2024年6月16日 仙台青葉荘教会礼拝

ルカによる福音書15章1節―7節

「新生」

次回のホーリネス弾圧記念礼拝を除いて、今日からしばらく、「四重の福音」である、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」を、皆さんと共に、順番に学んでいこうと思います。

今日は「新生」を、皆さんと共に学びます。

四重の福音を日本で初めて語ったのは、中田重治先生です。彼は、主イエスの救いを、新生、聖化、神癒、再臨の4つの側面から強調しました。それが「四重の福音」です。「新生」は、神に背を向け生きる原罪を私たちが認めて、主イエスの十字架の救いの御業を受け入れて、神との関係に生きるようになることです。

では、主イエスの十字架の御業を受け入れるとは、具体的にはどういう意味なのでしょうか。

それは、主イエスが御自分の生涯を通して、御自分が獲得された父なる神からの「義」。それが、罪人である私たちに与えられて、神に義人と見做されるようになり、聖霊が与えられ、神の子と認められるようになるということです。

つまり神の子になること。それが新生です。その「新生」が、狭い意味での神の救いです。その「新生」によって、神との関りに生きることが出来るようになるのです。

結婚で例えるなら、元々別々に歩んでいた者同士が、結婚契約をして、パートナーと一緒に生活をするようになるようなものです。でも、結婚生活の最中、突然離婚をして、夫婦関係が無くなってしまうことがあるように、たとえ「新生」したとしても、神と共に、永遠に生きることが出来なくなるなんてことがあるのです。つまり、神と共に永遠に生きることが、途中で挫折してしまうことがあるのです。その証拠に、日本のキリスト者の平均寿命は、約2.7歳と、非常に短命です。

神と共に永遠に生きることが成就するためには、この世で自分の命が尽きるその時まで、神と共に生き、復活の祝福を、父なる神に与えられ続ける必要があるのです。結婚で例えるならば、結婚契約が成就するためには、どちらかが死ぬまで、夫婦であり続ける必要があるようなものです。つまり「新生」は、あくまで、神と共に永遠に生きる命の入り口であり、「新生」だけで、神と共に永遠に生きることが、成就するわけではないということです。結婚で例えるなら、「新生」の段階は、まだまだハネムーンに過ぎません。とはいえ、「新生」したということは、確かに神の救いにあずかったことを意味しています。狭い意味で言えば、「新生」したことが、神の救いであることは間違いありません。

でも、完全に救われるかどうかは、「新化(新生)」「聖化(聖化)」「健化(神癒)」「栄化(再臨)」の道のりを経てるかどうかで分かります。簡単に言えば、この世で神との関係に死ぬまで生かされているかどうか。それで救われているかどうかが分かるのです。

それはそうと、今日はルカによる福音書15章1節-7節の言葉から、皆さんと共に、「新生」は、神の救いの一部でしかないことや、「新生」がとても大切であることを、心に刻みたいと思います。

実は、15章の「見失った羊」のたとえ話は、4節から始まっています。3節までは、「見失った羊」のたとえ話が、話された経緯が記されています。そこを見ますと「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」そう記されています。

実は15章の「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」の三つのたとえ話は、主イエスに不平を言った、ファリサイ派の人たちや律法学者たちに対し、主イエス御自身が話されたことです。「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」これら3つのたとえを理解するためには、それを主イエスが話された経緯を知る必要があります。

主イエスが、3つのたとえを話された経緯を知ったとすれば、14章との繋がりが見えて来ます。14章前半には、主イエスが、あるファリサイ派の議員の家に招待されて、食事の席に着いたことが記されています。その時、主イエスは、神の救いにあずかることを、神が催す盛大な宴会に招かれて、その食卓に着くことにたとえて話されました。その時、その話を聴いていた人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」そう主イエスに言ったのです。その時、主イエスは、今度は違ったたとえ話を、話されました。それは、宴会に招かれていたにも関わらず、直前になって、色んな理由をつけて、来るのを断った人たちの話です。

その話はこうです。宴会を催した主人は、宴会に招いた人たちが来るのを断ったが故に、最初に招いていた人たちの代わりとして、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人たちを招いてみたら、彼らはその宴席に着いた。そういう話です。

