2024年8月25日仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録4章1節-22節

「イエスの名による」

2024.0901.Syuuhou

 今日の箇所は、ペンテコステの日から始まった、教会の力強い伝道が記されています。その中心にいたのが、ペトロとヨハネです。

4節を見ますと、伝道によって主イエスの救いを信じた人が、「男の数が五千人ほどになった。」そう言っています。

男性だけで五千人程ということは、女性や子供を含めて考えれば、1万人以上の人たちが、主イエスの救いを信じたことになります。

だから主イエスの弟子たちは、神殿を管理していた人たちや、ユダヤ人の指導者たちに捕えられて、尋問を受けることになったのです。そのことが、今日の箇所に記されていることです。

つまり、教会に対する最初の迫害が起こったのです。これは裏を返して言いえば、教会が、それだけ力を持っている存在として、意識され始めたということです。

ペンテコステが起こり、それほど日が経っていないにも関わらず、迫害にあうぐらい教会が急成長をしたのです。

でも最初の教会の迫害は、まだ迫害と呼べる程の迫害ではなかったのです。とはいえ、確かに迫害は起こったのです。でも、その迫害により、ますます力強く大胆に、御言葉を語るようになっていったのです。その結果、教会がますます大きくなっていったのです。それが、4章が述べていることです。

でも、そこで疑問になることがあります。それは、迫害にあったにも関わらず、何故、ますます力強く、伝道をしていくことが出来たのかということです。そのことを、今日、皆さんと共に学んでいければと思っています。

伝道したことで逮捕されて、一晩監禁されたペトロたちは、翌日、「議員、長老、律法学者」たちの前に引き出されたのです。彼らが引き出されたところは、「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人議会です。

実はこの議会が、以前、主イエスを有罪として、ローマ総督ポンテオ・ピラトの下に、主イエスを引き渡すことを決定したのです。

そんなユダヤの最高権威機関の前に、彼らは立たされたのです。それでもペトロたちは、全く動じなかったのです。その証拠が、8節以下のペトロの言葉です。そこに、とても大胆で、力強いペトロの言葉が書き記されています。また13節を見るならば、議員たちが、彼らの大胆な態度や、二人が無学な者であったことに驚いたことが、記されています。

皆さん、ペトロたちは、ガリラヤ湖の漁師だったのです。特に学問にたけていた人たちではなかったのです。そんな人たちが、ユダヤの最高権威の人たちを前にして、堂々と信仰告白をし、巧みな伝道をしたのです。

「巧みな伝道をした。」と言った理由は、伝道の巧みさが、9節に現れているからです。そこを見ますと、「今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば」そう記されています。

実は、ユダヤ人議会が、彼らに問いただしたことは、7節に記されていたことです。つまり、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」そういうことだったのです。

「ああいうこと」とは、生まれつき足の不自由だった男性を癒したことです。それ自体、何も悪いことではありません。むしろ素晴らしいことです。そのことを、ペトロは先ずはっきりさせたのです。

つまり、「わたしたちがしたのは、病人に対する善い行いである。その良い行いのことで、今取り調べを受けている。」そのことを明らかにしたのです。

ペトロが、何に関する取り調べを受けているのか。そのことを、はっきりさせたことには、理由があるのです。

彼らが逮捕されたのは、1節-2節に記されている通り、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たち」が、ペトロたちが、「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えている」ことに、苛立ちを覚えたからです。

ペトロたちが、逮捕され時の逮捕理由は、癒しの業をしたからではなかったのです。主イエスの復活を宣べ伝えたからです。

何故、主イエスの復活を宣べ伝えたことが、問題だったのでしょうか。

その理由は、「サドカイ派」の人たちがいたからです。彼らは、霊、天使、復活を、否定していたのです。その点で、彼らは、ファリサイ派の人たちと対立していたのです。ファリサイ派の人たちは、霊、天使、復活を信じていた。何故、両者の間に、そういう違いがあったのでしょうか。

その理由は、サドカイ派は選民意識が強く、神殿祭儀に関係している上流階級の人たちで、世襲を重んじ、教養ある人たちだったのに対し、ファリサイ派の人たちは、まずしい民衆の出身者で、貧しい民衆の生活を、律法によって、教え導こうとしていた人たちだったからです。

つまり、教養あるサドカイ派の人たちは、霊、天使、復活を、信じない傾向があったのです。彼らは、自分たちが選ばれていて、教養があることを誇りとしていたのです。それ故に、神秘的な信仰なんかで、神殿祭儀を司っている自分たちと、同列になりうる教えは、受け入れがたかったのです。彼らにとって、神秘的な信仰に繋がる霊、天使、復活は、不必要だったのです。というよりも邪魔だったのです。

