2026年6月7日 仙台青葉荘教会礼拝

ヨハネによる福音書3章1節~8節

「新生」

野々川 康弘

「救い」と聴かれたなら皆さんはどう答えるでしょうか?

「救い」とは、主イエスの十字架は自分が神を無視する罪のためだったことを信じて、洗礼を受けて、教に属する神の民になって永遠の命を頂けるようになることです。

でも、その答えだけでは十分な回答ではありません。確かに、狭い意味の「救い」は、主イエスの罪の赦しを信じて、神に義と認められるようになる信仰義認です。神を無視する罪の赦しを信じて、神に義と認められて、私たちと神との和解が成立すること。神との関係が、神を無視していたところから、神といつも対話して歩むようになる関係の変化。それが、狭い意味での「救い」です。でも、広い意味で言えば、神といつも対話して歩むようになれば、人間側に変化が及んでいくことが「救い」であるといえます。

皆さんに覚えて頂きたいのは、変化には2つあるということです。一つは神を無視したいたところから、いつも神と対話して歩むようになる関係の変化、(relative change)もう一つは、神といつも対話して歩むようになると、人間側が、神の子らしくなっていく変化(real change)です。

神を無視したいたところから、いつも神と対話して歩むようになる関係の変化は、主イエスが、私たちが神を無視して歩んでいる罪のために十字架に架かって死んで下さったこと信じて、神を無視しなくなったことを認められる義を得て、神との和解が成立するという神との関係の変化です。それが狭い意味での「救い」です。そして、そのことによって、人間側に起こる変化は、新しい者に化ける新化、(新生)日々聖い者に化けていく聖化、霊的にも、生活的にも、日々健康な者に化けていく健化、(神癒)主イエスが再びこの世に来られた時に、栄光の体を頂いて、栄光の体に化ける栄化(再臨)。それが、人間側に起こる変化です。そしてそれが、広い意味の「救い」なのです。

この6月~7月にかけて、「新化(新生)・聖化・健化(神癒)・再臨(栄化)」を仙台青葉荘教会でとりあげますが、これをホーリネスの教会は「四重の福音」と呼んでいます。 

この言葉を最初に使ったのは、スコットランド長老教会の家系に生まれて牧師となった、アルバート・ベンジャミン・シンプソンという先生です。シンプソン先生は、主イエスは、救い主であり、聖め主であり、癒し主であり、再臨なさる王であるという意味で語りました。

シンプソン先生は、主イエスのいろいろな側面を、教理的に網羅しようとして語ったのです。でも、ホーリネス教会の「4重の福音」は、シンプソン先生が語ったのとは違います。中田先生は、アメリカのムーディー神学校の学びの影響を受けて、私たちが主イエスの十字架の救いを信じたら、どのように人間側が変化していくのかということに着目して、人間側がどう変化していくかという意味で、四重の福音を語ったのです。つまり、「四重の福音」は、主イエスのいろいろな側面を語る所から、「信じる人間側の変化」に移したのです。

中田先生が語った「新化(新生)、聖化、健化(神癒)、栄化(再臨)」といった「四重の福音」が意味するのは、「人が神を無視するところから神と対話して歩むようになれば、聖霊が与えられて、神の子としての新しい命が吹き込まれて、神の子らしくきよめられていって、心身共に健康になっていって、主イエスが再臨した時には、栄光の体が与えられるようになる。」ということです。

つまり、「四重の福音」は、「キリスト者になった人の人生は、過去から未来まで変化する」そう主張しているのです。

なので、新生を過去形として、聖化と神癒は現在進行形として、再臨は未来形として中田先生は「四重の福音」を言い表しています。それが、中田先生の「四重の福音」の特徴です。そのことからいえるのは、ホーリネス教会は、広い意味での「救い」それを大切に歩んでいる教会であるということです。

全くそういった予備知識がなく、東京聖書学校に入った私は、最初「四重の福音」とは、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書の事だと思いました。(笑)

4重の福音の「しじゅう」とは「4つ重ねる」と書きます。つまり、4つの重なる福音があるということです。でも、福音が4つあるわけではありません。福音は1つです。じゃあ、4つ重なる福音があるとは、どういう意味なのでしょうか。それは、1つの福音に、要点が4つあるということです。そういう「四重の福音」を、中田先生は「救い」と位置づけて、主イエスの罪の赦しの十字架を受け入れて救われた人間は、神との関係が敵対関係から和解した関係に変化して、聖霊の御力によって、日々神の子らしく私たちが変化していくことを強調しているのです。

