2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝

2021-0905-Shyuuhou

聖 書   ローマの信徒への手紙5章3~5

説 教   与えられ、持続する希望

 キルケゴールというデンマークの思想家に「死に至る病」という著書があります。わたしの愛読書ですが、こういう書き出しから始まります。

「人間とは何であるか? 人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである 」

何か頭がこんがらがってしまいそうですが、これが「死に至る病」の有名な冒頭なのですね。わたしは、高校生のときに読み始めたことがありましたが、難しくて、歯が立ちませんでした。その後、大学入学して再挑戦、都合5,6度は繰り返して読みました。そして、ついにこの書物が一つのきっかけで神を信じるにいたるようになりました。

死に至る病とは、「絶望」のことです。ヨハネによる福音書11章4節からとられています。希望を失い、生きる意欲、希望が絶たれるということです。

わたしたちの人生において、希望を失い、挫折し、苦しみ、悩み、力を失い、意気阻喪し、感情の起伏が激しく揺れ動き、定まらない。そういう時期があります。まさに、今がそういう時だといえるでしょう。

昨年から現在にいたるまで、わたしたちは、そして世界は、新型コロナウイルス感染のパンデミックの中で、コロナウイルス感染の恐怖と不安が襲ってきています。そこからくる経済の低迷。そして、地球温暖化による気候変動のために今まで経験したことがない大雨、暴風雨、土砂崩れ、大地震など迫りくる終末への不安が押し迫っています。

小学生から大学生にいたる若い人たち、これからという世代の人たちが将来の希望を抱くことも少なくなっていると言われます。

気候変動だけではありません。国際政治情勢では、アフガニスタンのアメリカ軍の撤収、テロ、中国の台頭と圧倒的な軍事力の脅威。ミャンマーではクーデターのよる軍事政権。

まさしく、希望が持てないジレンマが生じています。

詩編89編、90編では「いつまでですか」と嘆き祈り、神様の助けを求めるところがあります。悩みと苦しみ、絶望の中にいます。主よ、いつまでですか。いつまで、このように苦しみ、悩まなければならないのですか? そう訴えています。

このパンデミックの苦しみのために、主よ、いつまでですか。そう叫び、祈るものです。

でも、聖書は言います。どんなに苦しみがあっても、悩み、つらさ、痛み、失望することがあっても、絶望してはならないと。なぜなら、1節

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 ここにキリスト者の希望があるのです。また、3節からでは次のように記されています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

この聖書の箇所から三つのポイントでみ言葉に聞きましょう。

1.苦難を誇る

第一は、苦難を誇るというのです。「艱難を喜びにしている」という別の訳もあります。苦しみや悩みを誇り、喜ぶとはどういうことでしょうか。そこに希望があるからです。2節に戻りますが、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とあります。神の栄光にあずかる希望が与えられていることを誇りとしているのです。そこで、3節に「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と続くのですね。

前回の1節2節では、信仰によって義とされていること。そのことによって、神との間に平和を得ていること、とあります。神の栄光にあずかるとは、永遠のいのち、神の国の祝福に入れられた大いなる恵みです。

その希望があることにより、苦難、艱難はむしろ神の国に入るための第一歩、入口のようなものだというのです。この世の人たちが経験する苦しみや悩み、艱難であっても、その先に神の国の栄光を見ているのです。

なぜなら、その次の段階があるからです。

2.苦難は人を成熟に至らせる

苦難は忍耐を生む。これが聖書のメッセージです。忍耐とは、ただ、我慢するというだけでなく、確固不動の信仰をもって積極的に生きるということです。不屈の精神ですね。

ギリシャ語の原典では、忍耐はヒュポモネーです。ヒュポ、「重荷の下に」。モネー「とどまる」の合成語です。重荷を負って留まる。重荷を負い続けることを言います。 

ヘルマン・ヘッセに「車輪の下」という自伝小説があります。希望を失い、将来が重荷となってついに自殺する。そういう小説です。もちろん、自伝的と言っても、作者は自殺するわけではありませんが・・・

聖書は言います。どんな重荷があっても、あなたをへこませることがあっても、そこにとどまって、耐えなさい。ぐらつかないで辛抱して留まるのだ。逃げないで踏みとどまりなさい。重荷を身に引き受けるのです、と。イエス様は十字架を引き受けられた。そこには、期待と勇気という積極的な意味合いがあります。

弾圧や迫害があります。そういう苦難があります。信仰のゆえに、苦難にあう。このために拷問を受け、肉体的な痛み苦しみにあいます。耐えられないでしょう。死んだほうがましだと思う苦しみを受けるでしょう。それでも、耐える。

練達を生む。練られた品性と訳されているところもあります。この言葉はもともと、テストに合格するという意味です。熟練とか練達した人柄を言います。車や電気製品は検査があります。テストです。それに合格しなければ、市場に出ることはありません。不良品もしくは欠陥品になり、販売できないのです。食品も検査があります。輸入する食品に有害物質が含まれていないか検査するのです。

鉄は熱い内に鍛えろと言います。鍛錬するのです。幾度となく、火を通して鍛錬されて刀になるのです。あるいは、十分に鍛えられて丈夫な鋼としてビルや橋に用いられます。鍛えられないと、通用しないのです。

人間もテストがあります。鍛えられる必要があるのです。学問で教養も身につき、人間的な豊かさを身につけることもできます。スポーツで肉体を鍛え、頑丈な身体を作ることができます。同時に、人間の精神を鍛えるのは、艱難による忍耐であるというのです。そこではじめて、熟した稲穂のように柔和で純粋な人間、高潔な品性をもった人として形成されるのです。

 こうして、熟練した人生の達人となるのです。熟練していくと、ある領域に達するのです。それは、もはやいかなる人間的なレベルで試みや誘惑があっても、ぶれないということだと思います。あたふたと動揺しない。動じることなく、しっかりと立っている。神の言葉に立つ。

3.信仰の熟練者、キリスト者の希望

 「練達は希望を生む」(4節)とあります。キリスト者の希望は、そういう希望です。だから誇りと喜びに満たされている。そして、大事なことは、神の霊である聖霊が注がれているのです。聖霊なる神の恵みと力が与えられている。5節ですね。

 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

ホーリネスは、聖霊に満たされること、清められることを強調します。わたしはそれを信仰の達人、熟練者ということができると思います。

希望は神から与えられるのです。自分の能力を頼みにすることではありません。学歴とか財産に希望をもつのでもありません。何もないところから与えられる神様からの特別の恵みです。その希望は、主イエス様によって持続して与えられ、消えることがありません。

 それは、生ける神、生けるキリストとの人格的な交わりからだと思うのです。わたしのために十字架にかかり、同時にキリストによって神の国の永遠のいのちに預かれる約束をしてくださったイエス様です。聖書を読み、祈り、賛美を長い生涯続けてきた信仰生活があります。そういう経験、人生を裏切らない。生きたように、死ぬ。

 キリストと共に生きてきた。その交わり。そこに聖霊なる神が力を与えてこられた。いのちを注いでくださった。キリストという幹につながる枝として生きた関係がある。わたしたちの関係とはそういう関係です。神とキリストと聖霊と、そして教会、わたし、皆さんという関係です。

 この関係は有機的につながっているのです。

 わたしたちは、信仰の練達者となるように進みましょう。いつも試練や誘惑という困難があっても、それを克服していく力が神から与えられているのです。 今日のわたしたちたちは、昨日のわたしたちと異なります。明日のわたしたちは、今日のわたしたちと異なります。日々、成長し、熟していくのです。そして、最後に神の国の収穫に与れることを感謝して日々を進みましょう。




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