実は、今ご紹介した2つの主イエスのたとえ話のポイントは、神の救いにあずかる人、つまり、神の国で宴席に着く人は、誰なのかということです。

もともと招かれていた人は、来るのを断り、招かれるに相応しくないと思われていた貧しい人、体の不自由な人が招かれて、宴席に着いて、救いにあずかったのです。

そのことが指し示していることは、神の民ユダヤ人が救いから落ちて、異邦人が救いに与ったということです。そして、このことが指し示していることは、神の救いは、人間が分かる形で与えられるものではないということです。神の救いは、人間の思いや常識を打ち破る形で与えられるのです。

主イエスはそういう神の救いを、言葉や具体的な行動で現したのです。行動で表わした最たる例は、徴税人や罪人を迎えて、食事を共にすることを通してです。

主イエスが彼らを迎えて共に食事をしていたのは、ルカによる福音書14章に記されている神の国の食事を、具体的に現わすためです。何故具体的に現わす必要があったのでしょうか。それは、失った羊のたとえ話を用いて、ファリサイ派の人たちや律法学者たちを悔い改めに導くためです。でも、徴税人や罪人と食事を共にしているのを見たファリサイ派の人たちや律法学者たちは、別の言葉でいえば、神の救いに既に与っているという自負があった人たちは、「主イエスは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。」そういう不平を言いだしたのです。そのことが記されているのが、15章2節です。

でも本当は、不平を言われる筋合はないのです。その理由は、主イエスは、ユダヤ人であるファリサイ派の人たちや、律法学者たちも、食事の席に招いていたからです。その証拠に、ルカによる福音書14章1節に記されていた通り、ファリサイ派の議員の招きに応えて、食事の席に着いたのです。更には、14章の大宴会のたとえ話でも、彼らを招いておられたことを言及しておられました。

主イエスは、ファリサイ派の人たちも、律法学者たちも、御自分の教えを聴いて、悔い改めて、御自分が教える神の国の福音を信じることを求めておられたのです。でも彼らは、「あんな罪人と一緒に食事をする者のところに行けるか」そう主イエスを蔑み、主イエスを批判したのです。つまり彼らが、神の招きを断り、宴会に来ない人だったのです。それに対して徴税人や罪人は、今日の1節に記されている通り「話を聞こうとして、イエスに近寄って来た」のです。つまり、彼らだけが招かれたのではなくて、彼らだけが主イエスの招きに応えたのです。14章の終わりの14章35節には、「聞く耳のある者は聞きなさい」そういった主イエスの言葉が記されています。実際に「聴く耳」を持っていたのは、徴税人や罪人だけだったのです。でもまさにそのことが、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、我慢がならなかったのです。「自分たちは神の律法をしっかり学び、それを守って生きている。自分たちはあんな罪人たちとは違う。あんな連中と一緒にして欲しくない。」それが彼らの不平だったのです。要するに彼らは、自分たちのプライドが傷つけられたのです。

そんな彼らに対して、主イエスは「見失われた一匹の羊」のたとえを話されたのです。見失われた一匹の羊とは、ある意味で、ファリサイ派の人たちや律法学者たちのことだったのです。

そんな今日の話の4節を見ますと、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」そう記されています。実は同じようなたとえ話が、マタイによる福音書18章にも記されています。でもそこでは、「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて」そう記されています。つまりマタイでは、「あなたがた」に対する問いではあっても、たとえ話そのものは、「ある人」の話、第三者の話だったのです。それに対して、ルカによる福音書は直球です。「あなたがた」に対する問いが、「ある人」の話ではなく、「あなたがた」に対する話、つまり、第二者に対する話になっているのです。

今日の4節に記されている「あなたがた」というのは、主イエスを批判するファリサイ派の人たちや律法学者たちのことです。つまり、その人たちに直接、主イエスは、「自分が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったらどうするか考えてみなさい。もしあなた方に、そのようなことがあったとすれば、九十九匹を野原(のはら)に残しておいて、見失った一匹を見つけ出すまで、捜すはずだ。誰でもそうするはずだ。」そう言っておられるのです。

でも実は、それがこのたとえ話の一つの難しさです。主イエスは、「九十九匹を野原に残しておいて、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るのが当然だ。誰でもそうするはずだ。」そう言っておられます。でもそれは、当然ではありません。見失った一匹を捜している間、野原に残された九十九匹は、本当に大丈夫なのでしょうか。もし狼に襲われたらどうするのでしょうか。よく考えてみれば、そういう疑問が生じてくるのです。つまり、必ずしも一匹を捜しに行くことが、当然だとは言えないのです。むしろ残った九十九匹を守る方が大事だから、失われた一匹のことはあきらめる。実際の状況を考えれば、その選択肢も十分にありえます。

