2023年1月1日 降誕節第二主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙12章1節
説 教 一年の決意
2023年の新年を迎えました。新型コロナ・ウィルス感染の災いは3年越しに続いています。なお、わたしたち日本国のみならず、世界中が騒然としており、落ち着きません。それに加えて、ロシアによるウクライナ侵攻が年を越しました。いつ収まることか。
教会として、信仰者としての責任、祈りと信仰により世のために祈る責務がるように思います。
これからも一体どうなるのだろうと不安になります。
しかし、わたしたちは徒に不安を感じることはありません。わたしたちは神が統べ治められることを信じています。最善をなしてくださる。その信仰です。
さて、2023年の元旦に当たり、ローマの信徒への手紙12章1節を選びました。2年前からローマの信徒への手紙を連続講解説教しています。昨年11月アドヴェントに入る前に11章の最後を説教しました。
1節をお読みます。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
こういうわけとは、前の11章までにあなたがたは神の憐れみと慈しみにより、救われているのだからということですね。イエス様の十字架の贖いにより救われ、義とされ、聖とされている。その救いを全うするために。そういう意味があります。
何を勧めるのか。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
1.なすべき礼拝 霊的な礼拝
なすべき礼拝とは何か? ここは口語訳のほうが、分かりやすいでしょう。こう訳されていました。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
わたしたちの礼拝は、霊的な礼拝でしょうか? 旧約聖書に現れされた礼拝は必ずいけにえが伴っていました。祭壇にいけにえをもってきて献げるのです。これが礼拝です。
出エジプト記23章15節には、「何も持たずにわたしの前に出てはならない」とあります。わたしたちは、何をもって神の前に出ますか?
いけにえのない礼拝は礼拝ではないのです。供え物、捧げ物が必要とされたのです。牛や羊などの動物がおもないけにえでした。神がいけにえを受け入れられることによって礼拝者の罪が赦されたのです。いわば犠牲の血なのです。身代わりのいけにえなのです。人間の罪によって、神と断絶をしている。その神との交わりの回復がいけにえなのですね。
新約では、そのいけにえはもはや必要としなくなりました。主イエス・キリストご自身がわたしたちのいけにえとなられたからです。キリストが小羊として血を流されたのです。
動物の血はもはや必要としなくなったのですが、なお神に持っていく献げものはあります。神はそれを求めておられるのです。何ですか?
2.神が喜ばれるいけにえ
聖なる生けるいけにえとして (新共同訳)
生きた、聖なる供え物として (口語訳)
喜ばれるとは、受け入れられる、お気に召すいけにえという意味です。
からだとは、わたしたちの全体を言い表します。こころとからだの全体です。生活といってもよろしいでしょう。聖なる生活。ホーリネスです。聖霊に満たされ、聖霊に従って生きる信仰生涯。わたしたちのこころです。悔いくず折れた魂、砕かれた魂です。わたしたちが、日曜日ごとに礼拝に出て、砕かれることなく、悔い改めることをしなければ、どんなに礼拝をささげても、神は受け入れられないでしょう。
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。(詩編51:19)
すなわち、神に喜ばれる礼拝とは、わたしたち自身、わたしたちのすべてをもって礼拝することです。
こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして
主なる神を愛し、礼拝する。
ヨハネ4章 23、24節
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
霊と真理をもって神を礼拝する。
齋藤和子姉のこと。2022年12月23日召天。
その生涯。信仰。お母さん、スモン病、お姉さん。40年の介護。潔兄と共に
不平不満、愚痴、非難の言葉がない。愛。祈りとみ言葉に生きた生活。
新しい年がスタートしました。これから始まる一年。その信仰の決意を今日の元旦礼拝から固くしましょう。それは、自分自身のからだとこころ、精神、自分自身のすべてをもって、神を礼拝し、神に従うことです。
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