投稿者: 三輪大

 

2024年4月7日

「主イエスの友となる」

仙台青葉壮教会牧師 野々川康弘

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今日は新年度最初の礼拝です。なので、2024年度の標語に沿った聖書箇所から、メッセージを取り次がせて頂きます。

今日の箇所の中心聖句は、ヨハネによる福音書15章15節です。そこを見ますと、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」そう記されています。

 このヨハネによる福音書15章15節は、主イエスが言われた言葉です。此処で主イエスが言われたこと、それは「わたしは父から聞いたことすべてをわたしたちに知らせた。だからあなたがたは自分の友である。」そういうことです。

此処でいう友とは、14節が言っている通り、主イエスが命じていることを行う人のことです。そういう人が、主イエスの友なのです。じゃあ、主イエスが命じていることを行う人とは、一体どういう人なのでしょうか。それは、12節が言っている通り、主イエスが私たちを愛して下さったごとく、互いに愛し合う人です。では、12節が言っている愛とは、一体どういう愛なのでしょうか。それが記されているのが、13節です。そこを見ますと「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」そう記されています。

つまり、主イエスが私たちのために命を捨てて下さったように、主イエスや隣人のために、自分の命を捨てることが出来ること。それが、12節のいう愛です。

実は、「自分の命を捨てる愛で、人間を愛し、人間を救いにいきなさい。」そう主イエスは、父なる神から聴かされていたのです。別の言い方で言えば、「罪深い私たちが永遠に、神と、神を信じる人たちと、共に生きていけるようになるために、天より降って、この世で人間として生まれて、十字架に架かかって、私たちの罪の身代わりとなって死になさい。」そう、父なる神から言われていたのです。それを主イエスは実行して下さったのです。

皆さん、15節の「あなたがたに知らせた」というのは、ただ単にわたしたちに知識を与えたということではない。そうではなくて、知識、感情、意志を持って、私たちの罪の身代わりとなって死なれ、復活して、天に昇られ、聖霊を私たちに与えて下さったところまでが、15節が言っている「わたしたちに知らせた」という意味です。

主イエスが、御自分の命を父なる神に分け与えて、私たち人間にご自分の命を分け与えることを実行したことを、私たちは知らされたのです。それを知らされたということは、主イエスが、御自分の命を分け与えて下さった愛に応えて、実際に、自分の命を率先して分け与えて、主イエスや隣人に仕えていくということを実践していくことを意味しているのです。

そこで私たちが考えなければならないことがあるのです。それは、いつも自分の命を掴むために、神に祈ってはいないかということです。本来、キリスト者の生き方は、自分の命を捨てて、神と、神を信じる人たちと、永遠に共に生きていけるようにして下さった神に応えて、生きていくという生き方です。そうであるにも関わらず、私たちは自分の命を掴むために、「祈りのリスト」をもって、神に願い出てばかりいるのではないでしょうか。

祈りは大きく分けて4つの要素があります。それは、神を賛美すること。罪を告白すること。神に感謝すること。神に願い出ることです。

そういう意味では、自分の命を掴むために、神に願い出ることは、別に悪いことではありません。むしろ必要なことです。でも、神に願い出ることばかりに偏っていくならば、自分の命を分かち合って下さった主イエスに、応える生き方から遠のいていくのです。

自分の命を分かちあって下さった、主イエスの友となるということは、別の言葉でいうと、十字架に架かられた主イエスの友となるということは、願い求める以上に、主イエスの十字架に「聴く」姿勢の方向に、道が開かれていくはずなのです。

神の友となるためには、神に聴くという姿勢。それが必要不可欠なのです。じゃあ、「神に聴く」というのは、具体的には、どうすることなのでしょうか。それは沈黙するということです。沈黙する目的は、注意深く神の言葉を聴くためです。

自分の気持ちや信念は横に置いておき、聖書の言葉に耳を傾け、聖書の言葉を思い巡らすこと。それが神に聴くということです。

実は、祈りの本質は、神に聴くことなのです。そのことを、私たちは見失ってはいないでしょうか。一方的に、祈りのリストをもって、神に願い出てばかりいるとするならば、一方的に話すばかりで、独り言に過ぎません。独り言では、神との対話、神との交わりは成立しないのです。

サムエル記上の3章9節のように、「主よ、お話下さい。僕は聞いております。」そういった心で、いつも主の前に出ている人、神と対話をしようとしている人、そういう姿勢を持っている人こそ、神との友情を育もうとしている人です。