でもそのようなことは、心配する必要は全く無いのです。その理由は、「一匹を捜しに行くのは当然である」という主イエスの主張は、残りの九十九匹は、全く心配する必要がないことを前提としているためです。おそらく、残りの九十九匹を見てくれる仲間の羊飼いがいたのです。そう考えることが出来る根拠があります。その根拠こそ、「無くした銀貨」のたとえです。

「見失った羊」と、「無くした銀貨」のたとえは、同じ内容です。どちらも、見失ったものを捜して見つけ出す話です。

ちなみに「放蕩息子」のたとえは、放蕩息子が帰って来る話であるが故に、「見失った羊」と、「無くした銀貨」のたとえとは違う内容になっています。

それはそうと、「無くした銀貨」のたとえ話の場合、おそらく9枚の銀貨は、ちゃんと保管してあったからこそ、安心して、無くなった一枚の銀貨を、捜すことが出来たはずです。つまり、残りの九枚を心配する必要は全くなかったのです。

「無くした銀貨」の話との並行関係を考えると、「見失った羊」のたとえも、九十九匹について、全く心配する必要がなかったと言えます。つまり「残りの九十九匹はどうなるのか!」そういう問いは、「見失った羊」のたとえでは、的外れな問いなのです。「残りの九十九匹はどうなるのか!」それにとらわれると、この話が言わんとすることが見えなくなります。

じゃあ主イエスが、「見失った羊」のたとえを通して、言わんとしているのは一体何でしょうか。それは、「あなたも大切なものが無くなったならば、必死に探し回るはずだ。」そういうことです。一匹の羊が、当時どれくらいの値段だったか分かりません。でも羊飼いにとっては、本当に大事な財産であったことは間違いありません。「無くした銀貨」のたとえに出て来る銀貨一枚は、一人の労働者の、一日の賃金に当たる金額です。つまり、銀貨一枚を無くすのは、一日の働きが無駄になることを意味しています。それほど価値あるものを見失ったとすれば、私たちも必死で捜し回るはずです。それは、見つからなければ大損になるからです。主イエスが「見失った羊」と、「無くした銀貨」のたとえを通して言いたいことは、「あなたも自分の財産を失ったと思った時、『必死に捜して、何としてでも見つけ出そう。』そう思うはずだ。」そういうことなのです。つまり無くしたものは、「自分のもの」ということが、大前提なのです。

羊飼いが一匹の羊を捜しに行くのは、羊飼いが特別に、愛に満ちた慈悲深い人だからではないのです。 

迷い出た羊が自分のものだからです。銀貨を無くした人が、家中捜し回るのも同じことです。自分の大切なものを失いたくないから、必死に捜し回るのです。

自分の大切なものを失いたくない思い。それはファリサイ派の人たちも、律法学者たちも、私たちも、どんな者も、皆共有している思いです。

主イエスは、誰の中にでもあるそういう思いに目を向けさせて、「神も同じお気持ちである。」そういったことを示されたのです。

神も同じように、御自分の大切なものが失われるのを放っておかずに、捜しに行って見つけ出して、御自分のもとに取り戻そうとされる御方なのです。

主イエスが徴税人や罪人を招いて、迎え入れて、一緒に食事をしたのは、神のそういった御心によるのです。

ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「自分は徴税人や罪人とは違って、神にちゃんと従って生きている。」そう思っていたのです。その結果、主イエスの招きに応えなかったのです。主イエスの御言葉に、聴く耳を持たなかったのです。そういった意味で、彼らは神のもとから失われている羊だったのです。勿論、徴税人や罪人も、神の群れから迷い出た羊です。そして、神の御言葉に聴き従うことがなかなか出来ない私たちも、迷い出た羊です。

もし、「私は、いつも神の御言葉に耳を傾けることが出来ている。」そう言えるならば、それは主イエスの救いが要らない程、自分の力で、神の義を獲得出来る人か、自分の罪深さに気付いていない人かのどちらかです。でもおそらく、「私は、いつも神の御言葉に耳を傾けることが出来ている。」そう言える人は、後者でしょう。聖書が教える人間の罪は浅くはありません。もし簡単に、「自分はちゃんと神に従えている。」そう言いきれるのであれば、もはや御言葉は不要です。よく神に従える義人であれば、罪の赦しの宣言を受ける必要は無いのです。

