2022年1月2日 降誕節第2主日礼拝

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聖 書  ルカによる福音書3章21、22節 

説 教  洗礼の意味

わたしたち全世界の教会では、昨年末アドヴェントの季節を過ごしました。12月19日のクリスマス礼拝、24日のイヴ礼拝をもったことです。教会暦では降誕節に移りました。

 本日の聖書、ルカによる福音書ではイエス様が洗礼を受けられることが記されています。

イエス様が洗礼を受けられた日は、公現日あるいは顕現日とされています。今日は、このイエス様の洗礼をテーマにいたします。

  • バプテスマのヨハネとは何者か?

政治にはライバル関係がありますね。政治的な権力、政策をめぐって対立、派閥争いなどがあります。これはどこの世界にもあるものです。経済界、会社内の人事におけるライバル関係、競争です。教育、医学の世界もそうですね。人間の根源的な勢力争い、力関係ですね。創世記のテーマでもありました。

宗教面においてはどうでしょうか? 宗派間の争い、カトリック、プロテスタント。プロテスタントでも、ルター派、改革派、メソジスト、ホーリネスなどの教派間のライバル関係があります。対立とか争いとまでは言えませんが、ライバル意識を持つこともあるでしょう。宗教改革の時代は、同じキリスト教でも血生臭い争いがありました。戦争さえあったくらいです。

 イエス様の活躍でファリサイ派、律法学者たちの既得権が脅かされた。憎しみ、殺意。

十字架へ。

ライバル関係ということでは、イエス様とヨハネの関係も微妙なところがあります。

イエス様はバプテスマのヨハネから受洗されました。師と弟子の関係であるという神学者、註解者がいます。聖書には明確にしるされていませんが、神学的には、「ヨハネ教団」というグループがありました。洗礼者ヨハネのグループ。荒れ野で生活し、悔い改めのバプテスマをしていたユダヤ教の改革者ではないかと言われるのです。

3章1節から3節ですね。2節後半からお読みします。

神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

民衆は、このヨハネこそが聖書に預言されているメシアではないかと期待しますが、ヨハネはそれを否定し、16節

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」

と後に来ることになるイエス様を預言するのです。

2.イエス様とヨハネの関係

 ルカ1章では二人の母エリサベトとマリアは親類と記されていますので、イエス様とヨハネは遠い親類となります。ヨハネはイエス様より6か月年上の兄貴のような人であります。そのヨハネは聖霊に満たされて悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えていました。

3章21節には「民衆が皆洗礼を受け」とあります。他の訳では、「すべての民が洗礼を受けている時、イエスも洗礼を受け」とあります。

ここでは二つのことが記されています。ヨハネによって多くの民、民衆が洗礼を受けたということ。そして、イエス様もバプテスマを受けられたということです。

4福音書で、イエス様の洗礼についての書き方の相違をみることができます。

ルカによる福音書では、イエス様が洗礼を受けられたことは記されていますが、誰からかは明確に記されていません。マタイ、マルコでは「ヨハネから洗礼を受けられた」とあります。マタイ3章13節、マルコ1章9節です。

ヨハネによる福音書では、イエス様ご自身が洗礼を受けられたことも記されていません。神が人となられた。受肉の神です。罪を犯したことがないイエス様が洗礼を受けること自体、考えられないことなのです。

ルカは曖昧であります。つまり、明確にヨハネから受けられたと記していないのです。ただ、文脈からイエス様はヨハネから受けられたと受けとめることができます。

それでもイエス様はヨハネと同じように弟子を作り洗礼を行っておられます。そして、弟子を多く持たれたとあります。

ヨハネによる福音書3章22~30節、

その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。

26節以下では、ヨハネよりもイエス様の方が洗礼を受ける数が多くなり、ヨハネは言います。30節「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」

4章1~3節では「イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられる」

とあります。

洗礼を授けることは弟子をつくることであったのです。

そのため、イエス様がヨハネから洗礼を受けることはヨハネの弟子になることでした。

それゆえ、ルカやヨハネによる福音書はヨハネから洗礼を受けたことを明確に記さなかったといえるかもしれません。ヨハネから洗礼を受けるとヨハネの弟子になることですから。

イエス様とヨハネとはライバル関係にあったのでしょうか。どちらが優位なのか。微妙に聖書はその違いを言い表しているのです。

ヨハネによる福音書では、ヨハネの弟子をイエス様は弟子としました。ヨハネ1章35節以降。

聖書はまた、弟子同士のライバル関係を言い表しているところもあります。十字架を前にして、誰が一番偉いかと議論するのです。(マルコ9章33~37節、ルカ9章46~48節)

3.聖霊と火によるバプテスマ

さてもう一度、本日の聖書、ルカによる福音書3章21節から22節をお読みしましょう。神の子としての洗礼を受けるイエス・キリストです。

バプテスマとは罪の悔い改めです。そのしるしとしてのバプテスマです。自己に死ぬのです。ローマ書6章ですね。罪を犯されなかったイエス様が洗礼を受けた意味は何でしょうか。

第一に従順さです。父なる神のみこころとして神の子が人となられた。十字架の死にいたるまで従順であられた。その従順さです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

これはフィリピの信徒への手紙2章6節ですね。

第二は、謙遜さの現われです。

今の世は、世襲が多いですね。富裕層という人たち。その子も孫も富裕です。生活は派手で、権力、財産・経済力も一般のわたしたちと格差があります。弱者、貧窮者とは格段の違いがあります。イエス様は神の子であるにもかかわらず、肉によれば大工の子として、貧しい生活をされていました。神の身分であられたが、それを捨てられたのです。

第三は、模範です。罪のない方が罪の悔い改めの洗礼を受けられる。無教会の人たちは、洗礼を拒否します。聖餐も拒否します。形式的な儀式で信仰的には必要がない。無教会の人たちの考えです。それでいて、聖書を研究しています。多くはインテリです。大学教授、学長、ドクター、知的なリーダーです。ギリシャ語やヘブライ語を駆使して聖書の研究ができる人たちです。イエス様ご自身が洗礼を受けられたことには無頓着です。イエス様の模範、謙遜さ、従順さに欠けるものがあります。

最後になりますが、22節

天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 イエス様の従順さ、謙遜さ、模範。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

父なる神ご自身の呼びかけであり、承認なのです。

 イエス様はヨハネが預言したように、悔い改めのバプテスマだけでなく、聖霊と火でバプテスマを与える方であります。そこにキリスト教の力があります。

わたしたちプロテスタント教会では、洗礼は洗礼を授ける牧師の弟子になることではありません。キリストの弟子になることです。わたしたちは父と子と聖霊によって洗礼を受けるのです。イエス・キリストのお名前でバプテスマを受けました。わたしたちはキリストの弟子であります。わたしたちは聖書の約束にあるように、聖霊と火のバプテスマをいただいたことを確認し、日々新しくされましょう。聖書に記されている聖霊の賜を求めましょう。

祈り

新年を迎えました。

この時、コロナ禍が続いている中、キリストの福音に生かされているわたしたち、先にあった教会、教派、教団によってライバル関係ではなく、福音に生きるものとして謙遜さ、神に従順であるように。生きるとはキリスト。キリストを生きるものとなりますように。

福音のためにこころを合わせ、すべての教会がひとつとなり、宣教が進められますように。

メモ

聖書に見られるライバル関係

ヤコブとエサウ 創世記25章19~34節、27章

モーセとミリアム、アロン 民数記12:1~13節

 コラの一族の反逆 レビ族と祭司 民数記16章

ペトロ ヨハネ21章22節

 




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