逆に、貧しかった一般民衆出身の、ファリサイ派の人たちは、霊、天使、復活を信じることで、そこに将来の希望を見出し、貧しい今を、希望を持って歩んでいたのです。だからこそ、ファリサイ派の人たちは、サドカイ派の人たちのことが嫌いだったのです。

当時のユダヤ人たちの間に、そういう信仰上の違いがあったが故に、対立があったのです。

これを現代に置き換えていうと、神の神秘体験をすることが、神の救いの確証に至るのか、神を、聖書の筋道からちゃんと知らされることが、神の救いの確証に至るのか。そういう対立構造に似ているかもしれません。

それはともかく、サドカイ派の人たちと、ファリサイ派の人たちの対立がある中で、ペトロたちは、主イエスの復活を宣べ伝えていたのです。それ故に、ファリサイ派の一派のように思われたのです。だから、神殿祭儀を司っているサドカイ派の人たちが苛立って、彼らを逮捕したのです。

でも、彼らが引き出された議会には、ファリサイ派の人たちもいたのです。「律法学者たち」は、ファリサイ派の人たちです。だから議会では、死者の復活を宣べ伝えたことを、ペトロたちに、尋問することは出来なかったのです。だからこそ尋問は、癒しの業を、何の権威で、誰の名によってしたのかということだった訳です。

サドカイ派の人たちと、ファリサイ派人たちの対立があったからこそ、逮捕理由と、取り調内容に、食い違いが生まれていたのです。ペトロはそこをついたのです。つまり9節の、「今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば」という言い回しには、「昨日捕えられた理由は、死者の復活を語ったことだったはずだ。でも、今日の取り調べでは、別のことが問われている。それはどうしてだ。」そういうニュアンスがあるのです。

ペトロはとても冷静だったのです。自分たちを逮捕して、取り調べている人たちの姿を、ちゃんと観察出来ていたのです。だからこそ、「何の権威によって、誰の名によってあのような癒しを行なったのか」そう議会で尋問されることが、ちゃんと分かっていたのです。だからこそ、その尋問を待っていたとばかり、主イエスのことを伝道しだしたのです。10節-11節を見ますと、「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。」そうペトロが語ったことが記されています。

つまりペトロは、「生まれつき足の不自由だった男性が癒されたのは、主イエスの名による。主イエスは、ユダヤ人たちの指導者であるあなたがたが、十字架に架けて殺した。でも神が、死者の中から主イエスを復活させたのだ。それは、詩編118編22節の「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。」その御言葉が成就するためだった。」そう伝道したのです。

つまり、「こんな石は役に立たない。いらない。」そう言って捨てられたはずの主イエスは、隅の親石だったということです。隅の親石とは、ドーム状の建物を建てる時、てっぺんの真ん中に置かれる、ドーム全体の重さをしっかり支える一番大切な石のことです。

つまり「隅の親石となった」という言葉を通して、ペトロが言わんとしていたのは、「ユダヤ人の指導者であるあなたたちが、十字架に架けて殺した主イエスを、神は全ての人の救いの要となるように用いた。その方の名が、生まれつき立つことも、歩くこともできなかった足の不自由な男性を癒した。」そういうことだったのです。

それはそうとペトロは、ペンテコステの日の最初の説教でも、神殿の境内(けいだい)での説教でも、今日皆さんと共に学んでいる、逮捕されて、尋問を受けている今日の箇所でも、「ユダヤ人の指導者であるあなたたちが、十字架に架けて殺した主イエスを、神は復活させて、救い主としてお立てになった。」そう語っているのです。

つまり、ペトロが3回の説教を通して、いつも語っていたのは、「神・罪・救い」であり、「主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業」だったのです。そこに、教会が何を伝道しなければならないのか。そのことが示されています。

何度も申し上げていますが、主イエスの十字架と出会うということは、自分たちが神に背を向けている罪が露わになり、その罪の赦しが与えられるということです。

主イエスの十字架と復活の御業は、罪と死の力に、支配されている現実を、私たちにつきつけるのです。でも、それと同時に、罪と死の力の支配からの解放を、私たちに指し示すのです。

とはいえ、私たちは所詮、罪赦された罪人に過ぎないのです。だからこそ、罪から日々切り離し、永遠の命を生きる自由、罪に縛られない自由、それを私たちに与えるために、主イエスの昇天の御業により、聖霊を私たちに与えて下さったのです。

つまり、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業は、その御業を信じた時点から、永遠に、罪と死の力の支配に、縛られることなく、生きていける救いの恵みなのです。

ということは、主イエスの救いを宣べ伝える伝道は、神が、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を、実現して下さったという情報提供ではないということです。

その証拠に12節を見るならば、ペトロは、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」そう語っています。

