2020年5 月24日 復活節第7主日礼拝

聖 書  創世記44章18~31節 (創世記連続講解説教第51回)

説 教  父と子の絆

2020-0524

 

日本の著名な伝道者の一人に本田弘慈という方がいました。ご存知の方もおられると思います。わたしが神学生のころに活躍した宣教者です。日本のビリー・グラハムと呼ばれた大衆伝道者、牧師でした。本日の聖書の箇所から説教を準備していた時、本田弘慈牧師とその彼の著作を読んだ時のことを想い出しました。

それは、本田牧師の長男が幼くして病気で亡くなったのですが、亡くなる直前に「お母さん・・・」とお子さんがお母さんを呼び求めるのですね。その枕元に本田牧師もいたのですが、「お母さん」とお子さんが母親を呼ぶ声を聞いて、悲しくなったとのことです。

父親の本田牧師も長男をかわいがり、愛してやまなかったのです。それでも、お母さんと母を呼ぶ。なぜ、父であるわたしではなかったのか・・・

その話を想い出しました。

皆さんはいかがですか? 確かに、子どものころ、病気で寝ている時、介抱してくれるのは母親ですし、母の愛は海よりも深いと申します。わたしなどは、仕方がない。父と母を比べることではないと割り切っております。

しかし、聖書を見ますと、母の愛についての言葉は少ないですね。むしろ、父と子の関係をいう物語や聖書の記述が多いのに気づかされます。母と子の関係の深さ、大きさを語る記述は少ない。アブラハムとイサク、イサクとエサウ・ヤコブ。そこには、アブラハムの妻サラはいますが、むしろ父アブラハムと子イサクの関係の大きさを聖書は語っています。モリヤの山におけるイサク奉献(創世記22章)が考えられます。

聖書の神は父なる神ですし、わたしたちもイエス様によって、天にまします我らの父よと父なる神様に祈ります。聖霊によって「アッバ父よ」と神に呼ばわれる特権が与えられているのです。「おとうちゃん」です。お母ちゃんとは言わないですね。

そして、本日の聖書。ヤコブと12人の子どもたち。もっとも、この聖書の記事はヨセフと兄弟の物語ですが、父ヤコブと子の関係が主題でもあります。

 

1.兄弟たちの悔改め

兄弟たちを歓待した後、ヨセフはベニヤミンの袋に密かに銀の杯を入れ、ベニヤミンを捕えようとします。それは、自分の弟しかも同じ母ラケルの子であり、愛着はひとしおであるからです。ヨセフはヤコブの12人の子どもの11番目の子、12番目末っ子がベニヤミンです。しかも、ベニヤミンが生まれた時に母のラケルは亡くなるのです。ラケルのいのちと引き換えに、ベニヤミンが生まれるのです。そのベニヤミンをヨセフは愛してやまなかったのです。(創世記35章16節以下)

1~2節

「ヨセフは家づかさに命じて言った『この人々の袋に、運べるだけ多くの食糧を満たし、めいめいの銀を袋の口に入れておきなさい。またわたしの杯、銀の杯をあの年下の者の袋の口に、穀物の代金と共に入れておきなさい』。家づかさはヨセフの言葉のとおりにした。」

ヨセフの計画通りに事態が進みます。パレスティナに帰る兄弟たちの後を追い、失った銀の杯を探すように僕たちに命じました。案の定、銀の杯は弟ベニヤミンの袋から見つかりました。兄弟たちはそれを冤罪であると知っていましたが、前に犯した罪(ヨセフをエジプトに売った)の報いとして、弁解することなく受け入れます。

16節

「我々はわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうして我々は身の潔白をあらわし得ましょう。神が僕らの罪をあばかれました。我々と、杯を持っていた者とは共にわが主の奴隷となりましょう」。

ヨセフの邸宅に戻り、兄弟たちの前でヨセフは杯を盗んだベニヤミンだけを残して帰ってもよいと伝えます。

17節

「ヨセフは言った『わたしは決してそのようなことはしない。杯を持っている者だけがわたしの奴隷とならなければならない。ほかの者は安全に父のもとへ上って行きなさい』」。

 

