投稿者: 三輪大

 

024年1月21日 降誕節第4主日礼拝2

2024.0121.Syuuhou

聖 書  マルコによる福音書5章21~34節

説 教  匿名の信仰

1.神の関心事は、人間である

 わたしたちはかぎられた時間の中で生きています。人生は長くもあり、短くもありです。

意義ある人生を送るために、日記をつけます。一日の反省をし、振り返ります。今日の喜び、人との出会い、希望、神への信仰、感謝を明日に繋げます。人生は連続しているからです。

日記をつけるという習慣を、わたしは高校の時から持っています。40年以上の習慣です。

一日のスケジュール、人生のスケジュールを決めるに際して、まずすることは、優先順位の確定です。これを確定し、それを重点的に行なうと、一日は充実したものとなります。

それを行わない時には、空しい一日と言えるでしょう。

 優先順位を決めるには、仕事やわざの優先、つまり責任の軽重、実行するに当たっての難易度(すぐにできるか、時間がかかるか、容易か、難しいか)があります。

 牧師としての第一番目は、朝の聖書と祈りです。1時間たっぷりと用います。これがないと、一日が虚しく終わるように感じます。確保すべき、第一の仕事です。第二、第三と続くのですが、皆さんはいかがでしょうか? 

 

 マザー・テレサ。彼女はインドで死に行く人たちを介抱し、お世話をしましたが、その力は早朝のミサにあると言いました。ミサで受ける朝ごとの神の愛と恵みによって、今日一日の力が与えられる。

 余談ですが、クリスチャンの力はこの祈りと礼拝によると信じています。デボーションと呼ばれるものですが、聖書と祈り、讃美による密室の礼拝です。神とわたしとの祈り、会話です。

 

 さて優先順位のことを申しますと、神様はどうなんだろう? そんなことを考えます。

優先順位をつけることは、物事の価値を弁え、軽重を理解しています。それが前提にあります。その関心事、興味の順位ということです。

 神の関心事は、人間であるということ。これは真理です。聖書は、はじめから終わりまで、「神の最大の関心事は人間であるのだ」と読む人たちに訴えています。それは、同時にわたしたち人間もその最大の関心事は、神であるということではないでしょうか?

神を知ることこそが、人間の最大の優先事項であると思います。神もまた、人間こそが最大の関心事であり、そこに全宇宙のすべてがかかっているといっても過言ではないと思うのです。

 2.神の優先順位

 本日の聖書を読んでいきますと、神の優先順位というものがどういうことであるか分かります。

 それは、一言で申しますと、こういうことでしょう。すなわち、

「神が最優先される優先順位は、人間に対する愛、救い、助け、癒しである」ということです。それは、弱っている人、助けを求めている人、苦しんでいる人、病んでいる人、そして差別されている人、疎外されている人、権利を主張できない人。そういう社会的弱者であると言えるでしょう。

 本日の聖書は、二つの癒しの記事が続いています。最初は、22節「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て」とあります。イエス様を見ると足もとにひれ伏してしきりに願ったのです。何をか。23節「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」

 

 同じ並行記事で、マタイ9章では死んでしまったが、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言うのです。なんという信仰でしょうか。死んだ娘が生き返ることを信じているのです。

 この聖書の箇所は、ヤイロの娘のよみがえりの記事なのです。これは、イスラエルでは有力な地位の人であります。その指導者がイエス様のところに来て、ひれふして要請するのです。普通ならありえないことです。しかも、娘は亡くなったのです。そして、手を置いてやれば、生き返ることを信じています。その熱意と信仰に、イエス様はヤイロと一緒に出かけて行かれるのです。

この娘は12歳くらいだとルカでは記されています。小学6年生から中学1年にかけての年頃です。これからという時です。いたいけな娘が死にそうである。父親は気が気ではないでしょう。生きるか死ぬかという大事な時、一刻も猶予はならない。「早くして!」という父親の叫びと祈りの声が聞こえてきそうです。

 そんなところで、長血の女が現れます。25節「さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果しても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。

27節 その女性がイエス様のことを聞いて、「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」とあります。

28節「この方の服にでも触れさえすれば治してもらえる」と思ったのです。

ここから大事なことが記されています。読んでみましょう。マルコ5章29~30節です。

「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいて・・・」とあります。

「自分の内から力が出ていく」とは、どういうことでしょうか? 