ペトロは此処で、自分はこう信じるということではなくて、「主イエスの御名以外には救いは得られない。」そう断言しているのです。

つまり、「人には、いろいろな救いがある。でも、その中で主イエスの救いとは、こういう救いである。」そういうことではないのです。

あれもあるし、これもあるという相対的なものなんかではなくて、救いは、このみ名によってのみ得られる。他のものによっては得られない。そのことを絶対的な真理として、ペトロは語っているのです。

そこで疑問になることがあるのです。それは一体何を根拠に、「主イエスの救いのほか、人間には与えられていない。」そうペトロは断言しているのかということです。

実はそれは、ペトロの救いの体験が、根拠になっているのです。彼は、「自分はキリストの一番弟子である。主イエスの最も近くにいる者である。」そういう自負を持って生きていたのです。でもそんな中で、主イエスは十字架に架けられて、殺されてしまったのです。

彼はその時、主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。それだけではありません。彼は三度、そんな人は知らない。自分とは関係ない。そう断言してしまったのです。「自分はキリストの一番弟子である。主イエスの最も近くにいる者である。」そういう自負を持って、生きていたペテロが、主イエスを裏切ったのです。

でも私たちは、そんなペトロを笑うことも、嘲ることも出来ないのです。何故なら、それが人間だからです。私たちは、いつも自分に自信を持って生きようとしています。もっというと、「自分に自信を持って生きることが大切である。」そう思って生きています。だからこそ私たちは、自分が今まで積み上げて来た、キャリアから引き出されるところの、自分の信念、決意、確信に頼って生きてしまうのです。もっと言うと、それに依存して生きているのです。

だからこそ、それが折られなければならない。でなければ、自分が今まで積み上げて来たキャリアから、引き出される、自分の信念、決意、確信に、依存して生きているところから脱却出来ないのです。神は、ペトロの自分の自信を、徹底的に折られたのです。ペトロの挫折は、「あの時は弱くて失敗した。今度こそ、頑張って失敗しないようにしよう。」そういう反省によって、乗り越えられるものではないのです。

ペトロの場合、主イエスの命がとられた時、主イエスがかつて「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないというだろう」そう忠告していたことが、自分の身に起こってしまったのです。つまり、もうとりかえしがつかないのです。自分の持っている何らかの力によって、もう立ち上がることができるレベルではなくなっていたのです。そこまで、主イエスはペトロを追い詰めたのです。というよりも、ペトロが将来、自分の自信が徹底的に折られるために、「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないというだろう」という楔(くさび)を、事前に打ち込んでおいたのです。でもそれこそが、ペトロが、神を神として歩んでいけるようになるための、主イエスの愛だったのです。

皆さん、主イエスは、私たちを愛するが故に、時にとても厳しいのです。何故、主イエスは時に、私たちにとても厳しいのでしょうか。それは、私たちが打ちひしがれた時にこそ、十字架が深く心に響くようになるのと同時に、復活の主イエスと出会えるようになるからです。現に、ペトロが再び立ち上がることが出来るようになったのは、復活した主イエスとの出会いによるのです。

かつてペトロは、主イエスの忠告を聞き流し、自分の信念を信じて、別の言葉でいうと、自分の力を信じて、主イエスの弟子として生きていたのです。その結果、鶏が3度鳴く前に、主イエスとの関係を完全に否定してしまったのです。でも、そんな自分の罪を背負い、十字架にかかって死なれた主イエスが、御自分の力でではなくて、父なる神の御手により、復活した御自分の姿を、ペトロに見せることを通して、打ちひしがれていたペトロを、再び主イエスの弟子として立ち上がらせたのです。

勘違いしてはいけません。ペトロは、復活した主イエスを見て、自分の足の力で、立ち上がれたのではないのです。生まれつき、立つことも歩くこともできなかった男性が、ただ主イエスの御名によって、立ち上がることができた如く、ペトロも、ただ主イエスの御名によって、神の子として、新しく生き始めることができたのです。

ペトロは、主イエスの名こそ、つまりは、主イエスの十字架・復活・昇天の御業こそが、罪から自分を切り離して、永遠に神の子にする力を持っていることを、思い知らされたのです。

12節に記されている「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」そういうペトロの確信は、自分が救われた体験から来ているのです。

何度も申し上げますが、12節のペトロの言葉は、「自分の信仰心によってなんかではなくて、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業によってのみ生かされる。」そういうペトロの信仰告白であり、ペトロの宣言なのです。

私たちも、ペトロに与えられた、救いの体験をしているが故に、キリスト者であり続けることが、今出来ているのです。

自分の力では、信仰は維持出来ないのです。人間はそんなに優秀ではありません。人間は、神の御言葉をすぐに蔑ろにする罪人なのです。神の御言葉を、すぐに蔑ろにする罪人だからこそ、隣人の言葉もすぐに蔑ろにするのです。

それはそうと、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」そういうペトロの信仰告白は、自分たちを絶対化して、他の人たちを軽蔑したり、神の名を使って、攻撃したりすることを許すようなものではありません。