健康な人に医者はいりません。御言葉を通して示されるのは、根強く自分のうちに残っている罪深さです。自分はよくやっているという自分の義を主張しようとする愚かさです。

私たちは意識的に、ないし無意識的に、神を蔑ろにしている罪があります。

私たちは御言葉を通して、その罪を示されてこそ、主イエスの救いに対する感謝が日々深まるのです。そうなっていくことを通して、主イエスの十字架による罪の赦しが、私たちの内に日々深まっていくのです。 

私たち罪人は、完全な御国に入るその時まで、完全な義なる者ではないのです。

主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を日々見上げずして、天国に入れるような神に認められる義は、私たちはないのです。誰一人、自分の力で神が求める義に到達することは出来ないのです。

「自分は神の義を、充分に獲得出来ている。自分はいつも神の救いを見上げることが出来ている。自分の霊性は、至って健康である。」そう思っている人たちは、ファリサイ派の人たちや、律法学者たちと同じです。そういう人たちが、「見失った羊」であり、「無くした銀貨」なのです。

「もう既に神の民である。もう既に自分は救われているから大丈夫。」そう思っている人たちにとっては、今日の話は、伝道のための言葉でしかありません。極めて他人ごとです。自分に関わる話として捉えていないのです。

でも、私も含めて、自分で神の義を勝ち取れない罪人にとっては、「見失った羊」のたとえや、「無くした銀貨」のたとえは、決して他人事ではないのです。その理由は、見失われた羊や、無くなった銀貨は、罪人である私たちのことだからです。

今日の話は、私たちが、迷える羊をほうっておいてはいけないという話ではなくて、迷い出る私たち一人一人を、神が御自分のものとして、大切に思って下さっているが故に、捜し出して、御自分のもとに取り戻そうとして下さっている話なのです。そして、その話の実現こそが、父なる神が、御自分の独り子主イエスをこの世に遣わして下さって、十字架・復活・昇天の救いの御業を成し遂げて下さったことなのです。

神の独り子主イエスは、迷子になっている私たちを捜し出して、神のもとに連れ帰るまことの羊飼いとなるために、人となってこの世に生まれて下さったのです。

その事実を知らされた私たちは、そこで神に問われることがあります。それは、「見失った羊」のたとえに出て来る徴税人や罪人のように、素直に心を開いて、主イエスの救いの話を聴こうと近寄っていくのか。それとも、ファリサイ派の人たちや律法学者たちのように、神の民であることを驕り、主イエスに聴く耳を持たず、主イエスの招きを頑なに拒むのか。そういうことを問われるのです。

私たちは、徴税人や罪人と同じように、自分が神に背を向けてしまう罪があるということ。そこから派生する道徳罪も、色々犯してしまっているということ。そのことを認めて、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの福音を受け入れることによってこそ、主イエスが招いておられる神の国の食卓に、あずかることができるようになるのです。

神の国の食卓にあずかるためには、「悔い改め」が必要なのです。「見失った羊」と、「無くした銀貨」のたとえ話のそれぞれの終わりのところには、「悔い改める一人の罪人については」という言葉や、「一人の罪人が悔い改めれば」という言葉が記されています。

実は「罪人の悔い改め」が、15章の「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」のたとえ話に共通しているテーマなのです。

でも、「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえ話は、罪人が悔い改めることを意味した部分が見当たりません。それは、迷子になった羊は、自分の力で羊飼いのもとに戻れないからです。目が悪い羊は、自分で飼い主のもとに戻ることは出来ないのです。羊や、羊の群れは、羊飼いに守られて、養われなければ、生きることが出来ない非常に弱い動物なのです。自分だけではまず生きられません。いったん迷子になったら、自分で道を見つけて戻ることは出来ないのです。

つまり、群れから迷い出た羊は、羊飼いが捜しに行って見つけない限り、死を待つしかないということです。その意味で、銀貨も同じです。無くなった銀貨は、自分では、決して持ち主の所に帰ることは出来ません。つまり、自分の力で悔い改めることは出来ないということです。

