2025年1月25日 仙台青葉荘教会礼拝・中島豊師告別礼拝

Ⅰコリント10章13節

「キリストを生きる」

牧師 野々川康弘

今日は、豊先生の愛唱聖句であるコリント信徒の手紙1の10章13節を、私たちの心に刻み込みたいと思います。ですから今日は、10章13節の意味を知るために、コリント信徒への手紙1の10章1節~13節を、皆さんと共に学びます。

 パウロは、1節~2節で、「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」そう語っています。

此処でいう雲とは、かつてエジプトを脱出した、イスラエルの民を導いた雲の柱のことです。雲の柱は、神が、イスラエルの民と共にいるという目に見える印です。そして、海とは、エジプト軍に追われて、絶体絶命の危機に陥った時、神が海を真っ二つに分けて、かつてのイスラエルの民を救われた、「葦の海の奇跡」のことです。

つまりパウロは、「かつてのイスラエルの民は、雲の柱なる神の導きによって、海を通り抜けるという洗礼を受けた。その結果、エジプトの奴隷状態から解放されて、救われた。」そう1節~2節を通して言っているのです。

そんな彼らに起こったことが、3節~5節です。そこを見ますと、「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについてきた霊的な岩からでしたが、」そう記されています。

此処でパウロは、「かつてのイスラエルの民が、洗礼を受けて、神の子となったことで、カナンという神の御国を目指す荒れ野の旅をするようになって、そこで皆がマナという霊的パンで、岩から出る水という霊的な葡萄酒で、養われていた。」そう言っているのです。

でも、疑問になることがあるのです。それは4節の「自分たちに離れずについてきた霊的な岩」とは、一体どういう意味なのかということです。

実はこれは、ユダヤ人たちの言い伝えです。この言い伝えは、一体何処から生まれたのでしょうか。実は、荒れ野の旅の中で、飲み水がなくなった時、かつてのイスラエルの民は、「自分たちを渇きで殺すために、エジプトから連れ出したのか。」そう何度もモーセに詰め寄ったのです。その度に、神は、岩から水を出す奇跡を起こして、民の渇きを癒したのです。そういった所から、「水の出る岩が、荒れ野を旅していくイスラエルの民の後に、離れずについて来た。」そういった言い伝えが、生まれたのです。

パウロはその言い伝えを用いて、「カナンを目指して、荒れ野の旅をするイスラエルの民から、離れずについて来る水を出す岩は、主イエスなのだ。」そうコリント教会の人たちに教えたのです。

 そう教えたのは、コリント教会の人たちに、「かつてのイスラエルの民は、雲の柱なる神の導きによって、葦の海という洗礼を受けて、神の国なるカナンを目指し、マナというパンと、岩から出る水という葡萄酒なる聖餐。それを与えられながら、つまりは、主イエスの救いが与えられながら、荒れ野のような罪深いこの世を歩んでいた。にも拘わらず、彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒れ野のような罪深いこの世で滅んだ。」そう言いたかったからです。

 そう言いたかった証拠として、パウロは5節で、「彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされました。」そう言っています。

何故、パウロは、コリント教会の人たちに、「かつてのイスラエルの民は、主イエスの救いが与えられ、荒れ野のような罪深いこの世を歩んでいたにも拘わらず、彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒れ野のような罪深いこの世で滅んだ。」そう言ったのでしょうか。

 それを知る鍵が6節です。そこを見ますと「わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。」そう記されています。

 このことから分かることは、パウロはコリント教会が、悪をむさぼることのないようにという警告として、洗礼を受けて、神の子となったかつてのイスラエルの民が、罪深いこの世の歩みの中で脱落して、カナンという、神の国に入ることが出来なくなったことを教えたのです。

 そのことを教えたパウロは、かつてのイスラエルの民が、罪深いこの世の歩みの中で、脱落して、カナンという神の国に入ることが出来なくなった具体例を挙げています。それが記されているのが7節~10節です。

7節の「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。」というのは、出エジプト記32章のことです。金の小牛の像を造って、その小牛の像を拝んで、その前で「座って飲み食いして、立って踊り狂った」こと。それが、かつてのイスラエルの民が、カナンという神の国に入ることを出来なくさせたのです。

8節の「みだらなこと」というのは、民数記25章のことです。イスラエルの民は、単に性的な、不道徳行為をしたということではなくて、モアブの娘たちの影響を受けて、偶像を礼拝するようになったことです。

