2026年7月5日 仙台青葉荘教会礼拝

詩編103篇3節

「神 癒」

牧師 野々川 康弘

6月は四重の福音の「新生」と「聖化」を、皆さんと共に学びました。今日は、四重の福音の「神癒」。それを皆さんと共に学びたいと思います。

今まで申し上げてきました通り、四重の福音は、一口で言えば「広い意味の救い」であり、主イエスの救いに与った人間側の変化です。でも、人間が、自分の力で変化するのではありません。人間が、神との交わりに生き始めたら、神との交わりの中で、自然に変革されていく「変化」です。

考えてみて下さい。もし恋人が出来たなら、恋人が出来る前の自分と、恋人が出来た後の自分は、何かしら変化していると思います。

その理由は、恋人との交わりの中で、恋人の影響を受けるからです。でも恋人の影響を受けるのは、嫌ではないはずです。何故ならば、恋人との交わりに生きている自分が嬉しいからです。

それと同じで、神との交わりに生き始めたら、自分に何かしらの変化が起こるのは、自然なことなのです。もし、自分に何の変化も起こっていないなら、神と向き合って生きていないのです。別の言い方でいえば、神との交わりに生きていないのです。

私たちが、私たちが神に背を向ける罪を認めて、その罪の身代わりとして、主イエスが十字架に架かって死んで下さったことを信じた時点から、「神癒」という変化、つまり、健化はスタートするのです。

以前にも申し上げたことですが、「神癒」は、別の言葉では、「健化」と言います。「健化」とは、霊的にも、肉体的にも、生活面でも、健康な人に化けていくことです。

神との交わりに生き始めた人は、霊的にも、肉体的にも、生活面でも、健康な人に化けていく。それが、広い意味での主イエス救いです。

プロテスタント教会は、「信仰義認」を救いとしています。でも、西方教会では、「義化」を救いとしています。「義化」とは、アダム以来、壊れてしまった三位一体の神の像に似せて造られた人間の姿が、三位一体の神の像に似た姿に回復していくことです。分かりやすくいえば、プロテスタント教会は、「信仰義認」を救いとしていますが、西方教会は、「復活の命に与ること」それを救いとしているのです。

ホーリネス教会は、「信仰義認を狭い意味の救い」として、「復活の命を得ていくことを広い意味の救い」としているのです。

ということは、神の救いは、私たちの霊的なことだけではないということになります。神の救いは、私たちの体や、生活面にも及ぶのです。つまり、神の救いは、聖霊の実を結ぶところに繋がっているのです。

もし、私たちの霊だけの救いであれば、それはグノーシス主義です。グノーシス主義の人たちは、霊だけが価値あるものとして、体のことは軽視するのです。

例えば、グノーシス主義の人たちは、結婚相手との肉体関係を持つことは、無価値なものと考えて、肉体関係が無い結婚生活をしたり、結婚を避けたりします。その一方で、霊だけが価値あるもので、体は汚れているものだから、結婚をしていても、沢山な人と肉体関係を持っても別に良い。そう考えたりもします。

でも、神は、私たちの霊の主であるだけではなくて、私たちの体の主でもあり、生活面の主でもあるのです。

だから、私たちの体の病が癒されたり、私たちの生活が潤ったりすることもあるのです。それは何も、使徒言行録の時代までのことではないのです。現代でも、医療技術や薬では治らない病が、癒されたり、生活態度が変わって、生活が潤うようになったりすることがあるのです。

でも、誤解しないで下さい。神は、私たちの体の病が癒えるための道具ではありません。ましてや、私たちの生活が潤うようになるための道具でもないのです。

神が私たちの体の病や、生活態度を癒す時、必ず指し示していることがあります。それは、私たちの原罪のために、主イエスが十字架で死んで下さったことです。神が、人間の体の病や、生活態度を癒す時、いつも指し示しているのは、原罪という病から、解放する御方こそ神であるということです。そのことを指し示すために、時に人間の体の病を癒されたり、ひねくれた人間を、愛で包み込んで、御自分との交わりに招待して、独りぼっちではないことを指し示したりするのです。

父なる神が、私たちを原罪から解放するために、独り子である主イエスを、十字架に架けて殺されたのは、私たちが神との関係に歩むようになって、神を愛し、隣人を愛するようになることを人間に願っていたからです。

最初の方で申し上げたことですが、神は人間を、父・子・聖霊の三位一体の神の像に似せて造られました。でも、アダムに原罪が入り込んで以降、父・子・聖霊の三位一体の神の像に似せて造られた人間の像が、壊れたのです。

原罪が人類に入り込む以前は、父・子・聖霊が、三位一体の愛の交わり共同体であるように、人間は、神・隣人・自分が、三位一体の愛の交わり共同体を育んで歩めていたのです。

