投稿者: 三輪大

 

2023年12月3日 待降節節第1主日

2023.1203.Syuuhou

聖 書  マルコによる福音書13章32~37節

説 教  救いの日

 本日よりアドヴェント、待降節に入りました。わたしたちの救い主イエス様がお生まれになった時期です。

1.目を覚ましていなさい

本日の聖書は、「目を覚ましていなさい」がテーマです。 32節から37節の段落で、小見出しにありますね。「目を覚ましていなさい」とは、イエス様のお言葉です。

33節「気をつけて、目を覚ましていなさい」 34節には「門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ」とあります。35節「だから、目を覚ましていない。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏が鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」とあります。さらに37節「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」

このように、短い段落の中で4度「目を覚ましていなさい」と言われるのです。目を覚ましている理由は何でしょうか。何のために睡眠を削ってまで、目を覚ましていなければならないのでしょう。

聖書は、「眠ってはいけません。ずっと起きていなさい」と言っているのではありません。

そんなことをすれば、病気になってしまいます。仕事の量が増えて、休むことをしないと体もこころも病気になってしまいます。過酷な労働を強いられて、休むこともできなくなり、ついにウツになり死んでしまった。そのような事件がありました。充分な睡眠時間と適度な運動が健康なからだと精神、こころを保つことができるのです。

神様は、病気になるまで寝ないでいなさい。目を覚ましていなさいと命じられておられないのです。

何のために目を覚ましているのか。これが大切です。理由ですね。

それは、その時が来るからなのです。33節「その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」 35節「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏が鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」

その時とはどんな時でしょうか。人の子が来る時です。人の子とは、イエス様です。そこに世の終わりが来る。終末です。13章全体が、この終末について語られています。13章1節、神殿崩壊の予告です。3節からでは、終末の徴について。14節は、大きな苦難の予告です。24節からでは、人の子が来る。31節は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。そして32節ですね。「目を覚ましていなさい」です。しかも、目を覚まして待つのです。

昔の日本の映画を観ていると、仕事に行っている夫の帰りを、妻は正座して待つというのがありますね。どんなに遅くなっても、きちんと身じたくをして待つ。お膳には食事を用意しています。遅くなっても、夫は家で妻が調理した料理を食べる。風呂を沸かしておく。

そんな貞淑な奥さんの姿を映画は映していました。子どもたちは寝ている。家族の姿です。いまは、そのようなことはありませんね。

2.人の子とは誰? 

13章24節から27節は、旧約聖書のイザヤ書13章10節、エゼキエル書32章7節、ダニエル書7章13、14節の預言の言葉です。この「人の子」とは、ダニエル書に記されている終わりの日に現れるメシア、救い主を言いますが、新約聖書ではこの預言の成就としてイエス様がそのメシアであると信じています。ここで人の子が現れる。これはイエス様のことを指しているのです。

 終わりの時が来る。しかも、確実に来る。では、その時は、いつなのか。イエス様が来られるのか。これが初代教会にとって大きな信仰の試練であり、危機でした。

3.救いの日 父の約束、子の約束

 本日の説教題は「救いの日」です。厳密にいうと、「救いの完成の日」ですね。

イエスはもう来られたのです。クリスマスですね。クリスマスは言わずと知れた「ご降誕」をお祝いする日です。救い主の誕生はメシアの来臨を示しています。しかし、それで世が終わったわけではない。厳然と世は続いている。アドヴェントは実現したのです。

 旧約聖書は、救い主メシアの到来を預言しています。イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書、ダニエル書など。父なる神様がこの預言者たちを通して、救い主の誕生を約束されました。神の約束です。そして、クリスマスでその預言が成就したのです。

 その救い主が十字架に架かられた。それは罪と死を滅ぼすためです。罪と死に勝利されたのです。十字架のイエス様を見上げる人は、救いに与り、永遠の命を与えられるのです。

そして、イエス様はもう一度、主は来られる。再臨です。再び、二度目の来臨です。

イエス様の約束です。この再臨によって、世は終わり、神の国が実現する。聖書は、その時はいつか誰も知らない。子も知らないとあります。イエス様ご自身もご存知でない。誰が知っているのか。父なる神様だけです。(13章32節)

4.待つ、目を覚ましている。

 だから、待つのです。イエス様が再び来られるから。いつか分からない。いつ来るか分からない人を待つのは辛いことです。でも、教会はこの2千年間待っているのです。

一日どころではないのです。1時間、2時間の問題ではないのですね。2千年です。

目を覚ましているとは、信仰をしっかり守って待ちなさいということです。そして、 待ちかたというのがあるのですね。

①     信仰をもって待つ

②     信頼して待つ。主イエス様の約束があるのです。

③     愛情を持って待つ。

5.神の忍耐、神の待ち望み

実は、わたしたちが待つのと同じように神が待っておられる。その記事が聖書のいたるところにあるのです。

詩編

121編3、4節

どうか、主があなたを助けて

足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

見よ、イスラエルを見守る方は

まどろむことなく、眠ることもない。

神は眠ることなく、守ってくださるというのです。

ルカ15章11節以下

神はいつも待っておられる。放蕩息子が帰ってくるのを待つ父親のように。ある面では、神は永遠に待っておられるのではないか。しかし、わたしたちは知らん顔をしている。神のことを無視している。いつまでも待っていればいい。そう思っているかもしれない。

 信仰とは、待つこと。逆転が生じるのですね。いままで散々待たせておいた神様を信じると、今度は神様を待つことになる。 

待つ。キリストの十字架によって、今度はわたしたちが待つのです。

 

 人間はその本質において「待つ」存在であります。人間はその全存在をかけて待つ。何を待つのか? キリストを待つのです。イエス様の再臨を待つのです。

 「果報は寝て待て」という諺があります。やるだけのことをやったら、あとは焦らず気長に幸運がこちらに来るのを静かに待つ。そんな意味です。委ねる。信頼感。

 しかし、教会は寝て待つのではない。目を覚まして待つのです。では、24時間寝ないで待っているのか。そうではありませんね。普段の信仰の態度です。いつ主イエス様が来られてもよいように、信仰をもって待つのです。祈り心をもって待つのです。

教会はこの2000年間そのように待ち続けました。「主イエスよ、来てください。主よ、来たりませ」と待つのです。

救いの日は来ています。イエス様のご降誕により、信じれば救われたのです。

これがわたしたちの信仰です。信仰告白をし、洗礼を受けている。わたしたちは、救われているのです。神の国の恵みに入れられているのです。

十字架はそのことを示しています。イエス様の十字架は、罪を贖い、死に打ち勝たれたのです。永遠のいのちを与えられたのです。聖霊はその保証です。

 イエス様の再臨によって、わたしたちは、名実ともに神の国の恵みにあずかるものとされるのです。「救いの完成の日」です。ハレルヤ。クリスマスは、その前味です。感謝しましょう。アーメン。