投稿者: 三輪大
2024年6月2日仙台青葉荘教会礼拝
使徒言行録2章22節-36節
「死は希望なり」
今日は、主イエスの復活を中心に、皆さんと共に学んでいければと思っています。使徒たちが宣べ伝えたことは、主イエスの復活です。つまり教会は、主イエスの復活を信じるようになった人たちの群れなのです。
主イエスの復活は、教会信仰の一部ではありません。教会信仰の中心であり要なのです。だから、週の終わりの土曜日ではなくて、週の初めの日曜日に、教会は礼拝を行っているのです。それは日曜日が、主イエスの復活記念日だからです。
主イエスは日曜日の朝に復活したのです。だから教会は、その日を「主日」と呼んで、その日に集まって礼拝をしているのです。
キリスト教はかつて、度重なる迫害を受けたにもかかわらず、ローマ帝国全域に広まっていきました。だからローマ皇帝は、キリスト教会を無視できなくなったのです。
そのためローマ皇帝は、「ローマの統治に、キリスト教会を利用した方がよい。」そう考えて、ローマ帝国の宗教に定めたのです。その結果、紀元4世紀に、日曜日が休日と定められるようになったのです。
つまり教会は、日曜日が休日だから日曜日に礼拝をしているのではないのです。教会が日曜日に主イエスの復活を祝う礼拝を守っていたからこそ、それに合わせて日曜日が休日になったのです。それが日曜休日の歴史なのです。
前回も触れたことですが、2章14節-23節は、主に、主イエスの十字架のことが語られていました。今日の箇所では、主に、主イエスの復活のことを語っています。
ペトロは24節で、「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」そう述べています。この24節で、しっかりおさえておかなければならないのは、「父なる神が、主イエスを復活された」ということです。復活は一旦死んでしまった主イエスが、御自分の力でもう一度生き返ったという出来事ではないのです。そうではなくて、父なる神が、主イエスを復活させた出来事なのです。それが意味していることは一体何でしょうか。
それは復活という出来事は、十字架で実現した神の救いの御計画の続きということです。
主イエスの十字架の死を、私たちの罪の身代わりの死とする。それが神の御計画でした。でも神の御計画は、それで全てが完成というわけではなかったのです。
主イエスの十字架の死が、罪の赦しの出来事であったことが、父なる神が主イエスを復活させたことで、明確になったのです。
もし主イエスが十字架で死んだだけで、復活が無かったとしたら、罪の赦しは主イエスの死の一つの解釈にすぎなかったのです。主イエスの復活がなければ、主イエスが十字架で死んだのは、ただ死刑になって殺された。そう解釈することも出来たのです。
でも父なる神が、主イエスを復活させたことにより、主イエスの十字架の死がただの死ではなく、私たちの罪を背負って死なれたということが明確になったのです。
主イエスの十字架の死が、私たちの罪の赦しのための死であったとすれば、新しく生きはじめるということが、当然起こってくることを意味します。その理由は、罪が赦されるということは、父なる神と私たちの関係が回復することを意味するからです。決裂していた関係が修復されるということは、当然その後の歩みが生まれ変わることを意味するのです。
神から離れて、神を無視して、自分の思いによって生きていた私たちが、神に従って、神と向き合って、神と共に生きる歩みに生まれ変わるのです。というか、生まれ変わってしまうのです。
それは、心機一転をして、新しくやり直すということではありません。そうではなくて、神に新しい歩みが与えられてしまうのです。
主イエスと向き合って生きるようになった人は、別の言葉で言うと、主イエスと結びついて生きるようになった人は、主イエスがそうであったように、死を超えた新しい命が与えられてしまうのです。
御子主イエスの復活は、御子とされた私たちが、復活の体と、新しい命が与えられる先駈けの出来事だったのです。
主イエスの復活があって初めて、十字架の救いの御計画は貫徹されるのです。神の御計画であった十字架は、復活へと必然的につながっているのです。