でも、罪深い私たちは、どうしても「神に聴く」以上に、祈りのリストをもって、神に願い出ることが多いのです。その理由は、私たちの内から沸き起こってくる不安。それを早く自分の内から取り去りたいからです。私たちは、神との友情を築いていくより、自分の苦しみから一刻も早く抜け出したいのです。

実は神の言葉を聴くということは、罪深い私たちは窮屈に思うのです。でも神の言葉は、私たちにとても優しいのです。例えば、モーセの10戒を守ることは、罪深い人間にとって、とても大変なことで息がつまる思いがします。でも、モーセの10戒は、限りなく私たちに優しい戒めなのです。モーセの十戒は

  • わたしをおいてほかに神があってはならない。
  • いかなる像も造ってはならない。
  • 主の名をみだりに唱えてはならない。
  • 安息日を心に留めて、これを聖別せよ。

その4つの神を愛する戒めと、

  • あなたの父母をうやまえ。
  • 殺してはならない。
  • 姦淫してはならない。
  • 盗んではならない。
  • 隣人に関して偽証してはならない。
  • 隣人の家を欲してはならない。

そういう6つの、隣人を愛する戒めで成り立っています。

トルストイは、「モーセの10戒を、完全に人間が守ることが出来たならば、この世に完全な御国が現れる。」そう言っています。でもそれがなかなか難しいのです。一筋縄ではいかないのです。何故でしょうか。それは、罪深い人間は、自分が何かを握りしめることばかり考えているからです。別の言葉で言うと、自分が何かを得ることばかりを考えているからです。でも全ての人間が、自分が何かを握りしめることから離れて、率先して、自分を分け与えることを考え始めたとすれば、人間が本当に安心して暮らしていくことが出来る天国がこの世に実現するのです。実はそんな世の中になった時、この世は自然とモーセの10戒を守っている状態になるのです。主イエスは律法を廃棄するためにこの世に来られたのではありません。主イエスは、律法を完成させるためにこの世に来られたのです。

モーセの10戒は、この世に天国が実現する祝福に与るための戒めなのです。

皆さん、神の祝福に与って生きていくためには、聖書に従っていく必要があるのです。そして、聖書に従って生きていくためには、隣人との関係の死や、自分の肉体の死に対する恐れから生じている、分かって欲しい、優しくして欲しい、認めて欲しい、理解して欲しい、そういう欲求から解放される必要性があるのです。

でも、誤解しないで下さい。そういう欲求を無くすことが、神の祝福に与り、生きていく秘訣ではありません。

むしろ、分かって欲しい、優しくして欲しい、認めて欲しい、理解して欲しいという欲求が、自分に満ちてしまうぐらい、隣人との関係の死や、自分の肉体の死に対する恐れが、自分の内にあるという事実。永遠の命を知らないという事実、もっというと、復活の命を知らないという事実。それが、主イエスが十字架で苦しんでまで、私たちを愛して下さっていることを知る財源なのです。それが、主イエスの十字架の愛に、私たちを引き寄せるのです。

つまり、私たちの内に、隣人との関係の死や、自分の肉体の死に対する恐れがあっても良いのです。自分の力で、それらを消し去ることが出来る程、神の命が宿った永遠の命を知っていたとすれば、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業は必要無かったのです。

私たちの隣人との関係の死や、自分の肉体の死に対する恐れは、主イエスの救いの御業という愛を、充分に受けるために、尊ばれ、愛されるべきものです。それらの恐れを、自分の内から締め出そうとしなくて良いのです。それらの恐れと、私たちが戦う必要はないのです。むしろ、それらの恐れを慈しんで、主イエスの十字架と出会わせてあげること。それが大切なのです。そうなってこそ、主イエスの十字架の愛が、心の奥深くまで浸透していくようになるのです。