それが、かつてのイスラエルの民が、カナンという神の国に入ることを出来なくさせたのです。

 9節の「キリストを試みた」というのは、民数記21章で、神の与えて下さった天からのマナに、イスラエルの民が、ケチをつけたことです。神にケチをつけるという行為は、神を試みるという行為です。それが、かつてのイスラエルの民が、カナンという神の国に入ることを出来なくさせたのです。

そして此処では、旧約のことであるにも関わらず、「キリストを試みた」そうパウロが言っているのは、昔のことではなくて、コリント教会の事としても見ているからです。

 10節の「不平」というのは、神に不平を言うことです。それが、かつてのイスラエルの民が、カナンという神の国に入ることを出来なくさせたのです。

 パウロが、かつてのイスラエルの民が、カナンという神の国に入ることを出来なくさせた7節~10節の具体例を、コリント教会に突きつけたのは、こう言いたかったからです。「あなたがたは、神の導きによって洗礼を受けて、神の子となった。そんなあなたがたは、完全な神の御国を目指して、罪深い荒れ野のようなこの世を、主イエスの聖餐をうけながら旅をしている。でも、7節~10節のようなことをしたならば、かつてのイスラエルの民がそうであったように、あなたがたも、罪深いこの世の歩みの中で脱落して、神の国に入ることが出来なくなる。」

このことを、コリント教会に言いたかったという証拠があります。それが11節です。そこを見ますとパウロは、「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」そう言っているのです。そして、そういった11節の言葉に続いて、パウロは12節で、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」そう言っているのです。

つまりパウロは、コリント教会に対して、「あなたがたは洗礼を受けて、神の子として、今は立っていても、次の瞬間には倒れるかもしれない。」そう警告しているのです。

これは人事ではありません。今の私たちにも言えることなのです。パウロがコリント教会の人たちに言っていることは、現代の私たちにも言っていることなのです。だからこそ私たちは、いつも油断することなく、神の子として歩んでいかないといけないのです。

既に洗礼を受けていて、いつも聖餐にあずかっていたとしても、「もう倒れてしまうことはない。必ず天の御国に入ることが出来る」そういう安心を、抱くことは出来ないのです。

 でも、そう言いますと、次のような反論をされるのです。「パウロが今までコリント教会に教えてきた、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業は台無しになる。神を無視して生きる罪の赦しである十字架、神の子、主イエスの復活による、神の子となった私たちの、死後の復活の保証、主イエスの昇天によってなされた、神の子への聖霊の内住。これらの、私たちを追って離さない神の愛が台無しになるの。主イエスの救いという福音を、台無しにして良いのか。福音とは、喜びの知らせではないのか。主イエスの救いは、私たちに喜びをもたらして、平安を与えるものではないのか。緊張と不安しか与えない教えを、福音とは言えない。」

でも、そのように言ってくる人たちがいるならば、私はこのように言いたいのです。「もし私たちが、今日のパウロの教えに対して、緊張と不安しか得られないなら。もっといえば、パウロが今まで、コリント教会に教えてきた主イエスの救いが、今日のパウロの教えによって、疑いの目を向けるなら、私たちの今日の箇所の読み方が、間違っている。間違う根っこにあるのは、神をちゃんと神として認めることをせず、自分の理想像としての神を、神に押し付けているところにある。自分の理想像としての神を、神に押し付けることは、神を第一としているのではなくて、自分の理想像としての神を、第一としている。神を第一とするのではなく、自分の理想像を第一とするのは偶像礼拝である。偶像礼拝とは人間が、自分勝手な神像を造り出すことである。」

皆さん、実はコリント教会の人たちは、神をちゃんと神と認めて、歩むことが出来ていなかったのです。その結果、コリント教会内では、党派争いが起こっていたのです。だから、コリント教会の人たちは、パウロに助言を求めた。その助言の求めに応じて、パウロが書き記したのが、コリントの信徒への手紙1なのです。

そして、今日の箇所は、コリント教会の人たちが、自分勝手な神像を造り出して、それを拝んでいるにも関わらず、「私たちは洗礼を受けて神の子となった。聖餐を受けて日々歩んでいる。もう私たちは、絶対天国に行くことが出来る。」そう思い上がっている彼らに、パウロが釘をさすために書き記したことです。