つまり、中田先生は、広い意味の救いを大切に考えておられたのです。

中田先生は(『中田重治全集』第1巻 364頁)。このように言っています。

「犯せる罪が赦され、神から恵みを受くる事が第1の救いである。内住の罪より解放されることが第二の救い、聖潔であり、病より救われるのを神癒というのである。また、イエス様が来たりたもう時、われらのからだが天の使いのごとき体になることを、肉体の救いというのである。救いに始まり、救いに終わる。徹頭徹尾、キリストの救いである。これを4つに分けて話すのであるが、一口に言えば救いである。」

中田先生が語る「四重の福音」とは、一口で言えば、「広い意味での救いである。」そのことを覚えて頂ければと思います。

今朝は、「四重の福音」の中で、救いの出発点である「新生」に焦点をあてて、その恵みを、今日の御言葉から聴いていきたいと思います。

「新生」とは、先ほどの中田先生の言葉を借りるなら、「犯せる罪が赦され、神から恵みを受くること。」それが、第1の救いであり「新しく生まれる」ことです。そのことを教えてくれている代表的な聖書の箇所が、ヨハネによる福音書3章です。3章1節~2節を見ますと、「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。」そう記されています。

ニコデモは、「夜」主イエスのもとにやってきました。なぜ夜やってきたのでしょうか。ひょっとしたら、昼間は仕事で忙しくて、ゆっくり時間が取れなかったのかもしれません。あるいは、主イエスの公の教えを群衆に交じって聴くだけではなくて、個人的にじっくり聴いてみたかったのかもしれません。そういった事情は大いにあったと思います。

ニコデモは律法に厳格なパリサイ派のユダヤ人の指導者でした。ユダヤ教の最高法院サン・ヘドリンの構成メンバー71人の内の1人だったのです。ということは、彼はユダヤ社会の中で、トップの内の一人だったのです。じゃあ、主イエスは、この頃、周りからどう認識されていた人だったのでしょうか。主イエスは、旧約聖書の説き明かしが素晴らしく、ユダヤ人たちの注目を集めていた人でした。そのことは、ヨハネによる福音書7章15節の「この人は学問をしたこともないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう。」そんな人々の噂から、伺い知ることが出来ます。

確かに主イエスは、旧約聖書の説き明かしが素晴らしく、ユダヤ人たちの注目を集めていた人でした。でもニコデモも、パリサイ派の学者として学問も地位もあったのです。そんなニコデモが、旧約聖書を本格的に学んだことがない主イエスに教えを乞うのは、とても勇気がいることだったのです。ユダヤ社会の主流派の立場にいながらも、主流派の体制に批判的な主イエスに心を惹かれたニコデモは、闇にまぎれて夜に訪れる方法しかなかったのです。

人目を避けてまで、主イエスに会いにいったニコデモは、主イエスを、どういう人であると思っていたのでしょうか。

そのことが分かるのがヨハネ3章2節です。そこを見ますと、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」そう記されています。

 ニコデモは、主イエスのことを「神のもとから来られた教師」そう思っていたのです。でもそれは、「わたしども」という複数形の告白に過ぎません。まだ、個人の「救い主」であるという告白には至っていないのです。また彼は、「しるし」に頼っています。そのことから分かるのは、主イエスに対する信頼が足りていないということです。でも、不十分ながらも、夜にこっそりと主イエスの下にやってきたのです。「ここにひょっとしたら真理があるかもしれない。」その自分の思いに、素直に従ったのです。「真理があるかもしれない」そういう思い。それを与えて下さるのは神です。だからこそ、それに素直に応答してみることは、とても大切なことなのです。

多くの日本人は、神が存在することは認めています。東京新生教会に私が仕えていた時の話です。土曜子供会に4人の中学1年生と、2人の小学4年生が来ていました。その時、私が、「神はいると思いますか?」そういう質問をしたら、1人を除いて、全員が「神はいると思う!」そう答えたのです。でも、土曜子供会に来ていた子供たちは、本当の神を求めて、礼拝に出席することは無かったのです。「ひょっとしたら真理があるかもしれない。」聖霊が与えるそういった思いに素直になって、礼拝に出席することは、実はとても大変なのかもしれません。

