2020年11月1日 降誕前第八主日礼拝
2020年11月1日 召天者記念礼拝
聖 書 テモテへの手紙 二 4章1~8節
説 教 義の冠を受ける
本日は召天者記念礼拝です。例年ですと、先に主なる神の御許に召された愛兄姉の写真、遺影ですね、100葉ほどの写真を展示していましたが、今年度から変更することになりました。昨年の11月から今年の10月までに召された兄姉の写真のみを前に展示することといたしました。本日は、さる8月29日に召された菊地信子姉の遺影のみが講壇前にあります。8月31日に当教会礼拝堂にて葬儀を行い、自宅近くの塩釜の墓地に納骨を致しました。
写真を飾ることに関して、今までの慣例を変えることには、いろいろ異論もあろうかと思います。とくに、本日召天者記念礼拝にご出席されたご遺族の皆様には、御自分の祖父母、親や夫、妻、子たちの写真が展示できないことでいろいろな心情を持たれることと感じます。この件につきましては、数年前から役員会と納骨堂管理班で話し合ってきたことでした。ご了承いただきたいと願います。
大切なことは、主なる神様のみに栄光をお返しし、霊と真理をもって礼拝することを第一とする。また、今年は新型コロナ・ウィルス禍の中にあり、簡素化のためにこのような結果となったわけです。ご了承をお願いいたします。偶像礼拝になるのではないか。歴代の牧師(それも全員のものではない)の遺影を中央に置く(敬意の表れでもありますが)ことも、教会の在り方として議論したことでもあります。
その結果として、遺影の展示に関して言えば、100葉を超える写真が並べられていました。一人ひとりが教会の歴史を担い、形成してきた信仰者です。これらの一人ひとりの生涯、生活の歩みを想い起し、追悼することは大切です。ご遺族はじめ共に教会での交わりと礼拝を守って生きた教会員一同の心に今も生きているからです。生活のいのちが皆さんのこころになお鮮明に残り、生きている。その祈りと賛美の声が残っているのです。
さて、本日はテモテへの手紙 二を説教のテキストに選びました。
手紙は言います。1節からお読みします。
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
教会はペンテコステ以降、この2000年間、忠実にこの言葉を実行してきました。主イエス・キリストの十字架の死と復活、昇天から聖霊降臨によってエルサレムに教会が起こされたのです。いまや、全世界に教会が建てられ、み言葉が語られています。
信仰の言葉として、信じるものを生かし、力を与えるのが聖書の言葉です。キリストのいのち、福音です。その福音を宣べ伝えるために教会は建てられて、宣教によってわたしたち一人ひとりの今(現在)があるのです。
こうして、先に神様の御許に召された兄弟姉妹の一人ひとりがその信仰を持ち、生き、喜び、哀しみ、祈り、賛美したのです。
まことに5節にあるとおりです。
しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
忠実に務めに励み、信仰の生涯を送って来られたのです。
教会と信仰者の最終目標
その目標は何でしょうか? いま、世界は新型コロナ・ウィルス禍のために苦しんでいます。とくに、わが日本はコロナのために自粛し、落ち込んだ経済再建策の一つとしてGo to キャンペーン(taravel)があります。旅行に行き、ホテルや旅館業、飲食業、商店街に活気を呼び戻そうとの政策ですね。
信仰生活は、旅にたとえられます。わたしたちは旅人なのです。わたしたちのからだは霊を宿す仮の宿です。本当の住まいは神の国にあり、そこが旅の終着点、目的地であります。
ヘブライ人への手紙11章13~16節
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
教会は船にたとえられます。船長はイエス様です。乗り合わせたものは、ただの乗客ではありません。イエス様の十字架の血によって贖われたキリスト者たちが一緒に神の国を目的地にむかって進む船なのです。力を合わせて船を動かし、目標に向かって舵取りし、進む。こういう作業を協力して行うのです。役割分担をよく知り、率先して行う。奉仕すること、証しすること、祈り、献げることです。
船ですから、大海を航海します。わたしたちの人生もそうです。凪ぎばかりではありません。信仰生涯は、いいことばかりではないのです。聖書は、それを約束していません。嵐もあれば何日も雨が降らず、苦しむこともあるのです。沈没しそうになることもあるかもしれません。それでも目標を目指し、目的地に向って進むのです。
目的地は神の国です。
現代の科学は言うかもしれません。「そんなものはない。ただの空虚な作り話だ。荒唐無稽だ。そんな国がどこにあるのだ?」
わたしたちは答えます。いのちはいのちあるところに再び帰るのだ。無から有を造り出された神は、いのちを生み出された。いのちがある天のふるさとがある。それがわたしたちの信仰です。愛とまことが実際に存在する。その源、神のみもとにわたしたちは旅でし、帰るのです。
キリスト教二千年の歴史は、その神の国を目指した信仰者の歩みでもありました。
6節から
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
先に召された方々は、まさに戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜いてこられたのです。それでも、時に戦いに怯むことも臆病になることも、逃げ出したくなることもあるでしょう。決められた道よりも横道、抜け道を選んで歩くこともあるかもしれません。大事なことは、信仰を守り抜くことです。どんなことがあっても、揺らぐことがあったとしても、守り通す。そこに神の導きと助け、ちからがあったのです。祈り、讃美し、神の導きを待ち望む。
そこに義の栄冠をいただくのですね。
古代ギリシャでは、現代のオリンピック競技が行われていました。優勝者にはオリーブの冠がかぶせられました。栄誉の冠でした。彼らは金銭や地位のために競技をしたのではないのです。文字通り、自分の名誉と国の名誉のために走り抜いたのです。苦しみを克服して走りとおすことで栄冠を与えられます。信仰とキリストの十字架の恵みを感謝し、神の栄光を現すために走るのです。
今年は東京オリンピックが開催する予定でした。しかし、ご承知のように、コロナ・ウィルス禍の中、来年に延期になりました。来年になってもどうなることか分かりません。オリンピックは、数千人規模の選手たちが世界中から集まり、競技し、金メダル、銀メダル、銅メダルと獲得するために持てる力を尽くします。そのために、選手たちは節制し、訓練し、力を溜めているのですね。
信仰はいのちのためです。永遠のいのちを求めて、ある意味では自分の全財産、全生涯をかけて、走りとおすのです。
神ご自身が栄冠を与えてくださいます。義の冠とは、救いの冠です。永遠のいのちを象徴する恵みの冠です。「よく戦ったなあ。悪魔の誘惑に立ち向かって信仰を守り通したなあ。負けたこともあったけど、ノックアウトされないで、よく立ち上がった。そして、最後まで信仰を守り通した。さあ、これをかぶりなさい。信仰の救いの冠だよ。」
神ご自身が慰め、励まし、ねぎらいのことばをかけてくださる。
先に召された愛兄姉は、神の国の祝宴において、大きな祝福を与えられているでしょう。わたしたちもその聖徒の群れに加えられているのです。一緒に祝宴を楽しむことを期待して、与えられたこの世の馳せ場を駆け巡りましょう。
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