2026年7月19日 仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録17章16節~34節

「今でしょう」

牧師 野々川 康弘

今日の箇所は、パウロが宣教旅行2で、ギリシャのアテネで宣教した時の様子が記されています。

アテネでの宣教は、パウロの通常の宣教とは、違っています。

通常は、ユダヤ人たちの会堂に先ず行って、そこで、「旧約聖書がいっているメシアこそ、主イエスである。」そう語るのです。でも、17節を見ますと、「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じあっていた。」そう記されています。

つまり、ユダヤ人たちの会堂で宣教するのと同時に、「広場」でも異邦人に対して宣教をしているのです。此処で言う「広場」とは、ギリシャの人たちが集会をする場所のことです。その場所で、ギリシャの人たちは、町の指導者を選んだり、政治的な事を決定したりしていたのです。17節に出てくる「広場」のことを、ギリシャ語で「アゴラ」と言います。そのアゴラが、ラテン語の「フォルム」という言葉になったのです。そして、ラテン語の「フォルム」という言葉が、英語の「フォーラム」という言葉になったのです。「フォーラム」とは、何かのテーマについて、集まって話し会う場のことです。その「フォーラム」の基になっている言葉。それが、「アゴラ」という言葉です。

つまり、「広場」に立って大勢の人たちに、自分の意見を語るのは、当時のギリシャの社会では、極々普通のことだったのです。

パウロは、「広場」を大切にしている、アテネに相応しいやり方で、主イエスの福音を宣べ伝えたのです。

アテネという町は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、有名な哲学者を輩出した町です。それは、アテネは「広場」を愛する人たちが、集まっていた町だったからです。その証拠が21節です。そこを見ますと、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである」そう記されています。

でも、「広場」に居合わせた人たちに、主イエスの福音を宣べ伝えたのは、アテネにいる人たちが、「広場」を愛していたからといった理由だけではありません。16節に記されている通り「町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」からでもあるのです。

パウロはべレアで、ユダヤ人たちの妨害を逃れてアテネに来ました。その時、シラスとテモテより先に、アテネに到着したのです。16節を見ますと、パウロが二人を待っていたことが記されています。此処でいっている二人とは、シラスとテモテのことなのです。

パウロは最初、二人の到着を待ってから、アテネで宣教しようと考えていました。だから、彼らの到着を待ちながら、アテネの町を見学していたのです。でも、アテネの町を見学している内に、彼は「憤慨」してしまったのです。「憤慨」という言葉。これをよりギリシャ語のニュアンスを組んで、正確に訳すなら、「心が激しく揺さぶられた」そう訳すことが出来ます。

そこで疑問になることは、何で、心が激しく揺さぶられたのかということです。それは、この町の至るところに偶像があったからです。当時のアテネには、沢山の神々の偶像があったのです。当時、「アテネでは人間に会うよりも神々に会うことの方が多いだろう」そんなふうに言われていた町だったのです。だからパウロは、「心が激しく揺さぶられた」のです。「本当の神を宣べ伝えなければならない!」そういう強い使命感が、パウロの内から沸き起こってきたのです。その結果、「二人の到着を待っていられる状況ではない」そう思ったのです。

だから「広場」で居合わせた人たちと、本当の神につて論じあう決断をしたのです。

 パウロが論じ合った人たちの中に、「エピクロス派」の哲学者たちや、「ストア派」の哲学者たちがいました。「エピクロス派」とは、快楽を追求して生きていた人たちです。でも彼らは、快楽を追求して、自堕落な生活をすることを奨励していたのではありません。そうではなくて、この世の雑事に煩わされずに生きること。それを理想としていたのです。そんな彼らは、神々は、この世には一切関わらずに、平穏を保っている存在として見ていたのです。そんな神々の平穏を理想として生きていたのです。