皆さんは今朝、どうでしょうか。「自分に語られている真理があるかもしれない。」そういう聖霊の導きに素直になって、礼拝に出席されているでしょうか。もしただ単に、自分の安心感を得ること、自分が豊かになること、この世で自分が潤うことを目的として礼拝に出席しているならば、それは別に悪いことではありませんが、自分に語られている真理を、探究している姿勢ではないと思います。

ニコデモは、聖霊から与えられた「ひょっとしたら真理があるかもしれない。」そういう導きに素直に応答して、ユダヤ社会のトップの一人というプライドを捨てて、主イエスの下を訪れたのです。主イエスはそういう人に対して親身に語られるお方です。今朝もプライドを捨てて、「ひょっとしたら教会に真理があるかもしれない。」そういう聖霊の導きに対して素直に応答して、礼拝に臨んでいるならば、主イエスは、必ず十字架の奥義を教えて下さいます。

 それはそうと、主イエスの下にやってきたニコデモに対して、主イエスが言葉をかけていますが、どうも会話としてかみ合っていません。ニコデモは挨拶をしただけで、まだ何も質問していないにも関わらず、主イエスは彼の問いを知っておられて、いきなり核心を突くことを言われたのです。ヨハネによる福音書には出てきませんが、共観福音書に、あるお金持ちの青年が、「どうしたら永遠の命を得ることができるでしょうか?」そのことを問う出来事が記されています。ニコデモの内なる問いもそのことだったのです。ちょっとまた脇道に逸れます。ヨハネによる福音書3章1節~21節の、主イエスとニコデモの会話の中の、「神の国を見る」、「神の国に入る」、「永遠の命を得る」そういった表現は、実は同じ事を言っているのです。それらの表現は、「救われること」を意味しています。そのことを心に留めておいて欲しいと思います。

 話をもとに戻しますが、主イエスは、ニコデモの内なる問いに対して、ヨハネによる福音書3章3節でこう答えています。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

つまり主イエスは、「大切なことをいっておく。新たに生まれなければ、救われない。」そうニコデモに言ったのです。

「新たに生まれる」これがポイントです。「新たに」そう訳された言葉は「上から」という意味や、「再び」という意味があります。主イエスは、「上から」という意味で、「新たに」そう言われたのです。これはヨハネによる福音書1章13節の「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」という御言葉の意味と同じです。でも、ニコデモは「新たに」といわれた主イエスの言葉を、「再び」そういう意味で理解したのです。だから、「年をとってから生まれることが、どうしてできますか。母親の胎内に戻ってもう一度生まれるなんてできるわけがないでしょう。」そう言ったのです。でも、「新たに生まれる」という意味は、「再び生まれ直す」事ではないのです。だから主イエスは、誤解を正すために、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。」そう言われたのです。此処で注目したい言葉は「霊」という言葉です。英訳聖書では、「Spirit」そう訳されていますが、頭文字のSは大文字になっています。大文字になっている場合、それは単なる霊ではなくて神の霊を意味しています。つまり、洗礼を受けて、聖霊によって生まれなければ、神の国にはいることは出来ないということです。そう主イエスはニコデモに言われたのです。

整理しますと、「新しく生まれる」とは「上から生まれる」こと。つまり「神から生まれる」ことです。そして、「水と霊とから」とは、私たちが神を無視する罪の身代わりとなって、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて、洗礼を受けて「聖霊」が与えられることです。

つまり、「四重の福音」の「新生」は、神のお働きによって、私たちが神を無視してしまう罪の身代わりとして、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられて神の子にされることです。

ということは、「四重の福音」の「新生」は、私たちの考え方や生き方が変わることでもなければ、私たちの気分が一新されることでもないということです。

そうは言っても、神のお働きによって、私たちが神を無視してしまう罪の身代わりとして、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられたなら、聖霊の囁きに導かれて、私たちの考え方や生き方が変わったり、私たちの気分が一新されたりするようになっていくのです。そのことによって、「新しく生まれた」ことが確認出来るようになるのです。神から生まれて「新生」した人は、聖霊が与えられて、その聖霊の囁きによって、古い自分のままではいられなくなるのです。古い自分が日々死んでいくという変化が、大なり小なり生ずるようになっていくのです。

「新生」は、聖霊が与えられて、聖霊の囁きによって、人間の変革がスタートする時でもあるのです。でも、ある人たちは、「神のお働きによって、私たちが神を無視してしまう罪の身代わりとして、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられて「新生」したとしても、聖霊の囁きによる人間の変革は始まらない。聖霊が囁いた時のみ、人間が変化するだけだ。」そう考える人もいます。

