使徒言行録6章1節-7節
「問題の先に備えあり」
牧師 野々川康弘
今日は、前回と同じ箇所を、皆さんと共に学びます。
前回は、最初の教会が、教会のもめごとに対し、どのように具体的に対処していったのか。そのことを、皆さんと共に学びました。
でも今日は、違うことを、皆さんと共に学びたいと思います。
今日の箇所を見ますと、教会の中で起こったもめ事が、赤裸々に記されています。
普通の宗教なら、人集めのために都合の悪いことは書き記しません。でも聖書は、教会にとって都合の悪いこと。そのことを隠すことを嫌うのです。
何故なのでしょうか。それは、聖書が教えている救いは罪の贖いだからです。罪が分からない人に、罪の赦しは分からないからです。
そこで考えなければならないことがあります。
それは、教会に都合が悪いことは、人をつまずかせるといって隠したり、教会に人を集めるために、都合の良いことばかり、語っていたりしないかということです。
もしそうであれば、聖書とは真逆のことをしているのです。
キリスト教会は、罪を認めることを求めています。
何故キリスト教会は、罪を認めることを求めているのでしょうか。
それは、罪を認めて、主イエスの罪の赦しという救いを得て欲しい。そう願っているからです。
使徒言行録は、罪ある教会の現実と、かけ離れた理想化された教会の姿を書き記していません。教会の中に、罪がある現実を書き記しています。
罪人の集まりである教会は、何の問題も、もめ事も起らない所ではありません。教会に、何の問題もないふりをして、人を救いに導くなんてことは、主イエスの罪の赦しを割り引いていく行為です。
罪深いこの世は、都合の悪いことは隠します。でも、聖書は違うのです。主イエス十字架という愛に出会わせるために、罪をあばくのです。罪という現実と、私たちを向き合わせるのです。この世の教会は、たとえ主イエスの救いを信じていたとしても、所詮、罪人の集まりです。対立や争いが、無いはずが無いのです。
この世の教会の歴史は、もめ事や対立の歴史です。でもその事実が、私たちの慰めであり、励ましなのです。
最初の教会でも、もめ事が起こったのです。でも、もめ事が起こったことが、色々な意味で、今日の、私たちの教会生活の豊かな財源になっているのです。
にしても、最初の教会は、何でもめ事が起こったのでしょうか。どういう人たちの間で、何が問題で、もめ事が起こったのでしょうか。最初の教会はそれを、どう対処したのでしょうか。その結果、どうなったのでしょうか。
そのことを知って、仙台青葉荘教会の歩みの糧とすることが、とても大切なことなのです。
前回は、最初の教会で起こったもめ事は、具体的には何だったのか。それに対して、どう対処したのか。その結果どうなったのか。そのことを、皆さんと共に学びました。
今日は主に、何が原因でもめ事が起こったのか。どういう人たちの間で、もめ事が起こったのか。そのことを見つめていきたいと思います。
そのことを知る鍵が1節です。そこを見ますと「「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」そう記されています。
もめ事が起った原因は、「弟子の数が増えてきた」からです。最初の教会は、最初は一つの部屋に、皆が集まれるぐらいの群れでしかありませんでした。
でも、彼らが聖霊を受けて、伝道をしていった結果、何千人という人たちが、最初の教会に加わったのです。
数十人の教会と、何千人の教会では、教会の在り方が、違って来ざるを得ません。何千人もの人が、一つの信仰共同体として、一つの信仰に立って、信仰指導や、相互の交わりや、助け合いをしていくためには、数十人の教会だった時と、違う体制が、必要になってくるのです。
ということは、最初の教会で起こったもめ事は、教会の成長に伴って、起こるべくして起こったということになります。
前回は、説教題を、「教会は有機体である」として、語りました。教会は生きています。生きているということは、絶えず変化しているということです。
でも、変化には、苦痛や不和が、伴います。
つまり教会は、成長痛である、苦痛や不和を味わってこそ、成長するのです。
最初の教会で、もめ事になった原因の一つが、「ギリシャ語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」の関係の不和です。
「ギリシャ語を話すユダヤ人」とは、イスラエルの地を離れて、世界のあちこちに移り住んでいたユダヤ人たちのことです。その人たちの中には、2世も3世もいました。
そんな外国出身のユダヤ人たちが、エルサレムに帰って住んでいたのです。
