2023年6月9日仙台青葉荘教会礼拝説教
創世記3章3節~18節
「正直に生きるには」
創世記2章9節を見ますとこう記されています。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」
ということは、エデンの園の真ん中には、善悪の知識の木と、命の木が置かれていたということです。そして神様は、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」そう創世記2章17節で言っておられます。
つまり、エデンの園の真ん中には、人間が食べたら絶対に死ぬ善悪の知識の木と、食べても死なない命の木が、神様によって植えられていたということです。
それが意味していることは、一体何でしょうか。それは、エデンの園という私たちの心の真ん中に、一体何を置いて歩んでいくかということです。私たちの心の真ん中に神様の言葉。それを物事の良い悪いを見分けるよりどころとして歩んでいくのか、それとも自分の考え。それを物事の良い悪いを見分けるよりどころとして歩んでいくのか。それをアダムとエバに選ばせたということです。
何故、アダムとエバに選ばせたのでしょうか。その理由は、神様は愛の人だからです。だから人間に、自分の言葉をよりどころとして歩んでいくことを押し付けなかったのです。自分のことを親として、みんなが歩んでいくようになることを押し付けなかったのです。
だから神様は、自分を親として神様の言葉を、物事の良い悪いを見分けるよりどころとして歩んでいく道と、自分の考えを、物事の良い悪いを見分けるよりどころとして歩んでいく道を用意されたのです。
神様の言葉を、物事の良い悪いを見分けるよりどころにして歩んでいく道とは、聖書に従う道です。じゃあ、聖書が教えていることは一体何でしょうか。それは、神を愛し、自分の隣の人を愛することです。更にいうと、聖書の言う隣の人とは、自分の嫌いな人のことです。自分の好きな人のことは普通に愛せるのです。そんなことは、神様は知っておられます。
神様は、神様と、みんなが嫌いな人と、親友になることを願っておられる。でも、それが出来ないのが人間です。人間は自分の考えを、良い悪いを見分けるよりどころとして歩んでいます。じゃあ人間が自分の考えを、良い悪いを見分けるよりどころとして歩んでいくと、一体どうなるのでしょうか。それは、自分の生きたいように生きるようになるのです。自分が生きにくいとするならば、神様や自分の嫌いな人に対して、あっちむいてほいになるのです。
アダムとエバが、エデンの園の真ん中にあった善悪の知識の木の実を食べてから、彼らは自分の生きたいように生きはじめました。神様の言葉を、物事の良い悪いを見分けるよりどころにして歩んでいく道から外れて、自分の考えを、良い悪いを見分けるよりどころにして歩んでいくようになったのです。それが意味しているのは、アダムとエバが、神を親として歩む道から外れたということです。神様を親として歩まなくなったアダムとエバは、神の言葉、つまり神を愛し、隣人を愛する道から外れてしまったのです。
実は、アダムとエバが、既にそうなっていたことを神様は知っておられたのです。だから神様は、悲しい気持ちでアダムに、「どこにいるのか」そう聞いたのです。それが記されているのが、創世記3章9節です。何故、神様は悲しい気持ちで、「どこにいるのか」、そうアダムにきいたのでしょうか。
それは、神様を親とすることを選ぶのではなくて、自分が生きやすいように生きる道をアダムが選び取ってしまったからです。そのことは神様からすれば、アダムがいなくなったようなものなのです。
アダムが神様の「どこにいるのか。」そういう悲しい声が聞こえてきた時、アダムは神様から隠れました。何故隠れたのでしょうか。それは、自分で自分を守るためです。神様は、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」そう言われていた。それにも関わらず、その木の実をとって食べたのです。やましい気持ちから、神様と裸の付き合いが出来なくなったのです。
皆さん、「裸の付き合いが出来なくなった」という意味が分かるでしょうか。「裸の付き合いが出来なくなった」という意味は、「全てをさらけだして、本音で話せなくなった」そういう意味です。
神様と裸の付き合いが出来なくなったアダムは、神様と裸の付き合いを出来なくした自分の過ち。それをエバのせいにしました。つまり、自分の神様に対するやましい気持ち、気まずい気持ち、そこから逃れて、自分が生きやすくなるために、自分の過ちをエバのせいにしたのです。その証拠に、創世記3章12節を見ますと、「あなたがわたしと共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので、食べました。」そう記されています。自分のせいにされたエバは、蛇のせいにしました。その証拠に、創世記3章13節を見ますと「蛇がだましたので。食べてしまいました。」そうエバは言っています。