「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえ話に共通していることは、神御自身の方から、捜しに行かれ、見つけ出して下さるということです。

「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえは、能動的な「放蕩息子」のたとえとは違っていて、極めて受動的なのです。

それなのに、主イエスは、「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえ話も、「罪人の悔い改め」のたとえ話として用いられたのです。何故でしょうか。

それは、「見失った羊」と、「無くした銀貨」のたとえ話は、私たちの悔い改めを可能にする根拠が、十分に語られているからです。私たちは、自分が神のもとから迷い出ていること。道を見失っていること。死と滅びを待つしかないこと。それらのことを認めた時、いつも私たちを追って離さない、主イエスの御言葉による救いにあずかり、御言葉の探求者となり、御言葉に生きていく者となるのです。それが私たちの悔い改めです。

私たちは、自分が神に背を向けて生きているが故に、道徳的な罪を犯してしまっていることに、なかなか気づけない罪人です。道徳的な罪の裏には、いつも神に背を向けてしまっている罪があることを、なかなか分かっていないのです。

自分に正直になれば、ファリサイ派の人たちがそうだったように、私たちも普段、「あんな人たちに比べれば、自分は清く正しく生きている。」そう思っている部分が、きっとあると思います。

自分に正直になれば、自分が怒っている時、「自分の方が正しい。」そう思っている部分があると思います。

自分に正直になれば、自分が他人より優れている、自分の能力を拠り所にして、自分で自分を必死に支えて、神抜きに、生きてしまっている部分がきっとあると思います。

自分に正直になれば、「自分がこのままでは死と滅びを待つしかない。」そう思っているのではなくて、自分は結構しっかり神に従っている。自分は結構自由を謳歌している。そう思って、意気揚々と信仰生活を送っているところがあると思います。

そんな私たちが、自分自身で悔い改めて、神のもとに帰って救いにあずかるなんてことは困難です。しかし神は、そのような愚かな私たちを、御自分の大切なものと思って下っているのです。「なんとかして滅びから救いたい。」そう思っておられるのです。そういう思いを神が持って下さっているからこそ、神自ら、私たちを捜しに来て下さるのです。それが現実化したのが、神の独り子主イエスがこの世に生まれて、十字架・復活・昇天の救いの御業を、成し遂げて下さったことなのです。 

今日の話は、神の民であることを自負して、神の道から外れて生きている罪人たちを、主イエスが見つけ出して連れ帰って下さることが、暗に示されている話です。

つまり、主イエスの救いを受け入れて、信仰を持っただけでは、神の救いが完成していないことを示している話。それが今日の話なのです。

でも、元々神の民であったファリサイ派の人たちや、律法学者たちのように、神の民の道から外れていていったとしても、大丈夫なことが示されているのも、今日の話です。

それは、迷子になった羊や、無くした銀貨を、神は必ず見つけ出して下さるからです。神は、迷子になった私たちを見つけた時、とても喜んで下さる御方です。

その証拠が、ルカによる福音書15章6節です。そこを見ますと、「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」そう記されています。更に同じようなことが、15章9節にも記されています。そこには、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言う」そういったことが記されています。

つまり、信仰を持ちつつも、神の下から失われてしまった私たちを見つけ出した時に、神は、大いに喜ばれる御方であるということです。それ程、私たちを愛して下さっているのが、私たちの神なのです。

だから、私たちは罪深くても良いのです。むしろ罪深さを深く知らされて、神に背反する罪を悔い改めて、救いの切符である新生を手に入れれば良いのです。一度救いの列車に乗ったならば、その列車が、必ず執着駅まで私たちを運ぶのです。

15章の「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」のたとえ話を貫いている中心主題は、罪人の悔い改めをとても喜ぶ神です。

今週一週間、神に背反する罪を悔い改めて、「新生」の恵みに与ることを、とても喜んで下さる神であること。更には、新生の恵みに与った私たちが、たとえ信仰の道を踏み外したとしても、いつも気にかけて、探し出して下さる神であること。私たちが信仰を得たり、私たちが信仰を取り戻したりすることを、とても喜んで下さる神であるということ。そのことを今朝、心に刻み込みたいと思います。

神は、私たちが神と向き合って生きるようになった時、「無くしていた大切なものが見つかった。」そう言って、とても喜んで下さる神であることを、いつも心に覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。




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