カテゴリー: 今週の説教
Posted by: 三輪大 | on 7月 31, 2024
2024年7月28日仙台青葉荘教会礼拝
使徒言行録2章43節-47節
「御旨に叶う教会生活」
ペンテコステのことを述べていた2章は、二つのポイントがありました。
- 聖霊が降り教会が誕生したということ。
- 誕生した教会の伝道により、新しい人たちが教会に加わり始めたということ。
これら二つのことは、切り離してはいけません。
その理由は、教会の誕生は、伝道が始まることを意味しているからです。
つまり、教会が誕生して全世界への伝道が始まった。それが、ペンテコステだったのです。そのことをはっきり語っているのが47節後半です。そこを見ますと、「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」そう記されています。
教会の誕生により伝道が始まって、救われる人たちが日々新たに起こされて、教会に加わりはじめた。それが2章の結論です。救われた人たちに、聖霊の賜物が与えられて誕生した教会は、そういう姿だったのです。
教会が教会として歩むという意味は、伝道がなされて、新たな人たちが仲間に加わりはじめるということです。しかしそれは、人間の業や力によることではありません。47節に、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」そう記されている通り、伝道は主の働き、つまり、聖霊の働きによるのです。
聖霊が、教会の人たちに罪からの救いの証をさせて、神を知らなかった人たちが、自分の罪と、自分の罪の赦しを知らされて、主イエスの福音を信じ、洗礼を受け、聖霊の賜物が与えられ、新たに教会に加えられていくようになるのです。
そこで疑問になることがあります。それは、新たな仲間が加えられていった教会は、一体何をしていたのかということです。
実は、そのことが記されているのが今日の箇所です。
今朝、私たちは、最初の教会は聖霊に押し出されて、一体どういうことをしていたのか。そのことを具体的に皆さんと共に学んでいきたいと思います。
しかしその前に、今日の箇所が繰り返し述べている言葉、とても大事な言葉を、確認しときたいと思います。
それは、「一つになって」という言葉です。44節を見ますと、「信者たちは皆一つになって」そう記されています。46節を見ましても、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」そう記されています。そして、最後の47節にも、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」そう記されています。
つまり、今日の箇所は、教会の人たちが、「一つになって」歩んでいたこと。心を一つにして生きていたこと。そのことを強調しているのです。
信仰共同体である教会がそうなっていてこそ、日々新たに、仲間が加えられていくようになるのです。最初の教会の力強い伝道の秘訣は、「一つになって」いたことです。
もし現代の教会が、力強い伝道が出来ていないとすれば、その理由は、「一つになって」いないからです。
同じ一人の主を信じていて、同じ救いの恵みにあずかっているにも関わらず、いろいろもめてしまっているとすれば、主イエスの救いを受け入れる人たちが、日々加えられていくなんてことは望めません。
私たちは、最初の教会の人たちが、一体何によって一つになっていたのか。そのことを、しっかり学ばなければなりません。
聖書のいう「一つになる」とは、ただ仲良くすることを意味していません。最初の教会の人たちは、今日の箇所に出てきているいくつかのことを、共にしていたのです。そのことによって、「一つになって」いたのです。
今日の聖書箇所が43節からの理由は、新共同訳聖書の区切りが、そうなっているからです。
でも、最初の教会の姿は、42節から書き記されています。だから、ある聖書学者たちは、「42節からを、新しい段落にするべきだ。」そう主張しています。
今日は、42節を含めて、皆さんと共に学びたいと思っています。
実は、42節の言葉こそ、ペトロの説教を受け入れて、洗礼を受けた人たちが、一体どういう歩みをしていたのかを述べています。そこを見ますと、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」そう記されています。
此処には、最初の教会の人たちが、熱心にしていた四つのことが記されています。
1.使徒の教え
2.相互の交わり
3.パンを裂くこと
4.祈ること
まず、「使徒の教え」ですが、これは神の救いを主イエスから直接聴いて、救われた使徒たちが、聖霊の力を受けて教えていたことです。今で言えば、新約聖書や、新約聖書と旧約聖書の結びつきの教えを受けることだといえます。
