2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日礼拝

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聖 書  ローマの信徒への手紙10章5~13節

説 教  救いの確信ありますか

 いま、わたしたちは新型コロナウイルス感染拡大のジレンマにあります。3年目となり、依然として収束する兆しがありません。また、ロシアのウクライナ侵攻による戦闘のニュースを毎日、見聞きさせられています。気候変動による日本の各地に大雨、豪雨により土砂崩れや河川の氾濫、農作物の被害がニュースにあります。インフレによる物価上昇、年金問題と将来に対する不安も増えるばかりです。毎日が、悲観的なニュースを見、聞かされています。

その中で、わたしたちキリスト教会を振り返ります。そして、考えます。「わたしたち現代人にとってキリスト教は可能なのか?」と。

 その思うところは、キリスト教は現代人に受けいれられるのだろうか? そのように慮るものです。科学文明が高度に発達し、個人主義が横行している現代社会において、キリスト教のメッセージは届くのだろうか。そして、小さな教会が多い東北教区にあって、教会はなお存続できるのだろうか? そういう思いであります。

 現に、酒田暁星教会はじめ東北教区には、2,3名の信徒の教会、定住する牧師がいない教会が10以上あるのです。無牧と言います。

キリスト教を可能にしているのは、神ご自身のみ旨でありまして、わたしたちの責任ではありません。わたしたちは、福音を宣べ伝えていくという責任を負っていますが、その結果については、責任を持たないということです。かつて、栄えたエジプトのアレキサンドリアの教会や小アジア(トルコ)の教会は、今は遺跡という形でしか残っていません。ヨハネの黙示録にある七つの教会、パウロがいのちをかけて伝道した小アジアの教会です。教会が建っていたところに、イスラム教の寺院が建っているのです。

東北教区だけでなく、日本の各地においても、かつてあった教会が今はない。たくさんあります。教会の合同・合併、閉鎖、解散していく教会が多々あるのです。

 まさに、形あるものは永遠に存続しないのです。しかし、永遠にと申しますか、主イ

エス・キリストの再臨の時までに存続するものがあります。それは、キリストの福音で

ある神の言葉と福音が宣べ伝えられるところに建てられる教会です。信仰者は消滅しな

いのです。世界の隅々に福音が届けられていること。届ける宣教者が起こされているこ

と。そこに信仰者が起こされていること。これは事実であります。そこにキリスト教の

可能性をみるのであります。

 わたしたち、アジアの極東の日本だけでなく、韓国や他のアジア、アフリカに福音は強く伝えられているのです。その信仰者とわたしたちは、毎聖日ごとに神を礼拝している。それは奇跡と言ってもよいでしょう。そう確信します。

 本日は、「救いの確信ありますか?」と題してメッセージをいたします。そもそも「救い」とは何を意味しているのでしょうか。

 1.救いとは何?

ローマの信徒への手紙10章9節から13節までを読みましょう。

ここでは、「救われる」という言葉が三度、使われています。

9節

  口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

10節

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

13節

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 救いとは何でしょうか? 

救いというのは、キリスト教だけの専売特許ではありません。宗教と名がつく団体が約束する心と魂の平安、安定、人生のすべての解決といってもよいでしょう。人生には家庭、職場などでの人間関係の悩み、不安、苦しみ、病気、危険などがあります。それらの不安と恐れがこころと魂を失望と絶望に陥れる。そういう経験をみなさん、されてこられたと思います。その解決ですね。いろいろ試した、いろんなところに行った。しかし、本当の解決、平安がなかった。そういう失望と諦めの人生が大多数だと思うのですね。