ペトロはそのことを25節-28節で、旧約聖書詩編16編8節以下を引用して示しています。ペトロは、「詩編16編を謳った人は、「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」「わたしの体も希望のうちに生きるであろう。」「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」そう謳っていた。実は、詩編16編の「わたし」という言葉は、ダビデのことではなく、主イエスのことである。詩編16篇を謳った詩人は、主イエスが、主なる神によって、死の力から解放されて、復活の命に生きる新しい体が与えられることを預言していたのだ。」そう自分の説教で語ったのです。
詩編16篇の詩人が、主イエスの預言をしていた証拠として、ペトロは29節―31節を通して、「ダビデは既に死んで、その墓がある。だから詩編16編に出てきている「わたし」は、ダビデのことではない。」そう述べたのです。
そんなペトロは、32節の「神はこのイエスを復活させられたのです」という言葉を通して、主イエスの復活は詩編16編で歌われていた、神の御計画の実現だったということを主張しているのです。
神の御計画によって、父なる神に復活させられた主イエスは、1章9節で述べられていた通り天に昇られました。「そのこともまた、既に神の御計画の中にあった。」そうペトロは、34節-35節を通して主張しているのです。
34節-35節は、旧約聖書詩編110編1節からの引用です。ペトロは詩編110編1節を引用して、「ダビデが「わたしの主」そう呼んでいる救い主、主イエスが、神の御心によって、神の右の座に着いた。」そう主張したのです。
真に主イエスが天に昇られたのは、神の御計画の実現のためでした。
主イエスは神の御計画が実現するために、33節前半に記されていた通り、父なる神の右に上げられて全能の父なる神の右に座したのです。
そんな主イエスは、33節後半に記されている通り、父なる神から聖霊を受けて、それを弟子たちに注いで下さったのです。それがペンテコステの日に起こったことなのです。
つまりペトロは、「主イエスの十字架に続いて、主イエスの復活も、主イエスの昇天も、ダビデが謳った詩の中に、神の御計画として既に語られていた。」そう主張したのです。
つまり、主イエスの十字架・復活・昇天による聖霊降臨は、全て、私たちの救いのための神の御計画の一環であったということです。
昇天による聖霊降臨は、主イエスの十字架・復活と、分ち難く結びついているのです。父なる神は、主イエスの十字架・復活・昇天という全ての御業を通して、私たちを完全な救いに導き入れて下さったのです。
主イエスの十字架は信仰義認のことです。その信仰義認は、原罪からの解放という過去の救いのことです。主イエスの昇天は、聖霊の働きによる現在進行形の救いの聖化・神癒のことです。そして、主イエス復活は、死後の体の復活の保証である未来の救いのことです。
つまり、過去・現在・未来の完全な救いを得るためには、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じて、聖霊に自分を委ねて、歩んでいく必要があるということです。
でも、それがなかなか簡単にはいかない。だからこそ罪人なのです。罪人である私たちは、自分を神に明け渡すことなく自分の力で生きてしまうのです。その結果、自分の過去の過ちに囚われて生きていたり、自分の未来の心配に囚われて生きていたりしてしまっているのです。
なかなか、神の過去-未来までの救いを信じきれていないが故に、今この時を生きることができないのです。それ程、自分自身の肩に力を入れて、自分の力で生きてしまっているのです。
自分自身の肩に力を入れて、自分で生きてしまっていることが、神に背を向けている何よりの証拠です。神不在で今を歩んでしまっている証拠なのです。神不在で今を生きている人のことを、聖書は罪人というのです。
神不在で生きる罪のことを、原罪と言います。でも、人間の原罪を神は用いて、主イエスの十字架・復活・昇天の御業に出会わせて、完全な救いの中に導き入れられていれられるのです。その神の御計画は、救いの業を創造した父なる神と、救いを実行した主イエスと、救った者を絶えず神の元に引き戻す聖霊の聖霊降臨により既に完成しているのです。
