再臨
フィリピ3章20-21節
牧師 野々川 康弘
今日は、四重の福音の再臨について、皆さんと共に学びたいと思っています。
再臨のことを語っている聖書の箇所はいくつもあります。でも今日は、パウロが書いた、フィリピの信徒への手紙3章20節~21節のを、心に留めたいと思います。
20節を見ますと「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」そう記されています。
「主イエス・キリストが救い主として来られる。」これは、主イエスが再びこの世にこられる再臨のことです。でも、20節のパウロの言葉は、それだけで終わっていません。「主イエス・キリストが救い主として来られる。」その言葉の後に、「わたしたちは待っています。」そう記されています。
つまりパウロは、「主イエスが、再臨なさるという約束をして下さったから、それを待ち望む。」そう言っているのです。
日本基督教団の信仰告白にも、再臨のことが記されています。それが、「主の再び来たりたまふを待ち望む。」という文言です。
実はニューインターナショナルバージョンの英語訳聖書を見ますと、20節の「わたしたちは待っています。」という部分は、「私たちは熱心に待っています。」そうなっています。
ということは、主イエスの再臨は、ただ待ち望むものではなくて、熱心に待ち望むものであるということになります。
でも、なんで熱心に待ち望むのでしょうか。そのことが分かる鍵になる言葉が20節後半です。そこを見ますとこう記されています。「主イエス・キリストが救い主として来られる。」
「主イエス・キリストが救い主として来られる。」この言葉は、主イエスが、どういうお方として来られるのか。そのことを指し示しています。
そうなのです。主イエスが再びこの世に来られる時、完全な救い主として来られるのです。だから、私たちは熱心に主イエスの再臨を待ち望むのです。
でも、そのように言いますと、「主イエスが再臨なさる時、主イエスはこの世を裁くお方として来るのでは?」そのように言う方がおられるかもしれません。でもそうではないのです。神は、私たちに罰を与えようとする御方ではありません。裁きというヘブル語の意味は、「公正」「正義」「恵み」そういう意味を含んでいる言葉なのです。更に言うと、ギリシャ語の裁きという意味は、「区別する」「尊ぶ」「良しとする」そういう意味を含んでいる言葉です。
聖書のいう「裁き」は、公正に、それぞれの歩んできた歩みを尊んで、その歩みに応じた区別を神がするということです。簡単に言うと、聖書の言う裁きは、罰を与えるというよりも、全てのことを明らかにすることを意味しています。自分が歩んできた歩み。それが神によって明らかにされるのは、主イエスの十字架によって、原罪が赦されているキリスト者には、主イエスの救いが完成する時です。
人間は全て、神に背を向けて歩んでいる罪人です。キリスト者も例外ではありません。でも、キリスト者は、御子・主イエスが、原罪のために、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて、原罪が赦されている。それが、主イエスが再び来られた時に、明らかになるのです。
そういう意味で、キリスト者にとっては、再臨は良き知らせ、福音なのです。だからパウロは、再臨を熱心に待ち望んでいるのです。
じゃあ、原罪が赦されていて、再臨を熱心に待ち望んでいるキリスト者は、この世で怠惰な生活をしていて良いのでしょうか。
そのことを知るには、3章12節で、パウロが言っていることを知る必要があります。そこでパウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」そう言っています。
この意味は、「すでに完全な永遠の命を得たというわけではなく、既に完全な神の子となっているわけでもありません。何とか完全な命を得ようと、何とか完全な神の子になろうと努めているのです。」そういう意味です。そして、その流れの中で、17節~19節のことをパウロは語っています。そこを見ますとこう記されています。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」