その一方で、「ストア派」とは、神々はこの世の全てのものの中にいる。そう考えていた人たちです。そんな彼らは、全てのものの中にいる神々に、自分が調和していくこと。それこそが、人間が幸福や平安を得る秘訣である。そう思っていた人たちです。そんな彼らは、厳しく自己を律する倫理的な生活を追求していたのです。つまり、「エピクロス派」と「ストア派」では、教えていた生活の在り方は真逆だったのです。でも、人間が神々のことを考えて、考えた思想に基づいて、人間の本当の幸福や平安を追求する点は、どちらも同じでした。アテネの町にあった神々の像は、人間が神々のことを考えて生み出されたものだったのです。

偶像は、人間が神々のことを考えて造るものです。いろいろな偶像がありますが、共通しているのは、人間が、考えることが出来る範囲から、つまり、人間が見て知っているこの世界の何かから、人間の姿に似せて、神々の姿を描き出しているということです。

人間の考えることが出来る範囲に、神を閉じ込めるなら、それは神を信じていることになりません。自分を信じているだけで、神と出会えていないことになります。

アテネに沢山あった神々という偶像は、人間が考えることが出来る範囲から、生み出されたものだったのです。そんな神々の前に、人々がひれ伏したり、大事にしたりして、生きている姿。それを、パウロはアテネで目撃したのです。だから、そのことによって心が激しく揺り動かされて、「広場」に居合わせた人々と、毎日論じあったのです。

 パウロが「広場」にいた人たちと論じあう時に、彼が論じたことは、「広場」にいた人たちが興味を持っていた、「知られざる神」のことでした。23節前半を見ますと、「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」そう記されています。そうなのです。パウロが、シラスとテモテの到着を待ちながら、アテネの町を見学していた時に、彼は、『知られざる神に』そう刻まれている祭壇を見つけたのです。

 そうなのです。アテネの町にいた人たちは、色々な神々を崇拝していながらも、まだ、自分たちが知らない神を、崇拝していないかもしれない。そう思っていたのです。だからこそ、『知られざる神』という、神をも崇拝していたのです。

そのことから分かることは、アテネにいた人たちは、罰が当たることを、とても恐れていたということです。アテネにいた人たちの、信仰の根本にあったのは、「恐れ」だったのです。

「人間に会うよりも神々に会うことの方が多い」そう言われているぐらい、多くの神々を拝みながらも、アテネにいた人たちの心には、平安がなかったのです。まだ自分たちの知らない神がいて、その神から、罰が与えられることを恐れていたのです。そうなのです。偶像は「恐れ」を用いて人間を支配するのです。別の言い方で言えば、悪魔は、「恐れ」を用いて人間を支配するのです。悪魔は、「恐れ」を用いて本当の神から人間を引き離すのです。

人間の心の奥には、絶えず「恐れ」があるのです。その「恐れ」が、偶像を拝むように、私たちを導くのです。この中で、キリスト者になる前に、偶像を拝んだことがない人は、一人もいないと思います。もしキリスト者ではない日本人に、「一度も神に祈ったことがない人はいますか?」そう聞いたとしたら、祈ったことがない人は、一人もいないと思います。それは、人間は誰しも心の奥底に「恐れ」を抱いているからです。

話が聖書から脱線しました。聖書に話を戻します。

パウロは、アテネにいた人たちが、「ひょっとしたら、自分たちが知らない神がいて、その神を蔑ろにしていたとしたら、罰が与えられるのではないだろうか。」そういった思いから、彼らが作っていた『知られざる神』という偶像を糸口として、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」そう言ったのです。それが記されているのが、23節です。

23節の、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」この言葉を通して、パウロが、アテネにいた人たちに言いたかったのは、「あなたたちは、本当の神を知らない。だから、神ではない、偶像ばかりを拝んでいる。だから、いつまでも『恐れ』に支配されていて、平安を得ることが出来ていない。だから私は、あなたたちに本当の神を教えるのだ。」そういうことです。

そんなパウロは、24節~26節を通して、アテネの人たちが全く知らない、本当の神を教えたのです。24節~26節を見ますと、こう記されています。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」