一つの証を紹介させて頂きます。それはCNNというニュース局の上級幹部の証です。

彼は、CNNの記者達が、中東の状況をどう取材しているのかを確認するために、ベイルートに派遣されました。彼は、空港から車に乗り、ベイルートに向かう最中、途中で車を止めざるを得ませんでした。それは、50人~60人の黒装束の女性が、行進をしていて、車で通り抜けることが出来なかったからです。彼は車の中で、あの人たちは何をしているのか運転手に聴いたのです。すると運転手は、「彼女たちは、テロリストのハマスによって、拉致されていったキリスト者の夫たちのことを追悼(ついとう)して、行進しているのだ。」そう言ったのです。そのことを聴いた時、彼は、嫌な予感がしたのです。その嫌な予感が的中して、彼は3日後に、テロリストに拉致されました。ダマスカの地下の牢獄に、入れられたのです。彼は牢獄の中で、全く冷暖房もないところで、鎖につなぎとめられました。かがむような姿勢で、立つこともままならず、体が痛くなるような状況に置かれたのです。トイレに行かせてもらう以外、そういう姿勢のまま、鎖につなぎとめられていたのです。彼はそこで18カ月間、過ごすことになったのです。彼が牢獄に入れられた時、彼は無神論者で、神を全く信じていない人でした。しかし、生と死の狭間にあり、心が不安に満ちて、神を求めざるを得ず、彼は神に祈りはじめたのです。拉致されて、6カ月程たった頃、牢獄の見張りの人が、彼に対して非常に優しく、「あなたの望むものを一つあげますよ。」そう彼に言ったのです。その時、彼は、聖書が欲しいと申し出たのです。驚くことに、次の日に、ギデオンの聖書が渡されたのです。何故、彼が聖書を欲したのかというと、彼が無神論者だったので、どう祈ったら良いのか分からなかったからです。ある時、彼はマタイによる福音書5章を開いたのです。そこには弟子たちが、主イエスに対して、主よ、私たちがどうやって祈ったらよいのか教えて下さいと言ったことが記されていて、そこに主の祈りが記されていたのです。彼は、「これはまさに神の導きだ!」そう思ったのです。そして、彼は主の祈りを全部暗証したのです。そんな中、彼は牢獄でとうとうクリスマスを迎えることになったのです。その時、彼は、今自分が拉致されているダマスカスは、主イエスが生まれたベツレヘムから近い。主イエスの生まれたすぐ側に自分がいる。ベツレヘムで誕生した主イエスを、此処で自分が祝えるのは、なんと幸(しあわ)せなことであろうか。そう思って感謝に満ち溢れて、彼は涙を流したのです。もし、自分がシカゴにずっといたとすれば、こんな経験をすることはなかった。主イエスを信じるなんてことはなかった。そう彼が思った時、拉致されたことを神に感謝します。そう彼は思わず口にしていたのです。

牢獄で、とうとうクリスマスを迎えることになった時、彼に小さなケーキと、蝋燭が与えられたのです。彼の誕生日は12月26日でした。ですから彼は、このケーキは、あなたの誕生を祝うケーキでしょうか、それとも私の誕生を祝うケーキでしょうか。そう神に祈ったのです。その時に彼が神に示されたことは、このケーキは、両方の誕生日を祝うケーキだということだったのです。そのことが示された時、彼は、死を恐れていたはずの牢獄生活が、もっと長く続けば良いのに。そう思ったのです。彼は、死を恐れていたはずの牢獄生活が、神に繋がれている牢獄に思えて、牢獄生活が愛しく感じるようになっていたのです。彼は、拉致から解放された後、その牢獄生活のことを、アメリカでいろいろな所で証して回る程、神を畏怖するキリスト者に変えられたのです。

皆さん、CNNニュース局の上級幹部だった人は、自分の苦しみ、つまり、自分が死ぬ恐れ。それが取り除かれることを最初は願っていたのです。自分が死ぬかもしれないという苦しみが、主に繋がれている祝福と思い、感謝する祈りに変えられていったのです。その結果、しっかり復活の命に繋がれて、今では豊かに主イエスの十字架を宣べ伝える人となっているのです。

罪深い人間は、すぐに神の友らしい、自分の命を分け与えていく生き方は出来ません。でもそれで良いのです。主イエスが、いつも自分の保身ばかり、考える祈りをも用いて、自分の命を積極的に分かち合っていけるように導いて下さるのです。

私たちが自分の命を積極的に分かち合っていくように導かれた時に、自分を分け与えて下さった主イエスの十字架の愛を、とても豊かに宣べ伝えていくことが出来るようになるのです。

今年度、隣人との関係の死や、自分の肉体の死に対する恐れは、主イエスの十字架の愛を深く知る財源であることを心に留めて、隣人との関係の死や、自分の肉体の死に対する恐れを自分の中から排除しようとせず、神の命が分け与えられている自分を愛し、隣人を愛し、いつも主イエスの十字架の和解の命、別の言葉で言えば、永遠に繋がっていく命に生かされている姿を、証していくことが出来るように、皆さんと共に歩んでいければと心から願っています。

最後に、一言お祈りさせて頂きます。