2024年2月18日 受難節第1主日礼拝
聖 書 マタイによる福音書11章20~30節
説 教 イエス様も挫折を経験された
「七転び八起き」という諺があります。人生の知恵であります。日本人の好きな諺ですね。人生の過程で、どんなに「転ぶ」すなわち、挫折しても、失敗しても、その度に立ち上がり、前に向かって進む。そういう意味と志を表すものでしょうね。人生で失敗も挫折もつきものなのです。失敗も挫折もない人間はいない。どんなに成功した人も、過去には失敗も挫折もあった。敗北の人生もあったということです。
そこで考えるのですが、では「イエス様に人生の挫折があったのだろうか」、あるいは「イエス様はそのご生涯において失敗や敗北を経験されたことがおありなのだろうか」。
皆さんは、どう考えられますか。
本日の説教題は「イエス様も挫折を経験された」です。
1.挫折
先ず、挫折についてです。
わたしたちの主イエス・キリストにおいても挫折、失敗は経験されたのでしょうか?
本日の聖書を読みますと、難しいというか厳しいと言うか、かなり激しい感情の高ぶりが見られますね。その高ぶりは尋常ではありません。攻撃的です。イエス様がこのような厳しい態度をとられるのは滅多にないことです。マタイ23章ではファリサイ派の人たちと律法学者を徹底的に非難、攻撃されますが、それと同じ感情の高ぶりをもって、イスラエルの都市とその人々を攻撃されるのです。
20節からしばらくお読みしましょう。
ソドムとは、創世記19章において神に裁かれ、滅ぼされた町です。旧約史上、神の手に裁かれた町として有名です。「ソドムとゴモラ」という映画にもなりました。罪のゆえに裁かれ、滅ぼされたのです。そのソドムよりもなお、厳しい裁き、罰が神によってもたらされると言うのです。
まさしく感情も露わにされ、激昂した口調です。今風に言えば、「切れた」。そんな調子ですね。若く、青年の直接的な感情の表れです。
では、どうして、そんなに「切れる」ほどに、激昂されたのか。20節
「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」とあります。
イエス様は、寛容な方ではなかったのか。優しく、愛と赦しのお方だと思っています。すぐに結果を期待してそれができないとぶち切れる。そんな忍耐のない方とは思いません。
もう十数年前のことです。仙台をフランチャイズでプロ野球の楽天イーグルスが誕生しましたが、11連敗して、5勝22敗という戦績となり、三木谷オーナーが堪忍袋の緒を切らして、外国人GMを解任し、コーチ陣を変えるようにと発言したとされます。負けが続くと、苛立ちます。怒りたくなります。できたばかりのチームでしたが、監督も一年で変えられました。巨人軍の原監督も今年、2年続きでBクラスになり、監督を辞任しました。
自分の思い通りにならないと怒る。権力者のうっ憤です。イエス様もそういう権力者なのでしょうか。パワハラ・・・?
イエス様は奇跡を行ないます。また、神の福音を宣べ伝えられます。それでも、イエス様を信じることもなく、悔い改めない町を叱られる。ソドムの罰の方が軽いと言われるのです。
当時の教会(教団)の現状もあるのかなと考えます。伝道しても、伝道しても、実を結ばない。結果が出てこない。そういう苛立ちですね。(牧師が変われば、教会がよくなる。伝道が盛んになり、教会の人数が増える・・・)
コラジン、ベトナイダ、カファルナウムは、聖書地図を見ますと、ガリラヤです。イエス様はガリラヤ出身ですから、まさに「預言者は生まれ故郷では受け入れられない」のです。カファルナウムは、「天に上げられた」という意味があります。イエス様は23節に「陰府にまで落とされる」と皮肉たっぷりに言われるのです。
これがイエス様の挫折です。福音を宣べ伝え、奇跡を行なっても、信仰を勝ち取れない。悔い改めない都市を厳しく咎められるのです。
2.慰め
その挫折にもかかわらず、われらの主は立ち直りが早いです。七転び八起き、転んでも、すぐに起き上がられる。しかも、根に持たない。25節以下の聖書です。
10章5節 12人を選び、派遣される。ルカでは10:17帰ってくる。喜び。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
ここでは、本来のイエス様に立ち帰られています。福音を宣べ伝えることは、労が多くて、報われることが少ないことであります。ましてや、福音を告げ知らされて、すぐに受け入れ、信じることはさらに少ないことでしょう。わたしたちが信仰を持った時のことを考えれば分かる事です。にもかかわらず、なお教会は伝道し、福音を宣べ伝える使命を与えられています。そこに福音を宣べ伝える者への慰めと励ましがあるのです。
福音を宣べ伝えることは、幼子のような者への神の特別の計画であるというのです。知恵ある者や賢い者には隠されているのです。だから、幼子のように素直になった時に、福音が神の言葉として受け入れられるのです。頑ななままで、神を受け入れ、信じることはできません。
同時にそれは、福音を伝える者に対しても同じです。知恵や賢さではなく、幼子のように神に対して素直で従順であることが求められているのです。
有名な28節は、そのところから解かれるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
それは福音宣教者だけのことではなく、生きることにおいて、重荷を持って歩んでいるすべての人に対して、イエス様は語られるのです。恐らく、重荷を背負っていない人はいないでしょう。自分や家族の病気、子育て、親子関係、夫婦関係、事故、怪我、仕事上で、人間関係において、わたしたちは重荷を負っています。それは生きている限り、消え去るものではありません。無くなってしまうものではないのです。それが人生であり、生きるということです。
しかし、イエス様が提供されるくびきによって、荷が軽くなるのです。それはイエス様が担ってくださるからです。そして、イエス様のところに慰めと平安があります。いのちを与えてくださった方のところに、慰め、平安、安息があるからです。
3.教会の使命
イエス様は、福音を宣べ伝えられます。奇跡を行なわれます。悔い改めて、福音を信じるようにと。しかし、多くの人、都市はそれを拒否します。「愚かなことだ。信じられない」と背を向けます。
「神の国」の恵みと祝福、永遠の命を提供されるという、その最上の約束にもかかわらず、拒絶された時のやるせなさは、これもまた量り知ることはできません。まさに、
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」なのです。
それにもかかわらず、教会は福音を宣べ伝えていく使命があります。疲れた人、弱っている人、福音を待ち望んでいる人がいるからです。迷える羊と申しますか。そういうところに、教会は、そしてわたしたちは主イエス・キリストの十字架の恵みの言葉を宣べ伝えて行くのです。
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