神は人間が、神・隣人・自分が、三位一体の愛の交わり共同体として歩んでいく命が回復するために、主イエスを十字架にお掛けになられて、そのことを信じた人に、聖霊を与えて下さったのです。

「神癒」つまり「健化」は、私たちが、神・隣人・自分が、三位一体の愛の交わり共同体を、育んでいけるようになるために与えられるのです。神は、私たちがそういう共同体を育んでいけるようになるために、私たちの霊も、体も、生活も、健康な姿に回復させる、神癒の業をなさるのです

でもそれは、神と私たちの交わりが回復しなければ与えられないのです。だから大切なのは、私たちの原罪のために、主イエスが十字架で死なれたことを信じることです。

神と私たちの関係が回復しなければ、聖霊が与えられることなく、聖霊を通しての神癒が与えられないのです。

神は、三位一体の愛の交わり共同体を育んでいく命を司っておられる御方です。そんな神は、私たちの霊も体も生活も、その命に生きることが出来るように、癒す力を持っておられる御方なのです。そのことを信じることが大切なのです。

中田重治先生は、「中田重治全集」第一巻484ページの中で、こう言っています。

「ホーリネスは、健康の福音である。たましいもからだも丈夫になる。こんな幸いなことはない。しかるに、体を卑しめて、たましいさえ救われたらよい、と言うのは、神の救いを限ることである。神はたましいの救い主でいますとともに、からだの救い主でいまし、霊界の主であるとともに、物質界の主である。また来世のみならず、現世をも支配したまう。」

先程も申し上げました通り、神は、三位一体の愛の交わり共同体を育んでいく命を司っておられます。だからこそ、その命を私たちが得られるように、私たちに、霊の救いだけではなくて、体の救いをも与えて下さるのです。

そしてそれは、中田重治先生が「来世のみならず、現世をも支配したまう。」そう言っておられる通り、神は、死んだ後の世界でも、今のこの世界でも、神を愛し、隣人を愛し、自分を愛する命。それを得ることが出来るように、霊と体と生活を、この世で癒す御業を、行って下さるのです。

何度も申し上げますが、父・子・聖霊の、三位一体の愛の交わり共同体の似姿に造られた私たちが、神・隣人・自分の三位一体の愛の交わり共同体を建て上げていく健康な私たちになるために、神は私たちを癒して下さるのです。

ルカによる福音書17章20節~21節を見ますとこう記されています。

「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。

 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」。

  これは、自分と神と隣人が、愛の交わりに生きていること。それが、健康な神の国であるこの世の教会なのです。健康な神の国であるこの世の教会は、自分と神と隣人が、三位一体の愛の交わり共同体として機能している教会です。

 マタイによる福音書5章17節を見ますとこう記されています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

マタイ5章17節~20節は、主イエスが、律法について語っている箇所です。わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」この言葉の意味を知るためには、ペンテコステの出来事を知る必要があります。

実はペンテコステは、「7週の祭り」の日に起こりました。「7週の祭り」というのは、モーセの十戒を、シナイ山で与えられたことを覚えてなされているユダヤの祭りのことです。その時に聖霊降臨というペンテコステが起こったのです。それが意味しているのは、人間に内住した聖霊の働きによって、神を愛し、隣人を愛すること、つまり、モーセの十戒が完成したということです。

ということは、主イエスの十字架の救いを信じて、聖霊の内住が与えられた人は、神を愛し、隣人を愛する律法が完成しているということです。

つまり、神・隣人・自分を、主イエスの十字架の愛で愛する愛の交わり共同体、別の言葉で言えば、神の国である教会。それを建て上げていくことが出来るようになった出来事がペンテコステなのです。

 「神癒」の恵み、つまり「健化」の恵みは、私たちが、主イエスの十字架の愛で、神・隣人・自分を愛する神の国である教会を、この世の歩みが終わるその時まで、建て上げていけるようになることを目的としているのです。

霊的にも、肉体的にも、生活的にも、自分の全てが、主イエスの十字架の愛で、神・隣人・自分を愛する神の国である教会を、それをこの世の歩みが終わるその時まで、建て上げていけるようになること。それが健化であり、神癒です。

 でもそれは、自分の力では出来ません。自分の力でやろうとすると失敗します。それは、主イエスが働いて下さってこそ、別の言葉でいえば、父なる神と、主イエスによって与えられた聖霊が働いて下さってこそ、霊的にも、肉体的にも、生活的にも、神・隣人・自分を愛する三位一体の神の似姿である神の国である教会が、立ち上がっていくようになるのです。

 今日の聖書箇所である詩編103篇3節に注目したいと思います。此処にはこう記されています。「主はお前の罪をことごとく癒し/病を癒す。」

  中田重治先生は、「中田重治全集第一巻」の287ページで、この箇所に触れながらこう語っています。

 「主の恵みは罪の救いから始まるものであることが分かる。もし罪の赦しを得ないならば、次に来る恵みをえることは出来ないのである。実に罪からの救いは、いっさいの恵みの土台である。」