つまりパウロは、24節~26節を通して、「本当の神は、この世界と、この世界の中の全てを造られたお方である。だから人間の手で造った神殿にはお住みにならない。人間が色々お世話をしなければならないような神ではない。むしろ神が、すべての人に命を与え、それぞれの民族を造り出して、御自分の御計画のもとに、それぞれの民族を配置して、全ての人間の歴史を導いておられるお方である。」

そのように、アテネにいる人たちに、知らざる本当の神を、説いたのです。

パウロが説いた神像は、人間が自分の思いから、神のことをあれこれ考えたり、神の像を刻んだりするのとは、全く正反対のことです。人間の思いや感覚から、神像を生み出すのが本当の神ではなくて、神が私たちに、御自分のことを教えて下さる神像こそが、本当の神なのです。私たちの思いや感覚の下に、神がいるのではいのです。神の思いや、感覚の下に、私たち人間がいるのです。つまり、本当の神は、私たち人間を造り、導き、支配しておられるのです。

パウロは、24節~26節を通して、「人間が神を、ではなくて、神が人間を、それが正しい神と人間の関係である。」そのことを、アテネにいた人たちに説いたのです。

実は26節の「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」という言葉。この言葉が指し示しているのは、本当の神は、全てを超越している御方であること。唯一の御方であること。絶対なお方であること。そういったことを説いている言葉なのです。

そして、26節の「神は、一人の人からすべての民族を造り出して」という言葉は、「アダムから、沢山の民族を造り出した。」そういう意味です。そして26節の「地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」という言葉は、「神が、世界の国境を決めておられて、全ての人間が、この世界で生きるために必要な季節をも造って下さった。」そういう意味です。

神が、そんな御業を成した理由が27節です。そこを見ますとこう記されています。「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」

つまり、26節~27節を通して、パウロが言わんとしていることは、「アダムから、沢山の民族が造り出されたこと、国の国境が定められていくこの世の歴史、この世の自然の移り変わり、そういうのを見た時に、本当の神を求めている人が、本当の神を見出すことが出来るようになるためである。」そういうことです。

つまり、26節~27節を通して、パウロが言っていることは、「私たちの思いの下に、神がいるのではなくて、神の思いの下に、私たちがいる。そういう正しい見方で、神を求めるならば、本当の神を見出すことができるように、神がして下さっている。」そういうことなのです。

アテネの人たちは、自分たちの優れた哲学、つまり自分の知恵に頼って、神々のことを考えて、正しい神を否定する沢山の、偶像を作り出していたのです。そんな彼らが行きついた先は、「知られざる神」だったのです。人間が神をという方向では、どんなに頑張っても、最終的には、神は、「知られざる」存在になってしまうのです。更に言うと、人間が神をという方向では、正しい神を否定する、沢山の偶像を作り出すことになってしまうのです。それが意味しているのは、人間の力では、心の奥底にある「恐れ」から、決して抜け出すことが出来ないということです。でも、神が人間を、そういった方向から生き始めたとしたら、つまり、神が御自分のことを、人間に示して下さっている言葉から、神を見つめるとしたら、私たちは、本当の神を知ることが出来るようになるのです。そうなれば、神はもはや「知られざる神」ではなくなるのです。その結果、神は、恐ろしい存在ではなくなるのです。

神が恐ろしい存在どころか、パウロが28節で言っている通り、「我らは神の中に生き、動き、存在する」、「我らもその子孫である」そういう感覚を持つことが出来るよういになるのです。

つまり、神が自分を愛し、生かし、支えてくれる存在として知ることが出来るようになって、神を身近に感じることが出来るようになるのです。

28節で、パウロが引用している詩は、ギリシャの詩人アラトスが、クレアンテスから引用した詩だと言われています。パウロは、ギリシャ詩人の詩を引用することで、「あなたたちはこういう詩を歌いながらも、『知られざる神』がいると、びくびくしているのは可笑しい。この詩によれば、あなたたちは、『知られざる神』がいるかもしれない。そのようにびくびく神を「恐れる」どころか、神に親しさを感じている。自分の心の奥底の「恐れ」が取り除かれていて、神との親しさを感じることが出来るようになっている。この詩のようになるためには、私が宣べ伝えている、神を知る必要がある。」そう言っているのです。