此処には、「彼らは腹を神とし」そういった文言があります。この部分は、新改訳聖書では、「彼らの神は彼らの欲望であり」そう訳されています。
つまりパウロは、「原罪が赦されていて、再臨を熱心に待ち望んでいる私は、何とか完全な命を得よう!何とか完全な神の子になろう!そう努めている。」そのことが頭にあって、17節~19節で、こう言っているのです。「兄弟たち、皆一緒に私に倣って何とか完全な命を得よう!何とか完全な神の子になろう!そのように努めなさい。また、私に倣っているあなたがたを、手本にしている人たちに目を留めてあげて下さい。今また涙ながらに言います。主イエスを無視して、自分の欲望を神としている人。恥ずべき自分の栄光を、自分の誇りとして歩んでいる人。そういう人が実に多い。この世のことしか考えていない人が多い。」
そうなのです。この世は、人間をお造りになられた神を、無視する罪に満ちています。アダムが、自分の人生の主導権を、自分が握ろうとする罪を犯して以降、人間は、神の思いを無視して、自分の思いに生きること。自分の栄光が輝くこと。それを最優先として生きています。神との交わり、敵と思えるような隣人との交わりに生きることなんか、二の次三の次にしている現実があります。
実際、自分の思い通りにいかなければ、教会に来なくなったり、人間関係を断ち切ったりする人がいます。更にいえば、自分のメンツがつぶされたら、教会に来なくなったり、人間関係を断ち切ったりする人がいます。
主イエスが生きておられた時代も例外ではありません。主イエスが、神の民であるユダヤ人たちを、神の民らしく整えようとして、「神である私を愛して、あなたがたが敵と思っている隣人、つまり異邦人をも愛しなさい。でもそれが、あなたたちには出来ない。あなたたちは、私の言うことを無視してでも、自分の信念を大切にして生きる。そんなあなたがたの罪のために殺される予定があって、私はこの世にきた。そんな私を信じなさい。」そのようなことを言ったら、神の民であるユダヤ人たちは、「あなたが言うことなんかどうでもよい。今更敵である異邦人を愛することは出来ない。自分たちが培ってきたユダヤ教の信念を神として生きる。あなたはユダヤ教にとって害虫でしかない。」そのようなことを言われて、主イエスは、ユダヤ人たちに憎まれて、しまいには十字架に架けられて殺されたのです。
ユダヤ人たちは、自分たちが培ってきた神像を否定されて、自分たちの栄光や誇りがけがされと思った時に、主イエスを悪として、主イエスと敵対して、主イエスを憎んで、主イエスを殺害するにまで至ったのです。
そのことから教えられることは、私たちが誰かに、私たちを造られた神ではなくて、自分を支えている信念。それを神としている罪を指摘したとしたら、迫害が起こってくるということです。そういう迫害が起こってきた時に、私たちキリスト者が、世の中に迎合することなく歩んでいく力をもたらすもの。それは、再臨の時がやがて訪れるという希望です。
自分を支えている信念。それを神としている罪深い世の中では、確かに神を神とする生き方は生きづらい。でも将来、再臨が訪れる希望があるのです。完全な神の子にされる希望あるのです。完全な神の国の住人になれる希望があるのです。だから、迫害の中でも耐え忍んで、再臨を熱心に待ち望むことが出来るのです。それが本当の再臨信仰です。
再臨は、主イエスが再びこの世にこられることですが、栄化の時でもあります。栄化とは、先程申し上げました通り、完全な神の子にされること。完全な神の民にされることです。
21節を見ますとこう記されています。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
パウロは20節後半で、再臨を熱心に待ち望んでいることを語った後(あと)、21節で、私たちの体が、復活した主イエスと、同じ栄光の体に変えられることを語っています。
ここで見つめたい言葉は、「卑しい体」という言葉と「御自分の栄光ある体」という言葉です。これらは、一体どういう意味なのでしょうか。「卑しい体」という意味は、私たちの体は、いずれ死ぬ体であり、朽ちる体であることを意味しています。また、「御自分の栄光ある体」とは、復活した後の主イエスの栄光ある体を意味しています。
