2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝
聖 書 ローマの信徒への手紙10章14~21節
説 教 信仰の出発点
本日の説教題は「信仰の出発点」です。信仰は、どこから来るのか。前の段落から言えば、神の救いが与えられる。主イエス・キリストを公に言い表すことによって、救われる。
「心で信じ、口で言い表すことによって救われる」と書いてあるとおりです。
先ほども、使徒信条をご一緒に告白しました。公に言い表したのです。わたしたちは救われているのです。義とされているのです。
では、その信仰はどこから来るのか。それが信仰の出発点ということです。難しい話になりますが、いわゆる神学的な事柄をご紹介します。
1.ミッシオ・デイ
ミッシオ・デイという神学用語があります。ハリウッド映画に「ミッション・インポッシブル」というシリーズ物があります。そのミッションですね。派遣とか宣教と訳されます。英語の辞書を紐解くと、次のような訳がでてきます。
「目的、使命、存在意義、役割」。一般では、組織や個人が社会において果たすべき使命や任務のことをいいます。もともと、ラテン語でmittere といい、「送る」を意味します。ここから「神の言葉を送り届けよ」と解釈されるようになり、「キリスト教の宣教」やそのために設けられた使節団、伝道団のことを意味するようになりました。その主体は教会であります。
キリスト教は、ローマ帝国において発展しましたので、ラテン語の言葉が多いのですね。ギリシャ語では、アポステローです。これが名詞になれば、アポステロス、英語のアポスルになります。派遣された人、使徒、宣教師です。
それでミッションは英語ですが、ミッシオ・デイは神の宣教です。はじめに、神ご自身が神のことばを送られた。宣教のはじめは神であるということです。
ローマ書1章18節以降に記されています。
すなわち、信仰の出発点は、神様から来ている。これが第一です。
2.聖書の言葉を聞くこと
さて、聖書に戻ります。10章全体は旧約聖書からの引用が多いのですが、この14節以下も、イザヤ書52章7節からの引用であります。ちなみに、16節はイザヤ書53章1節からの引用、以下18節は詩編19編5節、19節は申命記32章21節、20節はイザヤ書65章1節、21節はイザヤ書65章2節です。
パウロの書簡にはローマ書のみならず、他の書簡でも旧約からの引用が多いですね。当時、わたしたちが持っているような本になった聖書はありませんでした。羊皮紙といって羊の皮をなめした巻物です。旅に出ていたパウロは、いちいち羊皮紙の聖書を持参して旅することはありません。
そして、パウロの書簡は、その多くは口述筆記であったと言われます。わたしたちがするようにいちいち旧約聖書のページをめくることはないのですね。律法のプロであったパウロは、旧約聖書の重要なところを記憶していたのでしょう。ユダヤ人がすぐれているところは、この辺にあるのかなと思います。
ちょっと話が脱線しますが(たまにはいいですよね)、こういう話を聞いたことがあります。ある牧師会がありました。開会礼拝の時に、牧師が聖書を読みました。旧約聖書のイザヤ書からの一節を読んだのです。出席している牧師たちは、聖書を開いて目で追います。その中で、旧新約聖書を持たない牧師がいたのです。新約聖書が一冊となった薄い聖書ですね。それで、隣にいた牧師の聖書を覗き込むようにしたのです。
その牧師は(年配の牧師です)言いました。「おや、旧約聖書をお持ちでないのですか?」
新約聖書だけの牧師は答えました。「重いので、新約だけ持ってきました」
すると、年配の牧師はこう呟いたそうです。「あなたの罪よりは軽い・・・」
神が語られた。わたしたちは、語られる神のことばを聴くのです。聞くことから、信仰が始まると言えるでしょう。
聖書は聞くものであると思います。昔は、聖書は羊皮紙でしたので、貴重なものでした。会堂にだけ置いてあり、安息日に読まれ、集う会衆は聴いていたのです。当番になっている司会者は、予め何度も声を出して読み、間違わないように練習したことでしょう。
16節以下に書いてあるとおりです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
3.聞いた聖書の言葉を信じ、従うこと
聞くことから信仰が始まるというのです。しかし、聞いても信じない。これが大部分です。一度聞いたからといって、信じるのは、確率から言って90パーセントないでしょう。イエス様も説教しました。パウロもペトロも説教したのです。しかし、どうでしょうか。ほとんどの人たちは、耳を閉ざし、こころを堅くして、信じることを拒むのです。
それでも、信じる人が起こされる。ここに神の不思議、聖霊の導きがあります。2000年間そのように、教会は伝道してきました。仙台青葉荘教会も112年の間、ここに立ち、福音を宣べ伝え、52週の日曜日礼拝を献げ、福音が語り続けてきたのです。
20節
イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、
わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
伝道とはそんなものかと思わされます。一生懸命教会に誘い、イエス様のことを宣べ伝えても、こころを頑なにし、耳を閉ざすのです。しかし、人知を超えたところで、神を信じる人が起こされる。その一人がわたしです。そして、皆さん、お一人ひとりでしょう。こんなわたしが、神を信じるようになるとは・・・教会につながるとは・・・
ここに神の導きがあります。まさに、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」のです。
4.宣べ伝える足となる
そこで、信仰の出発点とは何か?