そこには、イエス様がご自身で人を癒される聖書の箇所は、たくさんあります。その時でも、イエス様の内から力が出て行くことを経験されたでしょう。イエス様は神の子ですが、肉体をもってこられたゆえに、無限に力があるわけではありません。限界があるのです。疲れを覚えられるのです。ここでは、力が出て行くとあります。 

そして、力が出て行ったのは、そこに信仰をもってイエス様に触れたからです。群衆がそばに集まっていますので、無意識に触れたり、偶然触られたりすることもあるでしょう。

21節「大勢の群衆がそばに集まって来た」

24節「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた」のです。そこでは触れ合う、ぶつかることもあるのです。しかし、この女性は、故意に触れたのです。「この方の服に触れればいやしていただける」と思ったのです。

そこでイエス様は30節「群衆の中で振り返り、わたしの服に触れたのはだれか」と尋ねられるのです。弟子たちは、言います。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。」これが常識です。

東京の渋谷や新宿の人通りの多いところでは、触れ合う、ぶつかるなど日常茶飯事です。

イエス様はそれでも、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられたのです。

 33節以下。女性は名乗りをあげます。

34節

 今日の説教題は、「匿名の信仰」と題しました。信仰は、匿名ではないのです。名前を隠すことではないのです。隠れクリスチャンではない。偶然です。たまたま触れたのです、ではないのです。イエス様は人格を求められるのです。そういう宣言をイエス様は求めておられるのです。名乗りをあげる信仰です。つまり、信仰告白です。わたしは信じます。信じて触れました。

 

3.待たされた人

 今、どういう状況にあるのでしょうか? かたや、12歳の娘が死にかけている。父親は、気が気ではありません。

「早く、行きましょう。一刻も無駄にしたくない。どうして、こんな女性のことで、手間取っているのですか?」 

そんな父親の息遣いが聞こえてきそうです。

かたや、12年間出血がやまないで、人生に疲れ、憂え、悩み、絶望している。その女性の悲鳴が聞こえてきそうです。

「何とかしてください! 神様!」

35節以下では、

会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」

 父親の哀しみ、苦しみは察するに余りありません。「そら見たことか。こんな女に構っているから、一刻一秒を争っているのに、のんびりして・・・わたしの娘が死んでしまったではないか」

 張り裂けんばかりの胸の内を爆発させたことでしょう。

イエス様もことば。36節

「恐れることはない。ただ信じなさい。」イエス様の余裕でしょうか。神の子イエス様の本質がここにあります。

 娘は生き返るのです。41節ですね。「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい」

キリストがおられるところに、命がある。死はない。光があり、闇はない。

わたしたちの周囲には、そのような苦しみを持っている人が数え切れないほどにいます。毎日、病院に行けば、長時間診察を待つ患者の群れ。人生のほとんどを心の病にかかっている人。イスラエルとガザの紛争。毎日、イスラエルはガザを攻撃し、女性と子どもたちが死んでいる。ロシアはウクライナを攻撃し、街を破壊しています。能登の地震では、多くの被災者があり、水も食料も不足しています。

今日の聖書で、イエス様は優先順位を持たれているでしょうか? こっちが金持ちだから、先だ。若い娘だから先だ。お金がないから、後回しにしましょう。歳とっているから、あとでね。そういうことではありません。

ウイリアム・バークレーという聖書学者は、ここのところでこのように言っています。

イエス・キリストは、「天のすべての力を一人のために」使われたと。

 

 出血の女性は、予定外のことです。本来ですと、真っ先に少女のところに行かれるべきでしょう。脇目も触れずに。それは急を要することです。しかし、イエス様にとって、途中の出来事であっても、予定外のことであっても、それを軽々に取り扱われない。

「また後でね。すぐ戻ってくるから」ではないのです。

出遭われる一人一人に、イエス様はご自身の全人格を注ぎだされる。脇に追いやられるのではない。ついでに、ではない。常に第一のこととして取り扱われる。

何と心強いことでしょう。

 4.愛、救い、助け

 自己を十字架の死に追いやられても、求める人に愛と救いと助けを行われるイエス様の働き。この方がわたしたちの主イエス・キリストです。

 人の思い        を超えて、神のみわざは貴くなされるのです。ここに神の愛があります。イエス様は、一人一人をそのように取り扱われます。あなたが社会的に重要だからではない。社会的に人から見向きもされなくても、主イエスはあなたを大切にそして、懇ろに取り扱われる。傷の一つひとつを瞬時にいやし、回復に導き、しかも復活の命と生きる希望に満たしてくださる。

 

 病院で娘が怪我をして、順番を待っていました。1時間くらい待っていた。今度、診察だなあと思っていると、救急車が駆けつけ、急患が運び込まれた。医者はそちらに診察し、娘の診察がキャンセルになった。そういうことがありました。やむをえないことです。

神の国では、そういうことはありません。

 神は一人一人に丁寧に応じてくださいます。信じましょう。