投稿者: 三輪大
2024年3月24日 受難節第6主日礼拝
聖 書 ルカによる福音書11章1~4節
説 教 いのちを食べる
12世紀にマイモニデスでいうユダヤ人がいました。彼は、哲学者であり、神学者、医学をも修めていました。そのマイモニデスは次のような言葉を残しています。すなわち、
「一人を救う者は全世界を救うのである。一人を殺す者は、全世界を殺すのである」と。
わが日本でも、宮沢賢治が「一人の不幸な人がいる限り、全世界の幸せはない」という意味のことを書いています。
ずっと以前ですが、「シンドラーのリスト」という映画が上映されました。ご覧になった方もいらっしゃると思います。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人を迫害、ホロコーストに及びました。その時、はじめは自分の工場に働くユダヤ人の低賃金労働力を利用するだけのシンドラーが、ナチスのユダヤ人に対する残虐な殺人行為にいたたまれず、ついにユダヤ人従業員の救出に動き出します。収容所に送られるユダヤ人をドイツ軍の手から買い戻すために全財産を投げ打ちます。その折作成した千二百人の救出名簿がのちにシンドラーのリストと呼ばれるようになったのです。
ナチス・ドイツは連合軍によって敗れ、ユダヤ人は自由を取り戻しましたが、6百万人ものユダヤ人が収容所で殺されました。シンドラーによって助けられたユダヤ人が彼のもとにやってきました。お礼を言うためです。その時、シンドラーは言います。
「オレはもっと救えたんだ。この車を売ればあと五人、バッジを売ればあと二人・・・」あとは声になりません。
ユダヤ人の一人が応えます。「あなたは充分すぎるほど、われわれを救った。ひとりを救えば、その人は何人も子どもを生みます。あなたはそのすべてを救ったのです」
わが日本国においても、リトアニア領事(代理)の杉浦千畝氏もユダヤ人を救い、イスラエルから感謝されています。記録によれば、家族を含めて6000人と言われます。
「一人を助ければ全世界を助けたのと同じだ」
そうマイモニデスは言います。これから生まれてくる子どもに、またその子どもたちへと、いのちは次々に受け渡されていきます。
この意味で「一人は全世界」なのです。人間存在をいのちの連鎖として見る。これが聖書の感覚であります。
さて、「主の祈り」を講解説教しています。本日は、
「われらの日用の糧を今日も与え給え」
新共同訳は「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」 ルカ11章3節
マタイですと、
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」です。
日ごとの糧は、生きるためです。今日一日を生きる。その食物を神が与えてくださる。だからそのように祈り、自分からあくせくして煩うことはないのだ。それがこの祈りの意味であります。
食はいのちを養います。食べるものがないと、いのちを損ない、活動のエネルギーが消滅してしまいます。子どもは成長段階で必要かつ充分な栄養を含んだ食事を与えないと、大人としての成長が妨げられると言われます。脳においてもそうです。食べることは人間の基本的な欲望の一つであり、これにまさる生きる意欲はありません。
そういう点では、アフリカやアジア、中南米のいくつかの国では、飢餓が襲い、今日の食物もなく衰えていく子どもたちが大勢います。南北間の食物格差が地球大の大きな問題であると言われています。
同時に食の問題は農業とも相関関係を持っています。栃木県の西那須野教会に在任していましたが、アジア学院が近くにあり、アジアとアフリカの留学生が礼拝に出席していました。彼らは、農業の指導者として訓練を受けています。そこには、食と農業の関係を学びます。それは環境の問題でもあります。有機農業で作られた食の問題です。化学肥料を使った農業による食は、体に害を与えることが分かっています。土壌を痛め、傷つけ、ついには環境問題に発達するのです。農薬がそうです。有害な農薬を使用することで、土地が傷つきます。
熊本・水俣病におけるチッソ、富山、新潟における「イタイイタイ病」などの公害問題が起こりました。これなどは、農薬が人間の体だけでなく、自然環境に与える大きなダメージ(損傷)を広く世論に訴えました。
神の御手によって創造された世界が、人間が作った化合物、科学によって冒されているです。そのような現象、状況がこれからも押し寄せてくるでしょう。原子力発電の問題(いわゆる「原発」)、遺伝子操作による人間自身が行ういのちの操作(クローン羊、ドリー)、試験管ベビー(凍結した精子を子宮に移植し赤ちゃんが誕生、その子は誰の子なのかと言う問題など)生命倫理の問題など。