次に「相互の交わり」ですが、使徒言行録の著者ルカは、三位一体の神、自分、隣人の関係構築が、とても重用だと言うのです。教会は、聖書の教えだけで成り立ってはいません。聖書の教えが、三位一体の神、自分、隣人の交わりに反映されていくことが、とても大事なのです。
聖書の言葉を学んではいても、それが、三位一体の神、自分、隣人の交わりに反映されていかないなら、本当の意味で、聖書を学べていることにはなりません。
「相互の交わり」という言葉を原文で見ますと、「分かち合い」そう訳すことが出来ます。ということは、「分かち合い」という言葉にこそ、「相互の交わり」の本質があるということです。簡単に言えば、「相互の交わり」とは、自分のもっとも大切なものを、分かち合うことを意味しているのです。
父、子、聖霊なる三位一体の神は、それぞれの人格が、私たちが、三位一体の神を愛し、隣人を愛し、永遠に生きていけるようになるために、自分がとても大切にしているものを、私たちに分かち合って下さったのです。
私たちはどうでしょうか。そういう神の救いに応えて、三位一体の神を愛し、隣人を愛して生きていくために、自分がとても大切にしているものを、分かち合って生きているでしょうか。
聖書が言う「相互の交わり」は、良好な関係が、保たれていればそれで良いという、そんな軽いものではありません。
親しさだけを追求している人たちは、親しくない人との間に、壁を作ります。それが、対立を生みだす原因となるのです。更に言えば、自分の弱さが担われることばかりを求める人たちは、父、子、聖霊の、三位一体の愛の交わりの本質から、遠く離れています。聖書が言う「相互の交わり」は、自分の弱さが担われる交わりではなくて、自分の大切なものを積極的に分かち合っていく交わり。それを求めるのです。
罪深い私たちは、たとえキリスト者であったとしても、自分が担われる交わりばかりを求めがちです。教会で自分を積極的に分かち合っていく、「相互の交わり」になっていない場合が多いのです。罪深い私たちは、対立や分裂を生み出しかねない仲良しグループの交わりや、自分が慰められる交わりを、教会に求めがちなのです。聖書のいう「相互の交わり」を、人間的な親しさや、優しさと勘違いしてはいけないのです。
実は、教会の「相互の交わり」の本質は、三つ目の「パンを裂くこと」と、四つ目の「祈ること」にあります。
主イエスが、人間の罪の代価を支払うために、十字架で肉が裂かれて、血が流れたことを、信仰共同体である教会が、また教会に連なる私たち一人一人が、自分のものとして、ちゃんと取り込んでいくことが、「相互の交わり」の本質なのです。
その証拠に、教会は、教会員のことを「陪餐会員」と呼びます。「陪餐会員」とは、聖餐に共にあずかっている会員、主イエスの軛を負っている会員という意味です。聖餐に共にあずかっている姿の中に、私たちを一つにする交わりの絆があるのです。
じゃあ、「祈り」は、どうして「相互の交わり」の本質だと言えるのでしょうか。それは、祈りの真骨頂は、主の御心に適うことが行われますようにという祈りだからです。マルコ14章36に、主イエスの祈りが記されています。そこを見ますと「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」そう記されています。
また、ある詩編を見ますと、最初は主に文句を言ったり、敵を滅ぼして下さいという祈りから始まったりしています。でも祈り手の感情浄化がされますと、次第に自分の罪の告白に至り、最後には神賛美の祈りに至っています。
つまり、最高峰の祈りは、主の御心に叶うことが行われますようにという祈りや、神賛美の祈りなのです。
もし祈りが、自分のして欲しいことを願う祈りばかりだとすれば、それは教会の交わりの本質からずれています。
でも誤解しないで下さい。自分のして欲しいことを祈り求めることが悪いわけではないのです。とはいえ、神のことを思うよりも、自分がして欲しいことで頭がいつも一杯だったとするならば、キリストの道に生きているキリスト者とは言い難いのです。でも、罪深い私たちは、神のことを思うより、自分がして欲しいことで頭がいつも一杯になるのです。そんな罪深い私たちを救うために、父、子、聖霊それぞれが、自分のもっとも大切なものを、私たちに差し出して下さったのです。父、子、聖霊なる三位一体の神が、御自分の大切なものを差し出して下さったからこそ、私たちの救いの道が完成しているのです。
それはそうと、「相互の交わり」の具体的な姿が、44節-45節に記されています。そこを見ますと、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」そう記されています。