でも、「新生」した時点から聖霊の囁きに導かれて、人間の変革が始まったとしても、始まらなかったとしても、神のお働きによって、私たちが神を無視してしまう罪の身代わりとして、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられて、聖霊がいつも共にいて下さるようになって、神の子にされるのが「新生」です。

そんな「新生」は、人間の力でスタートさせることは出来ません。「新生」は、神の力によってスタートするのです。その証拠に、3節の「新たに生まれなければ」という言葉、「上から生まれなければ」という言葉は、受身形になっています。つまり、「神によって生まれなければ」そういう意味になっているのです。

そじゃあ私たちは、どうしたら神のお働きによって、わたしたちが神を無視してしまう罪の身代わりとして、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられて、「新生」していることが確認出来るのでしょうか。

そのことが記されているのが8節です。そこを見ますと、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」そう記されています。

此処でいう「風」は、「聖霊」のことです。「聖霊」は「風」のように思いのままに吹いています。「聖霊」は「風」のように目に見えないため、どこから来て、どこへ行くのか分かりません。でも確かなことがあります。「風の音」つまり、「聖霊の囁き」だけは、はっきり聴くことが出来るのです。

「聖霊の囁き」を聴けるようになっていること。それが、神のお働きによって、私たちが神を無視してしまう罪の身代わりとして、主イエス十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊が与えられて、神の子になっている証拠です。

でも、ニコデモが、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」その主イエスの言葉を聴いた時、彼が言ったことが9節です。そこを見ますと、「どうしてそんなことがありえましょうか」そう彼は答えています。

そんなふうに答えたニコデモは、この後、キリスト者になれたのでしょうか。

彼は「夜」に主イエスの下にやってきました。ヨハネによる福音書に出てくる、「夜」という言葉には、象徴的な意味があります。ヨハネによる福音書では、「夜」という言葉や、「暗闇」という言葉は、「悪、偽り、無知」を表している言葉です。

ユダがイエスを裏切るために出て行ったのも「夜」でした。それとは逆に、主イエスは「光、善、真理」を表している言葉です。

ニコデモは、主イエスと出会ったことで、暗闇から光へと出て行くキリスト者の旅路がある意味で始まったのです。

彼は再びヨハネによる福音書7章50節に登場しています。そして、ヨハネによる福音書7章50節に続く51節を見ますと、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」そのように、主イエスを非難する仲間をニコデモは諭しています。

また、ヨハネによる福音書19章39節を見ますと、ニコデモは、アリマタヤのヨセフと共に、十字架で死なれたイエスの葬りの準備をする人として登場しています。

彼は夜の訪問者から、昼の訪問者に変化しているのです。

「夜」に主イエスを訪ねた時、彼はとんちんかんなことばかり言っていました。でも、神の働きによって、主イエスと出会ったことで心が揺さぶられて、いつのタイミングか分かりませんが、「新生」の恵を与えられて、聖霊の囁きを聴くことが出来るキリスト者に変わっていたのです。彼が救われたことは、ヨハネによる福音書19章39節~40節が力強く証言しています。そこを見ますとこう記されています。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」

今朝、まだ信仰を持っていない方がいるとすれば、ニコデモのように、神を無視する自分の罪のために、主イエスが十字架にお架かりになられたことを信じて洗礼を受けて、聖霊を与えられて、神の子になって頂きたいと思います。神を無視して歩んでいたところから、主イエスと共に歩んでいる神の子であることが分かるようになるのは、与えられた聖霊の囁きを素直に聴いて、聖書に目が開かれていく喜びを得ているかどうかで分かります。主イエスと共に歩んでいる神の子は、主イエスの言葉を探究する人になるのです。

「夜」に、主イエスに出会いに行ったニコデモは、最初は、とんちんかんなことを言っていました。しかし、そんな彼が、主イエスの言葉に自分の心が揺さぶられたことがきっかけで、いつのタイミングか分かりませんが、「新生」の恵に与って、キリスト者になって、いつの間にか主イエスの遺体を受け取って、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて亜麻布で包むぐらいの人になっていたのです。

神は皆さんに出会ったなら、皆さんの心を揺さぶって、神の最善の時に、必ず「新生」の恵を与えて下さいます。

神はいつも皆さんと共にいて、祝福したいと願われているお方なのです。

最後に一言お祈りさせて頂きます。