聖 書 出エジプト記11章1~10節
説 教 もっとも大切なこと
本日は、出エジプト11章1~10節から「もっとも大切なこと」と題して説教いたします。
一つの国家、あるいは民族でもっとも大切なこととは何か。そのことを考えます。民族形成をあるいは国家を形成のために築いてきた決定的な歴史的出来事がある。これが出エジプト記の意味であります。
つまり、創世記において、神はアブラハムを選び、この一人の人間から星の数ほどに増える約束をされました。アブラハムからイサク、ヤコブ、そしてヨセフという4代においてエジプトに下り、そこから400年の歳月が流れたのです。その時はまだ、イスラエル民族はありませんでした。60万人に増えたけれども、民族意識も国家意識もなかったのです。強制労働という奴隷状態の苦しみから救われるように、神に助けを求めたのです。
神はその叫びを聞かれ、アブラハム、ヤコブ、イサクの神としてエジプトにいるイスラエルを助け、エジプトから逃れる、脱出するために、神はその権能を行使されるのです。
出エジプトによって、イスラエルは民族そして国家形成へと導かれるのです。神が直接ユダヤ人の民族に介入された。そこからイスラエル民族、国家としての歴史を造られたのです。
毎度、説教で申し上げていることですが、なぜ、日本人であるわたしたちがイスラエルの歴史を知る必要があるのか。それは、神はイスラエルを選び、イスラエルを通して世界の人々に神がおられること、その神が万物の創造主、世界の導き手として啓示された。そこに神は型、モデルを提示されているということです。
これを啓示と申しますが、なかなか受け入れがたいものがあろうかと思います。そこに信仰の契機が必要なのです。
日本人は、日本の神話、日本の創造神話を持っています。各地に神社があります。どう違うのか。日本の神話は、聖書に記されている神の創造の模倣ということができます。
真実は、神の霊によって見分け、判断できるからです。その真実とは、神の子イエス・キリストにおける十字架の贖いによる世界の救済に行く着くからです。
さて、出エジプト記11章ですが、7章から10章まで、神はモーセとアロンを通して9つの災いをエジプトにもたらせられました。エジプトの全土にこれでもか、これでもかという災いによって、大きな被害を与えられたのです。これらの災いを受けたら、エジプトはもうたくさんです。やめてください。あなたの言われるように、イスラエルの民はエジプトを去ってくださいということでしょう。しかし、エジプトの王ファラオは、災いを経験しても、こころを頑なにして、イスラエルを去らせなかったのです。そこに神の計画があったのですね。それは最後の災い、10番目の災いを示し、そのことによって、神が神であること。世界の創造主、支配し、統治される方であることを示されるのです。
そこには、大国エジプト VS イスラエルの神なる主という対立図の中で、神の優位と力を示し、あの超大国であるエジプトを屈服させられるのです。 背後に神がおられる 神なしには、イスラエルはありません。
自分たち民族のすべては、神にかかっている。その信仰が確立した出来事。
エジプトからの解放、それは救い。神のちからを賛美すること。これがイスラエルの歴史であり、その歴史はイスラエルが持つ使命としての意味を持つのです。
1.過越しの予告
11章全体は過越しの予告がモーセを通して示されます。12章から、予告が現実になるのです。それはエジプトにとって滅びの予告であります。神がエジプトとイスラエルの間に実際に介入されるのです。それは生と死、いのちと滅びの提示です。
1節と4節をお読みしましょう。
主はモーセに言われた。「わたしは、なおもう一つの災いをファラオとエジプトにくだす。その後、王はあなたたちをここから去らせる。いや、そのときには、 あなたたちを一人残らずここから追い出す。
4節
モーセは言った。「主はこう言われた。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。』
神は「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む」と言われます。過越しですが、そのことによってエジプトの国中の初子および家畜の初子までも死ぬと言われます。恐怖です。神のさばきの厳しさ、おそれがあります。
しかし、神はいかにしてそれをなされるか。そのことは語っておられません。この「いかに」または「どのようにして」は次の12章に記されます。12章5節から7節にあります。小羊、しかも傷のない一歳の雄ですね。その羊を屠り、その血をとって家の入口の二本の柱と鴨居に塗るということです。
12章11節、12節ですね。
それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは 主である。
過越しは、エジプトの滅びの予告であり、それは同時にイスラエルの救いと解放であります。この救いと滅び、いのちと死というテーマは、実は創世記にもあるのです。それを見てみましょう。
2.創世記に見る滅びの予告
①ノアの大洪水、ノアの箱舟
創世記6章ですね。神は人を造られたことを後悔されるのです。6節。お読みします。
地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」
過越しは初子ですが、創世記は、人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も、ぬぐい去られるのですね。そして、ノアに箱舟を造るように命じられます。
ノアは神の言葉によって、箱舟を造ります。何年かかったでしょうか。山の上に、舟を造ったのです。意味があるのか。大洪水が起こりました。ノアとその家族だけが生き延びたのです。いのちと滅びです。
②ソドムの滅びの予告
創世記18章と19章です。神は三人の使いをもってソドムを滅ぼそうとされます。その前に、アブラハムに対して、ソドムを滅ぼす予告をされるのです。その時、アブラハムはソドムのためにとりなしをします。
「ソドムに正しい人が50人いれば、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか」
こうして、50人から45人、40人、30人、20人、10人とアブラハムは罪と堕落の町に10人の正しい人がいれば滅ぼさないと神に執り成しをするのです。
しかし、結果的にはソドムは滅ぼされました。10人もいなかったのです。
3.エジプトの裁きと滅び
出エジプト11章では、神はイスラエルの民の救いと解放のために、エジプトに神の裁きのわざを行うと予告されます。そして、実際に裁きのわざがおこなわれるのです。
ノアの大洪水、ソドムの滅びの予告が行われたようにです。
シミュレーションという言葉があります。英語はsimulation です。「ふりをする、まねをすること」という意味ですが、「模擬実験」などと訳されることもあります。いまは、このままで用いられることが多いですね。何かを予測を立てて、実際にどのようなことが起きるか、科学的、実証的な実験データに基づいた数値やグラフィック画像でわかりやすく提示するものです。
2011年3月11日東日本大震災が起こり、未曽有の被害が東日本一帯にありました。
その悲劇は忘れることはできません。しかし、最近はそれにも勝る南海トラフという巨大
地震が近い将来起きると予測されています。もし、この巨大地震があれば、西日本の太平洋
側一帯が東日本大震災と同規模かそれ以上の被害が生じるおそれがあるというのです。
しかしまだ現実に起こっていません。起きるかもしれないということです。
出エジプト11章の予告は、この悲劇のシミュレーションと理解できるでしょう。しかし、現実に起きたことはそれ以上の恐るべきこと。まさに、驚嘆動地の恐るべき神の審き
でした。それは次回、12章となります。神の権能の現れです。
この過越しは歴史的に、聖書において、イスラエル、エジプト、そして世界にどういう意味があるのか。もっとも大切なことなのです。この出エジプトの過越しが旧約聖書の中心となっており、同時に新約聖書、わたしたちが信じるキリスト教の中心ともなるからです。それを信仰の目で見ていきたいと思います。