それは宣べ伝える者がいたということです。命がけで、生涯をかけて・・・
これは特記すべきでしょう。ある時は、宣教師であり、牧師であり、伝道者でありました。使徒パウロ、ペトロです。
何よりも、神が第一です。ミッシオ・デイですね。
イエス様の十字架の贖い、復活と昇天、聖霊降臨の出来事、再臨の神のご計画
しかし、教会の伝道は伝道者、牧師だけではありません。その地域に住む教会員となったひとり一人が宣べ伝える足となり、キリストを証ししたのです。
足となる。神の道具です。頭は神様です。イエス・キリスト様です。聖霊様です。自分が頭になることではない。神の道具、神のしもべ、神に仕えるものとなることです。
そのために、訓練を受ける。日々精進し、磨きをかける。み言葉を読み、暗記し、祈る。
教会に仕える。教会員同士の交わりにも謙遜、友和、愛とよろこびをもって仕える。
5.証し
神学校に入ると神学生同士の交わり会があります。霊性および信仰を深めるよい訓練の機会となっています。その交わり会(ミーティング)で、当番になっている神学生が証しをいたします。時に、説教であったり、日々の献身生活の感想であったり、将来牧師・伝道者となるための心がけであったり、読書の勧めであったりします。
神学生は、自分が献身するきっかけとなった聖句を持っているものであります。神の促しと申しますか、召命の言葉です。直接、神が声をかけて打ち倒すようにして、牧師・伝道師に導くということはありません。必ずしもそう断言できませんが、神様は力づくで、人間を屈伏させ、ご自身の計画や御心のままに人間を従わせるようなことはなさらないのです。
聖霊なる神は紳士であり、その細きみ声をもって、人間に語り掛けられます。よほど、注意しないと聴きもらします。あるいは、そういう兆候すら気づかないでしまうことがあります。
ある時、下級生の神学生が証しする時となりました。彼は、自分の召命の聖句、み言葉を語ったのです。それは、本日の聖書の箇所であります。
10章14節以下をお読みします。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
彼は、自分が良い知らせを宣べ伝える者、宣べ伝える足となるように神に召されたと証ししたのです。
彼は卒業して、教会の伝道師、牧師となりました。今もなお、活躍しています。
神は召命のみ言葉をもって、信仰者に当られます。神は、もう一度申しますが、力づくで、引っ張ったり、押したりはなさいません。むしろ、静かに待たれることが多いのではないでしょか。
召命のことでもうひとこと言えば、時に自分自身か家族、周囲の病気、事故、思わぬ環境の変化などを通して、神はご自身の計画を人に示されることがあります。こんなことがどうして起きるのか。そんな苦しさ、悩みを通してさえ、神は召命をされるのであります。大切なことは、信仰をもって、神に聞く態度。心の姿勢が大切です。
人を恨み、責任をなすりつけることはできません。そこに、神が介入されているという信仰なのです。
召命について言えば、何も牧師・伝道者になるだけが召命ではありません。英語ではコーリング、天職、召命です。クリスチャンは、すべて神に召し出されて、神の栄光をあらわすために用いられるのです。
み言葉を聞いて、宣べ伝える者の足となる人を神は求めておられます。「ここにわたしがおります。わたしをお遣わし下さい」 そうイザヤは献身の応答をしました。わたしたちひとりびとりがそのように神から遣わされ、宣べ伝える足となりますように。ときに、宣べ伝える口となり、み言葉を聞く耳となり、誤りなく神のことばを理解することができますように。
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