最初の教会が分かち合っていたものは、それぞれがとても大切にしていた財産や持ち物です。それぞれがとても大切にしていた財産や持ち物を売り、その売ったお金を教会に献げて、「おのおのの必要に応じて」分配していたのです。教会でそれがなされていたのです。
財産のある豊かな人が捧げて、それによって貧しい人が支えられて、両者が共に一つとなって、共に生きるという交わりが生まれていたのです。でも誤解しないで下さい。このことは、強制されて、仕方なくやっていたのではないのです。自発的になされていたのです。
そして、これは後の話になりますが、そういった教会の分かち合いの愛の業を整えて、適材適所に分配するために立てられるようになったのが、執事です。執事によって、具体的な分配がなされて、弱い人たちや、貧しい人たちが、支えられるようになったのです。
ということは、教会が、弱い人たちや、貧しい人たちを支えていくことは、とても大事な働きであるということです。
でも誤解してはいけません。教会に余裕があるから、弱い人たちや、貧しい人たちを、支えていたのではないのです。そうではなくて、自分のもっとも大切なものを、分かち合っていく分かち合いが、三位一体の神との交わりに生かされている教会の交わりの本質だったからです。
42節の「相互の交わり」は、「パンを裂くこと、祈ること」と、44-45節に記されている、財産や持ち物の分かち合いと連動しているのです。そんな「相互の交わり」が生み出る原動力となっているのが、使徒の教え、別の言葉で言うと聖書の教えなのです。
ある神学者がこう言いました。「聖書の教理が、神の栄光を映し出す私たちの歩みに変わっていかないなら、聖書の学びはガラクタである。」その通りだと思います。
最初の教会の人たちは、聖霊の助けを得て、主イエスの愛弟子である使徒たちの教えに豊かに育まれて、「聖餐」と「祈り」と連動している「相互の交わり」(自分のとても大切なものを分かち合っていく交わり)を、豊かに育んでいたのです。
ということは、現代の私たちも聖霊に押し出されて、聖書の教えを傾聴して、聖書の教えに豊かに育まれていくとするならば、「聖餐」と「祈り」が連動した「相互の交わり」(自分の大切なものを分かち合っていく交わり)を、豊かに育んでいくことは十分実現可能なのです。
それを妨げているのは、変わろうとしない私たちの心です。変えられようとしない頑なな私たちの思いです。聖霊の働きに背をむける私たちの罪です。
43節を見ますと、自分の大切なものを喜んで積極的に分かち合って、生きている教会の姿を見て、「すべての人に恐れが生じた」そう記されています。
この箇所が言っている「すべての人」とは、キリスト者ではない一般の人たちのことです。そして、この箇所がいっている「恐れ」とは、恐怖という恐れではありません。そうではなくて、「ここには、自分たちの人間関係にはない何かがある。」そういう畏敬の念からくる畏怖のことです。43節後半には、キリスト者ではない一般の人たちが畏怖を抱いた理由が書き記されています。そこを見ますと「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」そう記されています。この箇所が言っている多くの不思議なしるしという意味は、キリスト者でない人たちが、教会が、自分の大切なものを、喜んで積極的に分かち合って生きている姿を見て、「驚くべきしるし、驚くべき奇跡、」そう感じとっていたということです。
その結果、2章47節に記されている通り、教会は、「民衆全体から好意を寄せられた」のです。
私たちが、聖書の教えをしっかり傾聴して、聖餐を心に刻み、自分のこと以上に、御心がなりますようにという祈りに生きて、自分のもっとも大切なものを、隣人に分け与えて生きていくなら、教会は周囲の人たちから、畏敬と好意を寄せられるようになるのです。その結果、47節後半に「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」そう記されている通り、聖霊は、神の通りよき管となった私たちに豊かに働いて下さって、日々教会に仲間を増し加えていって下さるのです。
聖霊の助けにより、いつも聖書を傾聴して、私たちの罪のために主イエスの肉が裂かれたこと。主イエスの血が流されたこと。そのことをいつも心に刻み込んで、自分の願いを叶えてもらう祈り以上に、たとえ雨が降ろうが槍が降ろうが、御心が成りますようにという祈りや、神賛美の祈りが熱心に出来るようになり、自分のとても大切なものを、三位一体の神や、隣人に分かち合っていくことを日々喜びとすることが出来る教会生活を、皆さんと共に育んでいければと心から願っています。何故なら、それこそが三位一体の神の御旨に叶った教会生活だからです。
最後に一言お祈りさせて頂きます。
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