 私たちが、自分の思いや感覚で、神のことを考えている限り、神はいつまでも「知られざる神」なのです。

聖書も、神側の視点から聴くのではなくて、私たちの視点から聴くのであれば、「知られざる神」になりうるのです。

アテネにいた人たちは、哲学を愛していました。自分たちの力で考えて知ることを愛していたのです。だからこそ、本当の神について無知だったのです。でもパウロは、そんなアテネの人たちに、30節を通して、「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」そう言ったのです。

つまりパウロは、アテネいた人たちに、本当の神を知るために、自分の力に頼ることを悔い改めること。そのことを求めていたのです

悔い改めるとは、ギリシャ語で「メタノイア」そう言います。「メタノイヤ」とは、「メタ」と「ノイヤー」の合成語です。メタは、「後に」という意味で、「ノイヤ」は、「知る」という意味です。つまり、悔い改めるとは、後になって、しまったことをしてしまった。。。そういうことを知って、後悔が自分に押し寄せてきて、態度が改まってしまうことなのです。だから、悔い改めとは、心の方向が反対になることなのです。

パウロが、30節で言っている悔い改めは、人間が神を知るという方向で生きていたことを、「しまったことをしてしまっていた。。。」そういうふうに後悔が自分に押し寄せてきて、神が自分の原罪を知っているからこそ、主イエスの十字架と、聖霊と、聖書を、私たちに与えて下さっていることを知って、神視点から聖書の御言葉を知るようになって、神を益々深く知っていくこと。それが、パウロが30節で言っている、悔い改めです。人間が神をという方向が、神が人間をという方向に変わること。人間が神のことをあれこれ考えて、神の姿を思い描いていくことをやめて、神がご自分を示して下さっている御言葉によって、神を知っていって、自分を神の下に置くようになること。それが悔い改めです。

30節後半の言葉を良く見ますと「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」そう記されています。

30節が言っている「今」のことが、31節に記されています。そこを見ますとこう記されています。「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

つまり、30節の「今」とは、神が、この世を正しく裁く日をお決めになったことです。つまり、神の裁きが、今既に始まっているということです。裁きの意味は、前回も触れましたが、神が、全てのことを明らかにすることです。神が全てのことを明らかにして下さったのは、主イエスが、人間の原罪のために、十字架にお架かりになられて死なれたことを信じた人たちを、神と永遠に共に歩める道に入れて、そうでない人たち、つまり、神を無視しつづけて、自分の力に頼って生きていく道を選びとった人たちは、神や、神を信じた人たちと、永遠に共に歩むことが出来ない道。そこに入るように区別したことです。それが神の裁きです。その神の裁きは、主イエスがこの世に来られて、十字架に架かられて、死なれた時点から既に始まっています。31節の「この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」という意味は、主イエスが十字架で、私たちの原罪のために十字架に架かられた日、それが、神がこの世を正しく裁いた日の始まりです。

でも、神の裁きが完成する日は、完全な神の国が訪れる、主イエスが再臨なさる時です。その時にこそ、本当の意味で全てが明らかになるのです。主イエスが再臨なさる時、主イエスが、父なる神に復活させられたように、主イエスの原罪の赦しである十字架を信じた人たちは、死から復活して、神と、神を信じた人たちと、永遠に生きることが出来るようになる保証が与えられているのです。そのことを言っているのが、31節の「神はこの方、つまり、主イエスを、死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」という言葉の意味です。

このことを、パウロがアテネにいる人たちに話した時に、32節に記されている通り、ある者はあざ笑って、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」そう言って去っていったのです。