キリスト教会が、歴史の中で、そういう過ちを、犯し続けていることは事実です。何故教会は、他の人たちを軽蔑したり、神の名を使って、攻撃したりするのでしょうか。

それは、ペトロの信仰告白を、ちゃんと理解していないからです。ペトロの信仰告白を、自分たちを正統化する言葉として用いたり、他の人たちを批判して、攻撃する言葉として用いたりしているからです。

ペトロの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」という信仰告白を、自分の確信や、信念と結びつけて解釈したり、国の確信や、信念と結び付けて解釈したりするならば、それによって救われるなんてことは、絶対にあり得ません。

むしろペトロの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」という信仰告白は、自分の確信や、信念と結びつけて解釈することを否定しています。

また、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」というペトロの信仰告白は、「どの宗教がいいか」という話ではありません。

私たちが本当に立ち上がって歩くことができるのは、何によるのか。私たちの人生を本当に支え導くものは何なのか。そのことをちゃんと教えているのです。

私たちの人生を本当に支え導くのは、私たちの中にある何かではないのです。そうではなくて、私たちの罪のために、十字架に架かり、主イエスが死なれたことを受け入れて、父なる神の御力によって、復活なさった主イエスと出会って、主イエスの昇天によって与えられた聖霊との豊かな交わりの中に生きるところにこそ、信仰が与えられるのです。

自分の持っている何かに依り頼むことをやめて、主イエスに拠り頼んで生きるようになること。それが悔い改めです。

ペトロは、聖書を自分の都合のいいように解釈する信仰なんかではなくて、聖書が教える信仰に生きていたからこそ、無学で、漁師でしかなかった彼が、とても大胆で、とても力強い歩みを、たとえ迫害に出くわしても出来たのです。

サンヘドリンの議員たちが驚いたのは、ペトロたちの中にある、力や大胆さでは無かったのです。そうではなくて、彼らが、主イエスの御名によって生かされて、支えられて、導かれている中で、発揮されていた力や大胆さに驚いたのです。

ペトロたちは、主イエスのみ名によって生かされて、支えられて、導かれている中で、ユダヤ人の権威ある指導者たちの迫害の只中で、冷静に状況を見つめて、巧みな弁論を展開して、はっきり主イエスの救いを伝道しきったのです。

サンヘドリンの議員たちは、ペトロたちが癒した男性が、現に目の前に存在しているからこそ、どうすることも出来なかったのです。

だからこそ彼らは、ペトロたちが、主イエスの名をこれ以上教え広めて、民衆に影響を与えることを防ぐために、「今後二度と主イエスの名によって語ってはならない。」そう彼らを脅したのです。しかし彼らはその脅しに対して、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」そう言い切ったのです。

生まれたばかりの教会が、そのような大胆な伝道をしていたのです。何故、生まれたばかりの教会が、そのような大胆な伝道が出来ていたのでしょうか。それは、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」そういう確信を得ていたからです。

そこにこそ、誰でも洗礼を与えれば良いということではない根拠があるのです。

キリスト者が生まれるとは、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」そういう確信を、神から与えられた者が、生まれることを意味しているからです。

キリスト者になるということは、自分の信念に依り頼むことから解放されて、自分のために十字架にかかって死んで下さった主イエスの十字架・復活・昇天の御業を見つめて、三位一体の神との交わりに生かされ生きるということです。三位一体の神との交わりに生かされ生きるとは、三位一体の神・自分・隣人との三位一体の交わりに、永遠に生かされ生きることです。三位一体の神を見つめて、三位一体の神・自分・隣人との関係に生かされ生きる者となったならば、自分の信念に固着して、ヒステリックになってしまったり、隣人との関係を、関係の死で解決したりするような歩みなんかではなくて、たとえ隣人から迫害を受けようとも、たとえ隣人から迫害を受けている最中であろうとも、三位一体の神・自分・隣人の、三位一体の愛の関係を築き上げていこうと思って、福音伝道を、していくことが出来るようになるのです。

でも勘違いしないで下さい。三位一体の神・自分・隣人の、三位一体の愛の関係を、自分の力で築き上げていくことは不可能です。

それは、8節に記されている通り、「聖霊に満たされて」こそ、可能となるのです。

ペンテコステに教会を誕生させた聖霊は、私たちを、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの愛で満たし、ペトロたちのように、大胆に、力強く、伝道させて下さるのです。

だからこそ、聖霊の働きをいつも祈り求めて、いつも聖霊の助けによって、大胆に、力強く、主イエスの御名によってのみ、与えられる救いに生きたいと思うのです。

その結果、たとえどのような中にあったとしても、三位一体の神・自分・隣人の三位一体の愛の関係を築き上げる、主イエスの救いを大胆に、力強く、皆さんと共に、宣べ伝えてければと心から願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。




Comments are Closed