皆さん、人間の罪は、神様と裸の付き合いが出来なくなることです。神様を自分の親として、神様が私たちを守ろうとする言葉から外れて、自分勝手に歩んでいくことです。
そのように私が言えば、「私は神様と裸の付き合いが出来ている。私は神様に全てをさらけだして、本音で話せている。」そのように言う人が、ひょとしたらいるかもしれません。でも本当にそうでしょうか。本当に本音で神様とお話することが出来ているでしょうか。別の言葉でいうと、本当に純粋に、神様とお話をすることが出来ているでしょうか。
本当に純粋に、神様とお話することが出来ているとすれば、「神を愛し、隣の人を愛しなさい。」その神様の言葉に生きることが出来ているはずです。そういう人であれば、神様のみならず、隣の人とも、純粋にお話が出来ているはずです。
でも、私たちはそれが出来ていないのです。私たちは大なり小なり、アダムやエバのように、神様や隣の人に対する気まずい思いから逃れるための会話を、神様や、隣の人としてしまっているのです。
そういわれてもピンとこないと思います。なので皆さんに、ちょっとチャレンジをさせて頂きます。
皆さんが学校の先生になったと思って下さい。自分のクラスの生徒が、授業中に何度もあくびをしています。皆さんはその生徒に対して、あくびをしている理由を聴く時、どう質問するでしょうか。
「ねえねえ!私の授業はつまらないかな?」もしそう訊くとすれば、それは、あくびの理由を生徒に聴いているのではなくて、「自分が授業を上手く出来ていないかもしれない。」そういった不安を、ただ生徒にぶつけているだけです。しかも、「ねえねえ!私の授業はつまらないかな?」といった訊き方は、「『自分が授業を上手く出来ていない。』そういった不安が私によぎるのは、あくびをしているあなたのせいです。」そう言っているようなものです。それはまさに、アダムやエバがやったことと同じです。
また、「昨日あまり寝ることが出来なかったの?」そう聞くとすれば、これも、生徒と純粋な会話が出来ていません。「昨日あまり寝ることが出来なかったの?」この質問は、自分の勝手な解釈、つまり自分の勝手な自分の思い込みが入っています。何故、生徒に寄り添えないのでしょうか。それは、あくびをしている生徒から齎される不安。そこから早く逃れたいからです。だから、自分の授業ではない、何か違った理由があることを願い、「昨日あまり寝ることが出来なかったの?」そう質問してしまっているのです。
「ねえねえ!私の授業がつまらない?」、「昨日あまり寝ることが出来なかったの?」これらの質問は、生徒のあくびの理由を知りたい質問ではありません。そうではなくて、自分が生徒に対して持ってしまった自分の不安。それから逃れたがための質問でしかないのです。つまり、生徒のことは2の次3の次で、自分が自分に安心感を持ちたいところから繰り出されている質問なのです。
正解の答は、「授業中、何度もあくびをしていたね。その理由を知りたいけど、何か思い当たることある?」そういう質問をすることです。
でも、善悪の知識の木の実を、アダムとエバが食べて以降、神の言葉や隣人の言葉に対して寄り添って、聴くことが出来なくなっているのです。
いつも自分の生きやすさを確保することを、優先するようになってしまったのです。それを難しい言葉でいうと、神との関係、隣の人との関係に、生きることに死んでしまったということになります。わたしたちの御先祖様であるアダムとエバが、善悪の知識の木の実を食べてしまって以降、人間は、神様との関係、隣の人との関係に生きることに死んでしまって、自分が生きやすくなることを目指して、生きるようになってしまったのです。
自分が生きやすくなることばかり求めている人間は、神との関係、隣の人との関係に生きることが出来ないのです。そのような私たちの罪の身代わりとなって、イエス様は、十字架に架かって死なれたのです。私たちの罪の身代わりの、イエス様の十字架を信じた人は、いつも神様が一緒にいてくれるようになって、人間には出来ないことがお出来になる神様が、御自分の力で、神様との関係、隣の人との関係に生きることが出来るようにいつも助けて下さるのです。神様との関係と、隣の人との関係に、今この時も、おじいちゃんや、おばあちゃんになって、死んだ後(あと)も、生きることが出来るようになる命。それが、聖書がいっている永遠の命です。
今日は子供たちとの合同礼拝です。子供たちは、私たちの罪の身代わりの、イエス様の十字架のことを、教会学校の先生たちに詳しく聴いて下さい。ちゃんと分かりやすく説明してくれます。
今日、此処にいる全ての人が、私たちの罪の身がわりの、イエス様の十字架を信じて、神様との関係と、隣の人との関係に、今この時も、おじいちゃんや、おばあちゃんになって、死んだ後(あと)も、永遠に生きていけるようになることを、心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
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