2020年10月25日 聖霊降臨節第22主日礼拝

2020年10月25日 礼拝

聖 書  創世記49章1~12節

説 教  残す言葉

 

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人は死を前にした時、言葉を残します。残す言葉がある。歳をとり、その人生を振り返り

走馬灯のように思い出が駆け巡る。自分の人生を顧みる。そして言葉が残る。そう思います。

 青葉荘教会では、昨年1月には、教会懇談会で「共にエンディングノートを考える」と題して、「終活」について懇談の時を持ちました。人はだれでも、自分の人生の終末を迎えるのです。死ですね。その死に備えて自身の希望を書き留めておくということです。どのような葬儀をしてほしいか、愛唱讃美歌、聖歌、愛誦聖句を記し、また経歴と信仰の証しを記したものを残す。そのことを考えたことです。葬式もまた伝道です。それが教会の伝道の姿勢です。信仰の証しを死して残すのです。

 

 世に言う、歴史的に有名な人たちも死を前にした言葉を残しています。臨終の言葉です。

ベートーヴェンは「喜劇は終わった。諸君、拍手を」と言ったそうです。

ゲーテは「窓をあけてくれ、光を、もっと光を」

松尾芭蕉「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」

味わい深いものがあります。

淀橋教会の小原十三司牧師は、「リバイバル、リバイバル」と臨終の床で語られたということです。

本日の説教の聖書は、創世記49章です。ここには、「ヤコブの祝福」と小見出しがあります。死を前にした遺言、子どもたちへの残す言葉です。

 

1節と2節をお読みします。

ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。

ヤコブは死の床で12人の息子たちを呼び寄せるのです。12人の子たち、ひとりひとりに祝福の言葉を語ります。そして、語り終えた時、聖書は次のように結びます。28節ですね。

これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。

ここでは、3度祝福の言葉が使用されています。「おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのです」

祝福だから、そこには子への愛情の表現が普通です。それが普通の親の心情でしょう。子孫の繁栄を願い、残す言葉とするでしょう。それが何よりも祝福の言葉がふさわしいものです。また、戒め、警告、願いも込められることもあるでしょう。ここには、将来起こることも含め、預言でもあります。しかし、3節からのルベンへの言葉、5節から7節のシメオン、レビの言葉のように、呪いの言葉もあります。痛烈です。じつに厳しい。父と子の断絶をも認めざるを得ない言葉もあります。

 

 12人の息子への言葉、一つ一つに対してコメント、解釈をいたしません。主要な子と意義のあることばを見てみようと思います。

3節

ルベンよ、お前はわたしの長子、わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。

お前は水のように奔放で、長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り、それを汚した。

 ルベンは12人兄弟の長男です。ヤコブは、長子のルベンに対して辛辣です。これは創世記35章22節の出来事が反映されています。

5~7節は、シメオンとレビへの言葉です。呪いの言葉を残しています。これも創世記34章の出来事を反映しています。レビの子孫は、レビ族として、400年後、モーセとその兄アロンを生み出し、ここから祭司階級が起こります。選ばれた部族です。そのモーセは、死を前にしてイスラエルを祝福します。申命記33章ですね。

 

8~12節は、ユダへの言葉です。

 ほかの兄弟に比べ、長いですね。とくに10節「王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」とあります。12人の子たちの中では、最高、最大の祝福の言葉を残しています。後の時代になり、ユダの子孫にダビデ王が現れ、それから肉によればイエス様がお生まれになったのです。

22節から26節は、ヨセフへの言葉です。ヨセフの子は、マナセとエフライムですが、このエフライムはダビデの子ソロモンの後で、ユダ王朝は分裂し、エフライム族の王が現れるのです。ユダとエフライムの2大部族の争いとなります。

 以上、関連してまとめますと、ヤコブの祝福の言葉には、のちに諸族、民族となる子たちの将来が預言されています。12人の息子たち、のちの12部族の成立です。対立を予見しての預言でもあるのです。先ほども申しましたが、親と子の関係の微妙さも表されているように思います。親の評価、あるいは客観的、歴史的な評価も含まれているのでしょう。

 子を誉める、愛情表現、喜ぶ、そのような肯定的な評価もあります。

 マイナスの評価もあります。くさす、引き下げる、ディスカウント(臨床心理での言葉で、人間の値引きを意味します)しています。

  モーセによる出エジプト、カナン入国があります。これはヨルダン川の東岸までですね。その後、ヨシュア記に入り、ヨルダン川を渡り、エリコの町を攻撃、本格的にカナンに侵攻し、占領、12部族の分割となるのです。それぞれの嗣業が分け与えられます。