 神を愛し、隣人を愛する神の国である教会を建て上げていく神の「神癒」は、原罪の赦しである主イエスの十字架を信じた時点から、スタートするのです。だから最初に、原罪の赦しである主イエスの十字架を信じること。それが大切なのです。

 小林和夫先生は、「『神癒』は、十字架に根拠がなければならない。」そう言っています。小林先生は、マタイによる福音書8章17節の言葉。つまり、「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。』」この御言葉に触れて、「信仰の源流を尋ねて」という本の127ページでこのように語っています。

「マタイによる福音書8章17節の言葉はイザヤ書五十三章四節からきたと思われます。彼は、私たちの悲しみを担い、病をさえ引き受けて、あの十字架の上について下さったと言います。ですから、どんな病の癒しの根拠も、イエス・キリストのあがないに土台があることを忘れてはなりません。」

 そうなのです。神・隣人・自分を、主イエスの愛で愛する神の国である教会を建て上げていくための神癒は、原罪の赦しである十字架と、一緒にとりあげられなければならないのです。

 神癒は、主イエスに背をむける原罪の赦しである十字架を、受け入れた時点からスタートして、完全な神の御国に入るその時まで続くのです。

そして、前回、皆さんと共に学んだ聖化、つまり、日々原罪が減少していく消極的聖化の恵みと、十字架の愛で、神・隣人・自分を愛していけるようになる積極的聖化の恵み。それも、主イエスの原罪の赦しである十字架を受け入れた時点からスタートして、完全な神の御国に入るその時まで続くのです。

 だから、新生は過去形、聖化と神癒は、現在進行形で言い現わされているのです。

 最後になりますが、私たちが神癒を語る以上、触れなければならないことがあります。それは、癒されない病の問題です。詳しくは、東京神学大学の近藤勝彦先生が書かれた、「癒しと信仰」という本を読んで頂きたいと思います。

実は、癒されない病について考える時、思い起こす必要があるのは、私たちは、「赦されている罪人」に過ぎないということです。神に背を向ける原罪は、主イエスの十字架を信じたその時点から赦されています。それに伴って、過去から未来まで、聖書に違反する道徳罪も赦されています。

とはいえ、原罪は、聖霊の御業である聖化によって、減少していくことはあっても、この世で生きている限り無くなりません。それ故に、つい聖書に反する道徳罪を犯してしまうことも、減少していくことはあっても、なくならないのです。

そういう意味で、「赦された罪人」に過ぎないのです。

 それと同じように、私たちは「癒された病人」でしかありません。「癒された病人」とは、病気を持ちつつも、癒されているという意味です。これは寛解と言って良いと思います。寛解とは、病気を持ちつつも、病気と上手くつきあえていて、この世の社会生活を営んでいくことが出来ている状態のことです。

 つまり、主イエスの十字架の愛で、神・隣人・自分を愛することが出来るようになる神癒は、別の言葉で言うと、主イエスの十字架の愛で神・隣人・自分を愛する神の国である教会が、建てあがっていくことは、必ずしも自分が抱えている体の病気が治ることや、原罪が完全に取り去られることではありません。

たとえ自分の原罪や、体の病気が完全に取り去られなかったとしても、自分の原罪や体の病気故に、主イエスが十字架で痛まれたことが心に響いてきて、主イエスの十字架に感謝して、聖霊に自分の身を委ねて、聖霊の力に押し出されて、父なる神が願っておられる通り、十字架の愛で、神・隣人・自分を愛する神の国である教会を建て上げていくことが出来るようになる人が、寛解という神癒の恵に与っている人なのです。つまり、そういう人が、「癒されている病人」の状態になっている人なのです。

 神癒が与えられている人は、原罪という罪がありながら、自分の体の病気を抱えながら、完全な神の国、つまり、完全に十字架の愛で、神・隣人・自分を愛することが出来る、神の国が到来することを待ち望みつつ、自分の力ではなくて、聖霊の力に押し出されて、十字架の愛で、神・隣人・自分を愛する神の国である教会を建て上げていくことに励むことが出来るのです。

 今日はこの後、聖餐式が行われます。私たちの原罪や、私たちが抱えている体の病気を、主イエスの十字架の痛みに感謝する原動力として用いて、主イエスの十字架の愛に心が温められて、主イエスの十字架の愛で、神・隣人・自分を愛する、神の国である教会を、皆さんと共に豊かに建て上げていきたいと思います。

 今日、神は、父・子・聖霊の愛の交わり共同体の似姿に、神・隣人・自分の交わり共同体である教会が、回復していく神癒に私たちが与ること。そのことを望んでおられることを心に留めたいと思います。

 最後に一言お祈りさせて頂きます。