一方で、「ヘブライ語を話すユダヤ人」とは、イスラエルにずっと住み続けていた「生粋のユダヤ人」たちのことです。彼らは、「生粋のユダヤ人」であることを誇り、外国帰りのギリシャ語を話すユダヤ人たちを、「民族の伝統を失った人たち」そう軽蔑していたのです。
当時のユダヤ人たちの中にあった対立構造が、最初の教会に持ち込まれていたのです。
私たちはどうでしょうか。私たちは自分の価値観を、教会の中に持ち込んで、教会の中で対立を起こしてはいないでしょうか。
私たちは、礼拝を終えて一歩外に出れば、社会の一員として生きています。自分が生きている社会の価値観。それが自分を形成しています。
でも、自分が生きている社会の価値観と、教会の価値観が全く同じで良いのでしょうか。
そうではありません。例えば、倫理を縄張りとしている人の価値観と、心理を縄張りにしている人の価値観は真逆です。また、ビジネスマンの価値観と、サラリーマンの価値観もかなり違っています。細かく言えば、まだまだあります。
私が、何が言いたいかといえば、真逆の価値観を持っている人たちが、同じ教会に集っているということです。特にインターナショナルな教会では、常識が全く違う人たちが共に集っています。
私たちが心に留めないといけないことは、初代教会の中には、奴隷と、奴隷所有者という関係も、教会の中にあったということです。
お互いがどういう立場の人であろうと、お互いがどう対立していようと、教会は、主イエスを無視する罪からの救いという一つの絆によって、結ばれているのです。
今日の箇所が、私たちに示していることは、罪深い世に染まっている教会は、神を、(主イエスの十字架を)無視する罪からの救いを信じて、主イエスと向き合って、主イエスの十字架の言葉を聴く人になったと言いつつも、主イエスの十字架の言葉に、生かされきれていない現実が、教会の中にあるという事実です。
主イエスと、向き合って生きる人になったと言いつつも、主イエスの十字架を、無視してしまっている現実が教会にはあるのです。聖書は、それを罪と言うのです。
私たちがその罪を隠して生きるなら、益々自分から、十字架を遠ざけていくのです。罪を隠して生きるということは、「主イエスの十字架は、自分にはいらない。」そう公の場で、表明していることになるからです。
自分のプライドの故に、自分の罪を隠して生きることは、自分の力で生きていく現れです。自分で自分を守ろうとして、自分の罪を隠蔽するのは、十字架を無視して生きている証拠なのです。
キリスト教会は、罪が赦されていることを証していく場所です。教会は、十字架を現わすところなのです。十字架を現わすためには、自分の罪や弱さを、赤裸々に分かち合わなければなりません。
「自分の罪はこういう罪であるけれども、その罪の赦しが与えられた」とか、「今このことで苦しんでいるけれども、この苦しみも神のギフトであることが気付けるように祈って欲しい。」とか、「今自分は、自分のことで頭が一杯で、神の救いを見あげることすらままならない。そんな自分が、神を神とすることが出来るように祈って欲しい」とか、「こういう神の恵みを感じている。そのことを一緒に感謝して欲しい。」そういったことを、教会の中で、私たちは大胆に分ち合えているでしょうか。
そういったことを考える時、私が思わされることは、私自身、まだまだプライドが高く、主イエスの十字架の、罪から救いに守られるのではなくて、自分の力で、自分を守ろうとしている罪人であるということです。全然、主イエスの十字架の救いを中心とした交わりが、教会の牧師として召されているにも関わらず出来ていないということです。
でも、そんな罪深い私だからこそ、神は、私を牧師として召して、毎週日曜日に、聴くことの出来る聖餐である説教を、語るのと同時に聴かせて、五感で味わうことの出来る聖餐を、月に一度与えて、古い命から新しい命に、生きることが出来るようにして下さっているのです。
罪深い私だからこそ、そういう神の備えがなされたのです。そのことに感謝しかありません。
それはそうと、6章1節を見ますと、「そのころ、弟子の数が増えてきて」そう記されています。今日の箇所で出て来る「弟子」という言葉は、使徒たちのことを指していません。
今日の箇所で出て来る「弟子」という言葉は、教会に加わった、全ての信仰者たちのことを指しています。その意味での「弟子」という言葉は、6章にきて、初めて出て来ているのです。そして、6章から、使徒言行録は、この先何度も、信仰者たちのことを、「弟子」という言い方をしているのです。
