2024年3月31日 復活節第一主日礼拝(イースター)
聖 書 ヨハネによる福音書20章19~23節
説 教 復活
先週、わたしたちは受難週を過ごしました。木曜 洗足木曜日、イエス様が弟子たちの足を洗われた。最後の晩餐の時でした。その夜、ゲツセマネの園で祈られました。そして、ユダヤの官憲が来て、イエス様を捕縛したのです。弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ去りました。金曜日、早朝から裁判にかけられ十字架の刑が宣告されます。ドロローサの道を、十字架を担いながら歩かれます。9時頃に十字架につけられ、そして召されるのです。そして、十字架上の7つの言葉を発せられ、召されます。
主の十字架と受難に、旧約聖書の預言があります。特にイザヤ書53章には、こうあります。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのは痛みであったのに、わたしたちは思っていた。
神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
(4~5節)
神がわたしたち人間を救うご計画は、まさしく人間の思い、知識を超えています。いかなる哲学や教えにもない、深い摂理を神は備えていてくださっておられるのです。
さて、本日はイースターです。復活日です。主イエス様が十字架の苦しみ、受難に遭われた、その痛みについて、何度もわたしたちは考えます。今も教会の皆さんには、主の受難の苦しみとはいかなくても、試練、傷み、苦しみ、病にある兄姉がいらっしゃると思います。しかし、苦しみや悩み、絶望のような状態であっても、そのままでは終わらないのだということです。絶望で終わらない。苦しみで終わらない。必ず、希望があるということをイエス様はご自身で証明してくださったのです。喜び、感謝、爆発する勝利がある。苦しみはいやしと慰めへ、絶望は希望へ、嘆きはよろこびへ、呪いは祝福へと変えられるのです。
復活はそのことの根拠です。復活があるからこそ苦しみは慰めへ、復活があるからこそ絶望は希望へ、復活があるからこそ嘆きはよろこびへ、復活があるからこそ呪いは祝福へと変えられるのです。キリスト教は変えられる宗教です。自分の力によって、変わるのではない。キリストの力によって、変えられるのです。
ヨハネによる福音書20章19節以下をもう一度読みましょう。
復活のイエス様の第一声
19節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけていた。そこにイエス様が入って来て、真ん中に立たれたのです。
前任の教会で鈴木さんという姉妹が亡くなられました。婦人会では追悼の記念文集を出したのです。お一人、お一人が愛情をもって、鈴木姉の信仰と教会での交わりについて書かれていて感動的でした。その中で、次のように記された文章があり、心に残りました。ある夫婦の会話です。「死ってなんだろうね?」と妻が問いかけ、夫が「死ぬという事は、障子を開けて隣の部屋に入るようなものだって、賀川豊彦先生が言っているよ」と応えたということです。
うまいこと言うな!と感じました。「障子を開けて、隣の部屋に入るようなものだ」
主イエス様も復活のお姿を、鍵をかけられた家の中に、突如として入って来られたのですね。そして、何食わぬ顔で、こんなこと言うと失礼ですが、何もなかったかのように、受難の苦しみとかですね、いつものお姿、お顔、いつもの語り口調で、弟子に接せられるのです。イエス様のお言葉。19節
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
21節にも「あなたがたに平和があるように」と言われます。
ここでは、死の哀しみ、苦しみ、痛み、恐れはないのです。神から来る平和です。これがイエス様の死と復活によって、死を超えているのです。まさしく「障子を開けて、隣の部屋に入るようなもの」なのです。
大切なことは死でもって、命は終わらないということです。復活がある。よみがえりがあるのです。そこにわたしたちのいのち、人生の希望があります。
第二は、イエス様はわたしたち、すべてのクリスチャンに使命を賦与されます。与えられているのです。
21節「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
わたしたちはキリストに派遣された者であるのです。救いに預かった者が、今度は救わるべき人たちのもとに派遣されるのです。それが教会の伝道です。神は不思議な方です。全能の神であるにも拘らずに、欠けの多い、不完全な人間を用いて、神のわざを行われるというのです。それが神の愛の現われでもあるのです。
第三は、22節
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
人を派遣するに当たって手ぶらでなさらない。むやみやたらに伝道はできないということです。必要なものがあります。それなしには進まないものです。「聖霊を受けなさい」とイエス様は言われます。聖霊は力です。権力の力ではなく、愛の力です。真理を判別する力です。心を神に向けて祈る聖潔さ、敬虔さです。それなしには、人の心を打つことができません。人の心に訴え、感動させるのはテクニックではなく、心です。それは聖霊の助けと導きなしにはできないのです。
だから、わたしたちは聖霊を受けるために、祈り、待ち望まなければならないのです。
すべてのクリスチャンは聖霊を受ける必要があります。
そして、約束の聖霊はペンテコステの日に降臨されるのです。今日はイースターですから、ペンテコステまで飛び越えることはできません。ただ、復活された主イエス様のメッセージは、「聖霊を受けなさい」です。これは命令です。主イエス様の命令によって、わたしたちは聖霊を受け、力を与えられ、福音を宣べ伝えて行きましょう。教会は立つも倒れるも、ただこの一つにかかっているのです。
祈ります。
主なる神、復活の朝、主イエス様は弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」、そして「聖霊を受けなさい」と言われました。わたしたちにあなたの平和と聖霊をお注ぎください。信仰に立って、大胆に福音を宣べ伝える教会となりますように、聖霊をお注ぎください。
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