しかし、人生の解決はここにあるのだ。それは、イエス様にある。これがキリスト教で

す。

使徒言行録4章12節

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天

下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

口語訳

この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天

下のだれにも与えられていないからである。

その救いを経験している。体験した。そこに生きた信仰の証しがあります。生き生きした信仰、輝いた信仰生活。魅力ですね。そういう人のそばにいると心が和らぎますね。

受け容れられているという安心感です。そういう信仰者をわたしたちは目指したい、目

標にしたいと思います。

2.救いの構造

 実は救いの構造というのがあるのです。わたしたちは、神を信じ、イエス様の十字架の

贖いを信じています。洗礼を受けて、神の国に入る切符を手に入れました。永遠のいのち

にあずかるという保証です。約束の証印ともいいます。聖霊の手形です。

 救いの構造と申しましたが、本当は、心の構造と言ってもよいでしょう。平安でないこ

ころ、安定しない精神、苦しみ、悩み、人間関係での障害。そこに、こころの構造がある

のです。それは罪の問題です。

 罪というと、こころを閉ざす人がいます。聞きたくないというわけです。でも、真に救

い、こころの平安と人生の解決を求めるなら、罪の問題に向き合う必要があるのです。

罪は、わたしたちを束縛し、奴隷にしています。闇を好み、光を憎むのです。罪には、

二つの傾向があります。他人に対して向けられる攻撃です。それは、憎しみ、恨み、不平・不満を呟き、周囲に毒を振りまきます。他者に対する攻撃、非難です。

もう一つは自分自身に対して向けられる攻撃です。自信がない。力がない。自分は駄目

な人間だという自分自身への攻撃、非難です。いつも曇天のようで、晴れ間がない。

この二つに対して、わたしたちは神によって造られたものである。神は造られたものを

祝福し、愛しておられる。そのために、神は人となられた。イエスとして十字架にかから

れたのです。イエス様の十字架はその罪を赦し、わたしたちのこころを清めるためである

のです。

その信仰が、罪に捕らえられ、罪の奴隷であったわたしたちを解放するのです。これが真の救いです。

3.救いの継続性

 救いは過去のものではありません。継続しているこころの状態です。信じて洗礼を受

けた。そのときは、平安があり、喜びだった。しかし、数年たって、ある人は数十年

たって、今は救いの喜びも涸れてしまい、救われているというこころの状態ではない。

前にもまして、病気や家庭の問題で苦しみ、人間関係で悩んでいる。そういう人がいる

かもしれません。

 信仰生活は、完全ではありません。万々歳。すべてが解決したというわけではないの

です。クリスチャンになっても、罪との戦いはあるのです。

 大切なことは、教会生活、信仰生活を継続することです。礼拝を守り、聖書を読み続

け、祈りと讃美を続ける。そういう継続の中で、成長していくのです。成熟といっても

いいでしょう。

教会の交わりの中で、同じ信仰者との交わりの中で、信仰は成長するのです。

4.救いの体験の一つのタイプ

神学生の時に、あるアメリカ人の証しを聞いたことがあります。

1972年のアメリカ合衆国のことです。ニクソン大統領の時代、ウォーターゲート事件が起こりました。共和党出身の大統領ニクソンは、野党民主党の本部にあるウォーターゲートビルに部下を潜入させ、電話の盗聴機をしかけたのです。それが発覚して、辞任に追い込まれます。アメリカ合衆国始まって以来、現職の大統領が任期中に辞任した事件です。

 その時、大統領の特別補佐官であったチャールズ・コルソンが逮捕され、取り調べを受けます。彼は起訴され、有罪となって、獄に入るのですが、獄中で聖書を読んで回心するのです。懲役刑を終えて、コルソンは何と伝道者になるのですね。今は、「プリズン・ミニスト

リーズ」という団体を起こし、服役囚のための奉仕活動を行なっていました。

 その彼が、30年前に来日し、講演をしたのです。彼は「ボーン・アゲイン」という

本を書きました。大統領の特別補佐官時代の権力と権力からくる数々の罪を犯したこと。

相手を攻撃すること、陥れることばかりを人生の目的にしていたことを記しています。

しかし、ウォーターゲート事件で失脚し、獄中でキリストと出会い、回心したのです。

そして、伝道者となり、キリストの福音を宣べ伝える者と変わったのです。

 「ボーン・アゲイン」とは、回心ですが、生まれ変わることでもあります。

 彼は説教の中で、何度も繰り返しました。その言葉を忘れることはありません。

「あなたはキリストを知った時、ボーン・アゲインしましたか? 生まれ変わりましたか?」

ローマの信徒への手紙10章でパウロは、律法と福音の対比から救いについて、述べて

います。律法を行い、守ることでは救いはないのです。新生も回心もありません。律法を

守るということは、能力と知的な理解力によって可能なのです。

 神は全能です。その全能の神は、ある人をかたくなにし、こころを閉ざされるのです。

モーセに対して、エジプトの王ファラオは、頑なになったとあります。神がそうされたと

記されています。人のこころを頑なにし、閉ざされるのは神です。しかし、こころを柔ら

かにし、こころを開かれるのも神です。福音を受け入れ、信仰をもつのは、聖霊なる神に

よってであります。

もう一度9節をお読みします。

  口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させ

られたと信じるなら、あなたは救われるからです。

コリントの信徒への手紙一 12章3節に

聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

いつも心を開いて、聖霊を受けましょう。

聖霊が臨んでおられることを信じ、よろこびの心でもって、信仰を告白しましょう。

わたしたちは、ボーン・アゲインしたものであること、生まれ変わったものでること

を確信し、喜びをもって、それを受け入れ、成長することを委ねて、相応しい歩みをい

たしましょう。




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