実は、そこに一つの大事なメッセージがあります。それは、「神を(主イエスを)無視して生きる、原罪という罪からの救いを信じて生きる信仰を持つことが、主イエスの『弟子』ある。」ということです。教会は、主イエスの「弟子」の群れです。教会に属している人は、全て主イエスの「弟子」なのです。私たちを結び合わせている絆は、主イエスの「弟子」という絆なのです。
教会は、主イエスの「弟子たち」だからこそ、一般社会の中で、たとえ対立関係にあっても、お互いに気が合わなくても、考え方や、生活習慣が違っても、付き合いづらい人でも、主イエスの十字架故に、一つとなって歩んでいくことが出きるのです。
互いのありとあらゆる違いから、起こってくるであろうもめごとを、乗り越えてゆくことが出来るのです。
でも、所詮私たちは主イエスの十字架を無視する罪人なのです。だから、もめ事が起こってこないわけがないのです。
その証拠が、今日の箇所です。
でも安心して欲しいのです。何故なら、今日の箇所を見ますと、主イエスの「弟子」の集まりである教会であれば、必ずもめごとを、乗り越えていける道が、切り開かれることも、書き記されているからです。
逆に言えば、もめごとを乗り越えていくことが出来ない人たちや、教会から離れていく人たちは、純金の十字架信仰ではなくて、金メッキの十字架信仰であるということです。金メッキはいずれ剥がれるのです。であれば、早く剥がれた方が良い。私はそう思っています。
金メッキであるにも関わらず、純金だと思い込んでいては、真のキリスト者の自由は得られないのです。真のキリスト者の自由を得るどころか、クリスチャンならぬ、苦しみちゃんになってしまうのです。苦しみちゃんになっているとするならば、教会生活が楽しいどころか、教会生活が苦しくなっていくのです。
ちゃんと、神を無視して生きている原罪を知らされて、別の言葉で言えば、ちゃんと主イエスの十字架を無視して生きている自分の罪を知らされて、その罪のために、主イエスが十字架で死なれたことを知ったキリスト者ならば、自然に神との交わりや、人との交わりを壊す道徳罪が減少していって、三位一体の神・自分・隣人の三位一体なる交わりが、回復されていくようになるのです。それこそが、イマゴ・デイと言われる三位一体の神の像の回復です。そのイマゴ・デイの回復が、ビジオ・デイと言う、神の栄光を見ることになって、それがミシオ・デイといわれる宣教となるのです。
イマゴ・デイがビジオ・デイとなり、ビジオ・デイがミシオ・デイとなるためには、主イエスの十字架信仰に立つことがとても大切なのです。
主イエスの十字架信仰に教会が立つためには、聴くことの出来る聖餐である説教を、教会が真剣に聴いて、月に一度の五感で味わうことが出来る聖餐を、喜んで受けることが出来るようになるために、変えるべきことは変えて、捨てるべきものは捨てられていかなければならないのです。
何故なら、聴くことが出来る聖餐である説教と、五感で味わうことが出来る聖餐こそが、罪深い私たちのために、神が備えて下さっている、信仰生活のセーフティーネットだからです。
最初の教会が、教会の中で起こったもめ事に、ちゃんと対処した理由は、神が教会に備えて下さっている、信仰生活のセーフティーネットが、ちゃんと機能するようになるためだったのです。
最初の教会が、教会の中で起こったもめ事に、ちゃんと対処したことで、以前にも増して、信仰生活のセーフティーネットが、ちゃんと機能するようになっていったのです。
その結果、7節のようなことが起こったのです。そこを見ますと、こう記されています。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」
そうなのです。キリスト者の数が、非常に増えていったのです。
7節を良く見ますと、「祭司も大勢この信仰に入った。」そう記されています。つまり、ユダヤ教の指導者たちも、大勢キリスト者になったのです。
神は、教会のもめごとをも用いて、教会の信仰生活のセーフティーネットである、聴くことの出来る聖餐、食すことの出来る聖餐が、ちゃんと以前にも増して、機能するように導かれたのです。神は私たちに対して、教会のもめごとをも用いて、そういう万全な備えをもして下さる御方であることを、今朝、心に深く刻み込みたいと思います。
アウグスティヌスはこう言っています。「悪魔が教会に出来ることは0である。」
私たちは善悪二元論に生きていません。私たちは圧倒的勝利を収める、神の一元論の中に置かれているのです。
私たちがどんな状況の中にあるとしても、そのことに安きを覚えて、今週一週間、皆さんと共に、歩んでいければと心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。