パウロは、主イエスの救いである十字架・復活・昇天の救いが、コリント教会の柱になるために、あえて、ちくりとやったのです。

パウロが今日の箇所で、最も言いたいことは、豊先生の愛唱聖句の13節です。

そこを見ますと、こう記されています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

パウロが13節を通して言いたいことはこういうことです。「自分が楽になるために、自分を正当化するために、自分勝手な神像を造り出してそれを拝むな。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずだ。主イエスの十字架・復活・昇天という、私たちを追って離さない愛で、私たちを捕えようとしてくださる神は、真実な神である。試練に遭った時に、自分が楽になること、自分を正当化することばかりを考えて、自分にとって都合の良い神像を願うな。自分にとって都合の良い神像を神に求めるな。それは神を第一としていない。自分にとって都合の良い神像という偶像を拝んでいる。偶像を拝むな。十字架・復活・昇天という、私たちを追って離さない愛で、私たちを捕えようとしてくださる神は、あなたたちを耐えられないような試練に遭わせるような御方ではない。たとえ試練を、あなたたちに与えているとしても、それに耐えられるように、ちゃんと逃れる道をも、備えていてくださっている御方なのだ。そのことを信じなさい。」

このことを、コリント教会の人たちに、更には今日の箇所を読む読者たちに言いたいがために、パウロは今日の箇所を書き記したのです。

そして、今日の箇所は、豊先生が信仰生活を営む中で、最も肝に命じていたことです。だからこそ、愛唱聖句が13節だったのだと思います。そんな豊先生は、愛唱聖句に、詩編46編1節~6節と、詩編23編1節~6節を挙げています。

今日、司式者が読んでくれた詩編46編には、神に助けを求める言葉が見当たりません。詩編46編は、苦しみの中で、神に助けを願っている詩では無いのです。

そうではなくて、詩編46編は、どんな苦難が自分に襲ってこようとも、私は恐れないという信仰告白です。ということは、詩編46編が主張していることも、コリント信徒への手紙1の10章13節と同じです。

詩編46編は、アッシリアの軍隊が、北王国イスラエルに攻め込んできた、アッシリア捕囚の時のことだという説と、ダビデ時代に、自然災害が起きた時のことだという説があります。

いずれにしても、3節で、「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る。」、「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える。」そのように、詩人が表現する程の混沌が、イスラエルに押し寄せたのです。そんな中で詩人は、「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」そういった信仰告白を、5節~6節でしているのです。つまり、「神の恵みは川のように流れていて、混沌の中にあるイスラエルに喜びを与える。イスラエルは混沌なんかで揺らぐことはない。神は寝ている間に救って下さる。」そのように、詩人は信仰告白をしているのです。

更に、豊先生の愛唱聖句である詩編23編1節~6節の中心聖句は、4節です。そこを見ますと、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」そう記されています。

ということは、豊先生が大事に思っていたことは、「試練に遭わせないで下さい。試練から逃れさせて下さい。自分を楽にして下さい。」そういうことではない。そうではなくて、「たとえ試練の中にあるとしても、あなたがいつも共におられて、必ずあなたの最善を成して下さることを私は知っています。あなたが助け出して下さることを知っています。だから、私が試練の中にあっても、あなたを賛美します。」そういった信仰告白だったということになります。

今日はそのことを、皆さんに伝えるように、神と豊先生に示されました。

今日は豊先生と共にする、この地上での最後の礼拝です。この最後の礼拝で、豊先生は、教職の位置に立って、礼拝しています。

だから、豊先生の頭は、皆さんの方ではなくて、講壇の方に向いているのです。教職の位置に立ち、豊先生が最後にとりつぐ御言葉として、私に託されたのが、今日の聖書箇所です。

私は、神と豊先生から御言葉を頂いて、通り良き管として、御言葉を取り次いでいるだけなのです。

ということは、今日のメッセージは、豊先生からの、この世で最後の、仙台青葉荘教会に対する説教なのです。

なので、豊先生が大切にしていたこと。つまり、どんな苦難がやってこようとも、私は恐れないという信仰告白。それを大切に、皆さんと共に歩んでいければと思います。

今日は、豊先生の信仰の財産を、神の家族として、私たちは今、相続したのです。そのことを、心に刻み込んで、皆さんと共に、豊かに歩んでいけたらと思います。

 最後に一言お祈りさせて頂きます。