2.悔改めと赦し

人間は心の底に人に言えない、人に知られたくない一隅を持っています。悔改めとはその罪を告白し、赦しをこうことです。兄弟たちはヨセフを奴隷としてエジプトに売ったことを父にさえ秘密にしていました。

44:27~28

「あなたの僕である父は言いました『おまえたちの知っているとおり、妻は私に二人の子を産んだ。ひとりは外へ出たが、きっと裂き殺されたのだと思う。私は今になっても彼を見ない。』」

人に言えない罪を神の前に公にすることが悔改めの第一歩であります。

44:16

「ユダは言った『我々はわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうして我々は身の潔白をあらわし得ましょう。神が僕らの罪をあばかれました。』」

悔改めた時、人は変えられるのです。兄弟であるヨセフを売ったユダが、今度は兄弟のために自分を捨てるものにされたのです。

Ⅰヨハネ3:16~17

「主は、私たちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」

 

3. 父と子の絆 ユダとヤコブ

ユダは弟を残して帰れば父ヤコブは悲しみのあまり死ぬ、それは出来ないと嘆願します。

30~31節

「私があなたの僕である父のもとに帰って行くとき、もしこの子供が一緒にいなかったら、どうなるでしょう。父の魂は子供の魂に結ばれているのです。この子供が我々と一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう。そうすれば僕らは、あなたの僕であるしらがの父を悲しんで陰府に下らせることになるでしょう。」

かつて、ヨセフを殺そうとしたほかの兄弟たちに対して、殺害しないで奴隷として売ることを言ったユダが、今度はベニヤミンのために自己を犠牲にして助命を申し出ます。ここに兄弟たちの悔改めがなされ、それを見てヨセフは自分の身を明かし、兄弟の和解がなされるのです。

33~34節

「どうか、僕をこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、この子供を連れずに、どうして私は父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」。

銀の杯の件で言いがかりをつけてベニヤミンを自分の奴隷として自分のもとに置こうとしたときに、他の兄弟たちはベニヤミンの不幸をわがことのように嘆きました。そしてその中のユダが、ベニヤミンの身代わりとして申し出たのです。ここに聖書にやがて展開する「贖罪(身代わり)の芽生え」を見ることができます。

ユダがベニヤミンの身代わりとなることを申し出たことは、ユダが彼の保証人となるべく父ヤコブと約束していたからです。単に、約束したというだけでなく、ベニヤミンを父のもとに連れ帰ることができなければどうなるか、その父の悲しみと苦しみを知っていたからです。「父をも死なすことになる」という父への愛の思いのゆえに自ら身代わりを買って出たと言えます。父と子の結びつきがここでの重要です。つまり、父の苦しみを自分の苦しみとする。それは御父の苦しみを自らの苦しみとした御子イエス様のかかわりのひな型と言えるのです。

父の愛する末息子のために、自分が保証人(身代わり)となるという申し出は、父への、そして兄弟に対する愛から出たものでした。

それゆえに、ユダはやがて父ヤコブの死を前にした祝福において、他の兄弟にまさる祝福をいただくのです。ヨセフもユダと同等の祝福を受けます。それは自分の受けた苦しみを神からのものとして受け留めることによって、イスラエルの全家を救い、安住に地であるゴシェンへと導き招いた立役者だからです。

30節「父の魂は子供の魂に結ばれているのです。この子供が我々と一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう」

父の魂を思う子は、同時に子の魂を思う親と同じ愛の関係です。神はそのような子に「アッバ父よ」と呼ぶ霊を与えられるのです。

年老いたヤコブは、末っ子のベニヤミンと魂において結ばれている。すごいことばですね。みなさんは魂において結ばれている方はおられるでしょうか。先々週は、母の日でした。母と子は、魂において結ばれているかもしれません。父と子ではどうでしょうか?

聖書は、ここで父なる神と子はひとつであるという言葉があります。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」

(ヨハネ14章5~11)

長い引用になりましたが、イエス様はヨハネによる福音書で、父がわたしの内におられ、わたしが父の内におる。そのことを何度も言われています。

父と子がひとつに結ばれていることを示しています。

その父が御子イエス様を十字架の死に渡されるほどに、わたしたち人間、罪びとをあいしてくださっておられるのです。

キリストを通して、わたしたちの魂が父なる神に結ばれるようになる。ここに神のめぐみがあるのです。