ですから、わたしたちが主の祈りを祈り、「日用の糧を今日も与えてください」と祈る時、そこには、食と農、自然環境と人間の開発、神の創造という拡がりを意識しながら、イメージ(想像)しながら祈り、神の恵みと愛のわざがすべての人たちに、地域に、そして地球と宇宙大にまで及ぶようにと祈ることでもあるのです。それはまさしく、わたしたちのいのちのことであり、未来のすべてのいのちを視野に入れた祈りでもあるのです。
そのことを先ず前提にして、この日用の糧について見てみましょう。糧はパンであり、ごはんです。
出エジプトをしたイスラエルの民は、荒野に40年間彷徨いました。その40年もの間、不毛の地でマナが降りてきました。天からのパンです。朝ごとにマナを取りに行きました。その日一日の食べ物でした。多くとった者も、少なく取った者も、一日満たされたとあります。そのことをイエス様はイメージされていたことだと思います。出エジプト記16章。
従って、主の祈りにおけるパンは以下のことが解釈されます。
1.文字通りの食べ物であると考えられます。いのちを養うものです。医食同源と言いますね。栄養ある食物をとることは、医療に先立つのです。健康のために、長生きのために、医療費をかけないために、食物の知識は大切です。そして、必要な食べ物を神は与えてくださるのです。
2.それは、神の言葉というわたしたちの信仰を養う霊の糧でもあります。
肉体の栄養物だけでは、人は生きていけません。人間の心と魂を養う食物としての聖書、神の言葉が必要なのです。
「人はパンのみにて生きるにあらず。人は神の口よりいずる言葉によって生きるなり」なのです。讃美歌 187番に、こうあります。先ほど賛美いたしました。
「主よ、いのちの ことばを あたえたまえ わが身に。
われはもとむ ひたすら 主よりたもう みかてを。
ガリラヤにて みかてを わけたまいし わが主よ
いまも 活ける ことばを あたえたまえ ゆたかに」
3.パンは主イエス様ご自身でもあります。ヨハネ6章33節
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」
活けるいのちのパンであるイエス様に養われる。それは、聖餐でもあります。イエス様の体であるパン、血潮である杯をいただくのです。
わたしたちは、イエス・キリストを食べることで、霊のいのちをいただくのです。
イエス・キリストのいのちを食べるのです。
これがキリスト教における信仰の奥義でもあります。
パンはいのちを養い、永らえさせ、生きるために必要な力であります。それなしには、何ものも生きていけないのです。そして、同時にわたしたちはただ食べて、寝て、生きているのではありません。生きる意味があるのです。これが信仰です。生きることに意味を与えられるのは主イエス・キリストによってなのだということです。
本日から受難週に入りました。木曜日、イエス様は弟子たちの足を洗われます。その後、最後の晩餐となり、弟子たちと夕食をとられます。その時のイエス様の言葉は、マタイ、マルコ、ルカに記されています。マタイですと26章26節以下です。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
わたしたちは聖餐式の度に、イエス様のからだであるパンと十字架で流された血潮であるぶどうの杯をいただきます。パンもぶどうの杯も物質にすぎません。しかし、信仰によってこれがキリストのからだと血潮であると信じていただくのです。それが信仰の象徴行為であります。これによって、イエス様の霊である聖霊がわたしたちを強め、清め、いのちをいただくことにより、こころと霊の深みにおいてキリストを形作るようにしてくださるのです。
はじめにマイモニデスの言葉を紹介しました。もう一度、思い出してください。こうです。「一人を救う者は全世界を救うのである。一人を殺す者は、全世界を殺すのである」と。
イエス様は、十字架で死ぬことによって、すべての人を生かし、いのちを与えたのです。これが神が世々に亘って隠された神の計画、奥義です。キリストの十字架と復活により明らかにされたのです。
そのイエス・キリスト様のいのちをいただいて、わたしたちは生きているのです。生かされているのです。そこに感謝、まことの知識、喜び、平安、平和があります。
祈りましょう。
主イエスの父なる神、あなたの栄光が現されますように。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時、いつも神は肉体を養う食物をも与えてくださっておられること、同時に、心と魂、霊の糧である神の言葉と主イエスの命が与えられていることを感謝いたします。しかし、世界にはなお今日の肉体を養う食べ物がない多くの人がいて、飢えています。同じように、肉体を養う食べ物に飽きるほど満たされていながら、心と魂と霊が飢え乾き、愛が欠乏しているより多くの人たちがいます。
主の十字架がそれらのすべての人に示され、あなたの栄光に満たしてくださいcf