 その後、士師記へと移ります。ここでは、先住民のカナン人やペリシテ人との共存、隷属、支配、拮抗の歴史です。

 

  ちなみに、士師記の中で、功績にあった士師(さばきづかさ)の幾人を挙げると以下のようになるでしょう。

ギデオン 6章 - マナセ族 

エフタ 11章 - ガド(ギレアド)族

サムソン(デリラ)13章 ― ダン族

士師記ではありませんが、サムエル記上では、エリもサムエルも士師(さばきづかさ)に数えられています。

エリ 祭司 

サムエル エフライム族 

それぞれの部族が活躍しています。ダビデ、ソロモンのあと、ソロモンの息子レハベアムの時代に、イスラエルは北と南に分裂します。北はイスラエル王国、エフライム族が主導権を持つ10部族連合、南はユダ族とベニヤミン族の2部族ですが、ベニヤミン族は少数派です。北イスラエルは、王が次々に交替し、クーデターあり、革命ありで、下克上の王朝です。信仰的にも偶像神バール宗教でエルサレム神殿と対立するのですね。南はユダ王朝でダビデの家系が一貫して王となります。エルサレム神殿が中心で信仰がユダ王朝の求心性がここにあります。

 中東世界の荒波の中で、北イスラエルは前722年アッシリアによって、南ユダは前586年バビロニアによって滅ぼされます。とくに北イスラエルは10支族の民のうち指導者層はアッシリアに捕囚として連れ去られ、あるいは中東全域に離散するのです。歴史的に「イスラエルの失われた10支族」と呼ばれるようになります。さらに、アッシリアの植民政策により、サマリア地方に多くの非ユダヤ人が入植。10支族の民のうち虜囚にされなかった人々が多く残っていましたが、指導者層の喪失や、入植してきた異民族との通婚によってイスラエルの10支族としてのアイデンティティを喪失します。イエス様の時代、サマリアは正統派のユダヤ人から異民族との混血の地として軽侮されることになります。

 

バビロン捕囚にあったユダ王朝の生き残りは、捕囚後帰還を許され、エルサレム神殿の再築、律法による統治を旨とするユダヤ教が成立するのです。

 歴史的には、バビロン捕囚後、ペルシャ帝国、アレクサンダー王の帝国、セレウコス朝シリア、ローマ帝国と小民族イスラエルはこれらの大帝国の武力により圧倒され、征服されていきます。それでも律法による民族のアイデンティティーを保ち、イエス様の十字架とキリスト教会の成立後も今に至るまで、聖書の民として大きな影響力を持っているのです。

 12部族は失われましたが、新約聖書には12弟子、12使徒が引き継がれ、黙示録7章には、この失われた12部族が新しいエルサレムとしての象徴を持っています。

 

 以上12部族を概略しました。

 ここでヤコブは、12人の息子への祝福の言葉を残しました。今の時は、ヤコブから3,600年が経っています。また、わたしたちはマタイによる福音書1章からヤコブ、ユダ、ダビデという家系の中から、神が人となられたイエス・キリストを信じる教会の歴史の中にいます。イエス様は、世の終わりが来ること、神の国が現れるとの言葉を残されました。「世の終わりまで福音を宣べ伝えなさい」です。

 わたしたちの信仰、子孫に何を残すか、どういう言葉を残すか。そこにわたしたちの信仰がかかっているのです。そして将来の家族、教会のために、祈りと信仰により言葉を残しましょう。死を前にした言葉は、自分の生きてきたその生涯のエッセンスがそこに表れているのです。

イエス様は十字架に架けられても「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からないでいるのです」と言われました。

 イエス様は、福音書に多くのお言葉を語られています。その最期の時に、ご自分を十字架につけた人たちを憎み、復讐心で呪いの言葉を語られるようなことがあったら、信仰者は失望することでしょう。

 「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からないでいるのです」との言葉は、すべてのクリスチャンにまたすべての人間に残された神の子の言葉です。まことの神、愛そのもの。この言葉にこそ、天地万物を創造された神のご意思が表されています。わたしたちの信仰はここにかかっていると言っても過言ではありません。

 祈りましょう。




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