2026年5月31日仙台青葉荘教会礼拝 

ヨハネ14章15節~24節 

「私たちを生かす聖霊」 

牧師 野々川 康弘 

ヨハネによる福音書14章は、「最後の晩餐」で、主イエスが弟子たちに語った言葉です。 

主イエスは、最後の晩餐の後、捕えられて、その翌日に、十字架に架けられて殺されました。 

主イエスは、自分がそうなることを知っておられたのです。だから最後の晩餐の時に、弟子たちを心配して、14章の冒頭で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」そのように弟子たち語られたのです。 

それだけではありあせん。主イエスは、自分が十字架で死んだ後、残されるであろう弟子たちを心配して、18節で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」そのように約束されたのです。そしてそれは、父なる神が弁護者を遣わして下さったことで実現しました。では、弁護者とは、一体誰なのでしょうか。それは「真理の霊」です。その証拠に、16節~17節を見ますと、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」そう記されています。 

つまり、「真理の霊」が弟子たちに降って、彼らの内に内住するというかたちで、天におられる主イエスが戻って来るということです。そういったことを、自分が十字架に架けて殺される前の、最後の晩餐の時に、主イエスは弟子たちに約束されたのです。その約束は、「真理の霊」が弟子たちに降って、聖餐を覚える教会が誕生したことで実現しました。 

そうなのです。「真理の霊」が、私たちの内に内住しているかどうかは、私たちが五感で味わうことが出来る聖餐とか、聴くことの出来る聖餐である説教を、大切にして歩んでいるかどうかで、戻ってきた主イエスと、共に歩んでいるかどうかが分かるのです。 

19節を見ますと「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」そう記されています。 

神を無視して歩んでいるこの世の人たちは、聖餐を大切にしません。それは、自分が神を無視する罪を認めていないからです。そういう人たちは、五感で味わうことが出来る聖餐を前にしても、聴くことの出来る聖餐である説教を聞いていても、主イエスを見ることは出来ません。でも、神を無視して歩んでいる罪を認めているキリスト者は、自分のその罪の身代わりとして、主イエスの肉が割かれて、血が流されて、十字架で殺されたことを知っています。そういう人は、五感で味わうことが出来る聖餐や、聴くことの出来る聖餐である説教を通して主イエスを見ているのです。 

つまり、「真理の霊」が、いつも私たちと共にいて下さっているかどうかは、「真理の霊」が私たちの内で、主イエスを見る御業を行って下さっているかどうかで分かるのです。別の言葉で言えば、私たちが、日々、聖餐を覚えて歩んでいるかどうかで、「真理の霊」が、いつも私たちと共にいて下さっているかどうかが分かるのです。何故なら、「真理の霊」は、私たちをみなしごにしないお働きをなさる方だからです。「真理の霊」は、世は主イエスが見えなくなっても、キリスト者には、しっかりと主イエスを見せて下さるお働きをするお方なのです。それが、19節の「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」という意味です。ちなみに、主イエスを見るという意味は、主イエスの十字架の御救いを思い起こさせるということです。 

では、19節後半の「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」とは、一体どういう意味なのでしょうか。 

実は、自我の強い罪深い私たちは、自分の思い通りにことが運ばない時、色々な苦しみや悲しみを体験します。そして、色々な苦しみや悲しみを体験した時に、何だか独りぼっちになったような気持ちに陥ります。そんな時、「真理の霊」が、主イエスの姿を見せて下さるのです。もっと正確にいえば、私たちの自己中心の罪や、神がいつも共におられることを忘れてしまう私たちの罪のために、主イエスの肉が割かれて、血が流されて、十字架に架けられて殺された主イエスの姿を見せて下さるのです。「真理の霊」は、「神が共におられることを忘れて、自分の好きなように歩んで、独りぼっちに感じてしまうあなたの罪のために、主イエスが十字架にお架かりになって死なれた。」そう教えて下さるのです。でも、それだけではありません。「真理の霊」は、十字架に架かって死なれた主イエスは、父なる神に復活させられて、天に昇られて、父なる神の右の座に着かれて、生きておられること。自分が、父なる神と、主イエスに遣わされて、私たちの内に内住していることをも教えて下さるのです。そのことによって、主イエスが神の御子であることや、主イエスの十字架の救いは本物であることを確信させられるのです。その結果、私たちも、主イエスの十字架を、自分の体験として再現出来るようになるのです。それが、19節後半の「わたしが生きているので、あなた方も生きることになる。」という意味です。 

そしてそれが成就するのが、20節が言う「かの日」なのです。最初の方で申し上げました通り、この話を主イエスがなさったのは、「最後の晩餐」の時です。なので、15節~19節の内容は、「かの日」に起こるという約束です。じゃあ、「かの日」とは、一体いつのことなのでしょうか。それは、主イエスが、十字架に架かって死なれ、復活して、天に昇られて、父なる神の右の座に着かれて、父なる神と主イエスを通して、真理の霊、つまり、聖霊が送られたペンテコステの時です。 

今、私たちは聖霊がキリスト者の内に内住している時代に生きています。ということは、今日の15節~19節のことは、既に成就している時代に生きていることになります。 

だから私たちは、自分の力で生きるのではなくて、聖霊に自分を委ねて、聖霊によって導かれて歩んでいけば、主イエスの十字架を、自分の体験として再現して生きることが出来るのです。 

それが出来ないのは、私たちが神を無視して、自分の人生を、自己実現のために歩んでいるからです。自分の自己実現のために、自分の人生を費やしている人は、人を破壊してでも自己実現を目指すのです。そこには、互いを認め合って、互いに支え合う神の国はありません。本当の意味の自己実現は、神が人間を創造された目的通り、神との関係、人との関係に生きる中に在るのです。 

以前にもご紹介したと思いますが、トルストイという文豪は、こういったことを言っています。「モーセの十戒を守るなんてことは、私にはとても堅苦しいものに思えた。自分の自由を奪うものであるように思えた。しかし、人類がモーセの十戒を完全に守ることが出来ている世界を想像した時、そこにパラダイスがあることが分かった。人間は何と罪深い存在なのだろうか。」 

 本当にそうだと思います。人間のとっての自由が不自由で、人間にとっての不自由が自由である程、人は罪深い存在なのです。だからこそ、主イエスがこの世にこられて、神と共に生きる自由を得させるために、十字架にお架かりになられたのです。そして、神と共に生きる自由を人々に分け与えていくことが出来るように、主イエスの十字架を自分の体験として再現出来るように、日々導いて下さっているのが聖霊です。 

ペンテコステの日に、聖霊を与えて下さった父なる神と、主イエスに、感謝したいと思います。 

最後に一言お祈りさせて頂きます。