅行、友人
など。人生の分かれ道に差し掛かって、どちらに行こうかと迷うことがあるのです。その時、選ぶ基準は何でしょうか?
聖書においては、二者択一の物語が多数記されています。たとえば旧約聖書ですね、アブラハムとロトの故事があります。創世記13章です。
アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。甥のロトと行動をともにしていたのですが、お互いに羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった、とあります。そのため、アブラハムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そこで、アブラハムはロトに言うのです。
「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで 別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あな たが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一 帯は、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。
アブラハムは年長者です。甥のロトに先に選ばせ、残りをアブラハムが取るのですね。選ぶのは、先に選んだものですが、残った物は、選ぶとはいいません。しかし、神はそのアブラハムを祝福されます。よいものを選んだロトは、結局は失敗するのです。見た目がいいので、それを選んだのですね。しかし、そこは滅びの町だったのです。ソドムとゴモラという腐敗の町だったのです。潤いのある園、経済的に恵まれた地を選んだのですが、滅ぼされたのです。
二つのうち、ひとつを選ぶとき、もう一つの選ばなかったものは失うことを意味します。それは、捨てることです。二兎を追うことはできない。両者を天秤にかけて、魅力あるもの、価値があるもの。そう感じて選ぶのです。しかし、選んだことが失敗して、後で後悔することもあるのですね。
わたしたちの人生は、何事においても、この選択による人生を歩いているのです。
今日の聖書、ローマの信徒への手紙6章15節以下です。ここには、自由と奴隷という二者択一が記されています。自由と奴隷というと、わたしたちは奴隷よりも自由がよいと当然理解しています。だれかの奴隷であるよりは、自由がよいに決まっています。しかし、聖書は、自由と奴隷の本質的な意味を問うているのです。
子どもの頃、母親の言いつけでよくお遣いをさせられました。スーパーとかコンビニがまだない時代です。近所のお店まで買い物に行かせるわけです。はじめは素直に「ハイ」といって、お遣いに行くのですが、大きくなるにつれて、「いやだ! 今、宿題している」とか、「友だちと会ってくる」とか言って拒否するようになります。しかし、母親は執拗に用事を言いつけるのです。「買い物に行って・・・」とか「掃除を手伝って・・・」だとか「肩がこったので、肩たたきして」とかです。そこで、ついに子どものわたしは最終兵器を使うのです。「僕は、お母さん、あなたの奴隷ではない。自由なんだ!」
「僕は自由だ。あなたの奴隷ではない」と言われた時、母親はどんな気持ちだったでしょうか? 悲しみ、嘆き、あるいは憎たらしさに満たされたことでしょうか。
「あなたを生み、育てたのはわたしよ。わたしはあなたの奴隷のようになってあなたを育てたのよ」
母は、そう言うこともできたと思います。しかし、そんなことはこれっぽっちも言いません。子どもを育てることが喜びであり、自発的に母の生涯を子どもに献げたのです。
東西冷戦の時代、東側の人たちは自由を求めて、命がけで鉄のカーテンである壁を越えようとしました。西側に逃亡する人たちを東側の警察や軍隊は容赦なく射殺しました。自由のない東側で生きるよりは、たとえ殺されても自由を求めたのです。
聖書がいう「自由と奴隷」は、わたしたち人間にとって本質的な問題であります。わたしたちは、誰の奴隷にもなりたくないと思います。そして、そう行動し、生きています。しかし、厳密に言うと、本当の自由はないことを聖書は教えています。
17節を読みましょう。
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
奴隷は主人に対して絶対服従をしなければなりません。命令を忠実に守り、時に命さえ差し出し、奪われることもあるのです。主人の所有物であり、付属品なのです。
わたしたちはキリスト者になる前は、罪の奴隷であったというのです。しかし、キリストを信じ、洗礼を受けた今は、罪から解放されて、自由の身となったのです。そのことを聖書は、義に仕えると言うのです。義に仕えるとは、19節にあるように、「義の奴隷」となることなのです。22節では、「神の奴隷」となったとさえ言うのです。
しかし、罪の奴隷の時は、滅びと死ですが、義の奴隷、神の奴隷となった今は永遠の命なのです。
先週の説教は、「道具の使い方」という説教題でした。12節から14節でした。以下は、13節の「義のための道具」と「不義のための道具」という相対立するものです。また、
今日の15節から23節までを分かり易く表にしました。
義のための道具(13節) | 不義のための道具(13節) | |
神に従順に仕える奴隷(16) | 罪に仕える奴隷(16) | |
解放、義に仕える(18) | 罪の奴隷(17) | |
義の奴隷として献げる(19) | 不法の奴隷(19) | |
自由の身(20) | 罪の奴隷(20) | |
神の奴隷(22) | 死(21) | |
永遠の命(23) | 罪の支払う報酬は死(23) |
イエス・キリストの十字架の贖いは、罪と死から解放した。
わたしたちは、生きている間は、誰かの奴隷として仕えていくのが定めです。欲望の奴隷、罪の奴隷となるか、罪から解放されて、キリストのしもべとなるか。その中間はないのです。その決断はわたしたち人間にかかっているのです。
聖書は神の奴隷となるか、罪の奴隷となるのかと問いかけるのです。罪の奴隷は滅びであり、死であります。しかし、神の奴隷は命であり、罪からの解放であり、自己を生かす道なのです。
どちらを選ぶか? もちろん、滅びでも死でもありません。いのちです。それも空しい命、罪のなかでのたうち回る命ではありません。解放された、自由ないのちです。
藤原兄のこと
天国の鍵
譫妄、意識混濁、奇妙で脅迫的な思考や幻覚や錯覚が見られるような状態
興奮、焦燥感、奪われる恐怖、絶望感、サタンに引き回され、地獄に行ったかのような恐
怖感。時々、助けてくれと叫び声をあげるのです。
平安、喜び、感謝、穏やか、ニコニコしてきた。
イエス様の現臨、聖霊の臨在 天国の迎えが来た。
20節
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
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