じゃあ、主イエスの栄光ある体とは、一体どういった体なのでしょうか。それは、ルカ24:36~43とか、ヨハネ20:19、に記されています。
主イエスの栄光ある体とは、物を食べることが出来る体であり、触ることが出来る体です。でも、ものを通り抜けて、出入りすることも出来る体です。
パウロは21節で、「主イエスが再臨なさる時、「卑しい体」の私たちの体を、そういう「主イエスの栄光ある体」と同じ体に変えて下さる」そう言っているのです。
つまり、主イエスが再臨なさる時、主イエスの栄光ある体と同じ体が与えられるのです。
私は今まで何回も、四重の福音は、「広い意味の救い」であり、人間側の変化である。そう申し上げてきました。
実は、中田重治先生は、「変化は、大きく分けて二種類ある。」そう言っています。一つは霊的変化です。そしてもう一つは、具体的変化です。中田重治先生は、「『新生』と『聖化』が霊的な変化であり、『神癒』と『再臨』が具体的変化である。」そう言っています。
中田重治先生は、「霊的な救いの完成は、新生と聖化の二段階によって完成する。それと同じように、具体的な救いは、神癒と再臨の二段階で完成する」そう言っているのです。もっと分かり易くいえば、神癒とは体や具体的な生活の変化なのですが、その完成は再臨、つまり栄化によって完成するのです。つまり神癒という救いは、再臨という救いの手付のようなものなのです。
そうであるならば、体や具体的な生活の救いは「主イエスの栄光の体」に変えられたその時に、完成することになります。「神癒」は、その前味なのです。
今日の話を纏めます。「再臨」は、キリスト者の希望であり、熱心に待ち望むものです。そんな再臨は、今の体が、主イエスの栄光ある体に変えられる栄化の時です。私たちは、主イエスの栄光ある体に変えられた時に、永遠に生きる完全な神の民になって、永遠に神を愛し、隣人を愛せるようになるのです。それが、神の救いの完成です。
そういうふうになる希望が再臨にあるから、いつも神を無視する罪深いこの世の中で、この世に迎合することなく、自分を支えている信念を神とするのではなくて、聖書の神を、ちゃんと自分の神とすること。それが、神がキリスト者に望んでおられることです。
将来、「主イエスの栄光ある体」と同じ体に変えられて、永遠に神を完全に愛し、隣人を完全に愛する神の民になれる希望があるからこそ、今この時を、神を神として、歩んでいくことが出来るのです。
将来、そういう希望が無いならば、自分を支えている信念を、神としてしまう、罪深いこの世に迎合せずに歩む意味を、見出せないのが人間です。でも幸いなことに、将来「主イエスの栄光ある体」と同じ体に変えられて、永遠に神を完全に愛して、隣人を完全に愛する神の民になれる希望があるのです。
だからこそ、私たちなりに、自分を支えている信念を、神とするのではなくて、聖書の神を神とすることを証したり、宣べ伝えたりしていく意味があるのです。
でも、誤解しないで頂きたいことがあります。それは、私たちが自分に鞭を打って、自分を傷つけてまで頑張って、聖書の神を、神とする証をしたり、宣べ伝えたりしていこう。そういうことではありません。
自分の力では、聖書の神を、神とする証をすることも、宣べ伝えていくことも出来ません。
人間は所詮、赦された罪人でしかないのです。神を無視する罪が赦されてはいても、完全に神を無視する罪が消えることはありません。そんなことは、神は100も承知です。
だからこそ、主イエスは、苦しんでまで十字架で死なれ、聖霊を私たちに与えて下さったのです。
私たちは、主イエスの原罪の赦しの宣言の温かさを心に蓄えていくことと、主イエスが与えて下さった聖霊の導きによってのみ、聖書を聖書とした歩み、つまり、神を愛し、敵と思えるような隣人を愛して歩んでいくことが出来るようになるのです。
聖霊の導きに従うということは、自分の感情や思いは横に置いておいて、聖書を静聴して、いつも歩んでいくということです。
今日私たちは、そのことを心に刻み込みたいと思います。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