主イエスの復活は、自分の考えに頼る、哲学的なアテネの人たちにとっては、とんでもない馬鹿げた話だったのです。その結果、最初は、パウロの話を聴いていましたが、復活のことを聞いた途端に、多くの人たちは去って行ったのです。

ということは、私たちが、福音を語ったり、証したりする時に、無視されたり、反対されたり、「いずれまた」そのようにあしらわれたりすることがある。そういうことです。

それをいちいち気にしていたら、福音を信じる人が増えていきません。福音を信じる人が増えていかないならば、この世に、主イエスの十字架を土台とする平和が訪れません。更に言えば、将来、神の国の住人になる人。つまり、神と、神を信じる人たちと、自分との、充実した愛の交わり共同体を形成して歩んでいく命を得る人。そういう人が増えないことになるのです。

私たちキリスト者が、宣教の失敗を気にしたり、この世に迎合して、福音宣教することを、躊躇したりすれば、父なる神が、私たの原罪を赦すために、御自分の独り子である主イエスを、十字架に架けて殺してまで、神の子にして下さった意図に反しています。

神が、私たちを救われたのは、神の御国の住人が増えていくためなのです。

確かに、パウロが福音をアテネの人たちに語った時、ある者には笑われて、ある者には、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」そう言われました。でも、私たちは、34節のことをしっかりと胸に刻み込まなければならないと思います。34節を見ますと「「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」そう記されています。

そうなのです。パウロが語った福音を信じた人たちもいたのです。神の福音が語られる時、必ずそういったことも起こって来るのです。それは、1人かもしれません、もしくは数人かもしれません。それでも、福音を信じて、悔い改める人が生まれるのです。

自分の力や、自分の感覚で、神のことを考えて、本当の神を知ることができなかった人が、キリスト者が福音を語ることで、聖書を、自分の思いや感覚で聴くことから離れて、神が言わんとしている方向から、聖書の言葉を聴けるようになるのです。

その結果、本当の神と出会って、神が、私たちにいわんとしている言葉として、聖書を聴く人に変えられていくようになるのです。

ということは、今、この時、礼拝で福音を聴いている私たちは、本当の神と出会って、神が、私たちにいわんとしている言葉として、聖書を聴く人に変えられる時なのです。

今日、神は、アテネの人たちと同じようになるな。もし、自分の思いや感覚で、聖書を読んでいるとしたら、神の思いや、神の感覚から、聖書に聴くようになりなさい。そうなるために、聖霊もあなたたちに与えている。自分の思いや感覚で、聖書を読み込んでいるのであれば、それを悔い改めなさい。そう言われています。

その神の求めに、私たちはどう答えるでしょうか。「いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」そのように言うのでしょうか。それとも、嘲笑うのでしょうか。

でも、神は、パウロを通してアテネにいた人たちに言われたこと。そのことを私たちにも言われています。神は、今日の箇所を通して、30節後半の「今は何処にいる人でも、悔い改めるようにと命じておられるのです。」その御言葉を私たちに与えて下さっています。

「いずれ」そう思っている間は、いつまでたっても「いずれ」です。決して「今」にはなりません。「いずれ」と言っている限り、神は私たちにとって「知られざる神」であり続けるのです。今この時に、父なる神が、愛する独り子・主イエスの十字架の死と復活によって、私こそが、私とあなた、あなたと隣人を、和解させる者であること。そのことを示しておられる神を、信じて受け入れることが大事なのです。そのことを受け入れるならば、私たちは、神・隣人・自分の愛の交わり共同体として、永遠に生きることが出来る充実した命。それを得られるようになるのです。その命を得た時に、私たちの心の奥底にある「死に対する恐れ。」それが取り除かれるのです。そうなれば、私たちは、人生の嵐が吹き荒れようと、吹き荒れまいと、本当の平安を得ることが出来るようになるのです。

そのことを心に刻み込んで、皆さんと共に豊に歩んでいければと思います。最後に一言お祈りさせて頂きます。