救いは既に完成しているのです。つまり、罪という牢獄から、脱出するための門の鍵は既に開かれている。後は罪という牢獄から出てきて、三位一体の神と共に歩むだけで、私たちは罪の牢獄から解放されるのです。
そのことをペトロはイスラエルの人たちに、つまり、教会に属する人たちに知らせたかったのです。だから36節で、「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」そう述べたのです。
でも、先程も申し上げました通り、私たちはたとえ信仰を持っていたとしても、すぐに道を踏み外して、主イエスを十字架につけて殺してしまうほどの罪に捕えられて、日々生きています。
いつも神に背を向けているが故に、隣人にも背を向けて、隣人を傷つけながら生きてしまっているのです。でも、そういう私たちの現実が、神の御計画であった、救いの創造をされた父なる神、救いの実行をされた主イエス、救った者を、絶えず神の元に引き戻す聖霊の聖霊降臨という三位一体の神の救い。それを完成させたのです。だから私たちは、父・子・聖霊の三位一体の神と向き合って、生きることが出来るようになったのです。三位一体の神と向き合って生きるようになった私たちは、「われわれに似せて人間を造った。」そう神がおっしゃった通り、別の言葉で言えば、父・子・聖霊の交わりに似せて人間を造ったと神がおっしゃった通り、三位一体の神・自分・隣人の三位一体の交わりを形成して、生きていく道が切り開かれているのです。つまり、神を愛し隣人を愛していく新しい命の世界に生きて行く道が切り開かれているのです。
そうはいっても、神を愛し隣人を愛していくことが、とても難しいのです。その理由は、この世の現実は、罪の力に支配されてしまっているからです。だからこそ、罪の力に翻弄されて罪が生み出てしまうのです。
その証拠に罪深い私たちは、自分が人に分かってもらえない悲しさを憎しみに変換して、憎しみを人にぶつけることがあります。その時、憎しみをぶつけられた人は、自分が認められていない悲しさから、憎しみをぶつけてきた相手に倍返しの憎しみをぶつけるのです。つまり、憎しみが憎しみを増幅させていく悪循環の中に、私たちは取り込まれてしまう現実があるのです。
自分を分かってもらうことを、自分の心の中心に据える罪の支配の前で私たちは無力です。それだけではありません。私たちは死の力の前でも無力です。生きている者はいつか必ず死にます。それを免れることは出来ません。死のことを更に広げて言うならば、この世で自分の生き方を邪魔してくる人があろうものならば、その人を嫌って、その人との関係の死を選ぶような罪人が私たち人間です。私たちは恐ろしい程までに、罪と死の力に支配されて生きているのです。それが現実です。
でも教会はその現実のただ中で、主イエスの復活を、毎週、週の初めの朝に祝っているのです。毎週、週の初めの朝に、復活の宣言を受けて歩んでいるのです。
つまり、週の一番初めの朝に、主イエスの復活を心に刻み込んで、一週間生きることが出来るように、私たちは自分の霊性を整えているのです。
つまり、礼拝によって私たちは守られているのです。礼拝は守るためにあるものではないのです。礼拝によって守られるために礼拝はあるのです。そんな礼拝に参加出来ているのは、三位一体の神の呼びかけがあるからです。
三位一体の神は、罪や死に支配されて関係の断絶に向かっていく私たちが、父・子・聖霊の交わりの似姿通り、神・隣人・自分の交わりに生きて、三位一体の神の交わりの栄光が、私たちに現れるようになるために、毎週日曜日に、私たちを教会に招いて下さっているのです。
神を愛し隣人を愛していくことは、罪深い人間の力では不可能です。罪深い私たちは神との関係の断絶、隣人との関係の断絶が大好きなのです。自分で自分を守ることが大好きなのです。自分が守られないと思う場合、神や隣人を切り捨てていくことが大好きなのです。そんな私たちが神を愛し、隣人を愛して生きることが出来るようになるためには、主イエスの十字架・復活・昇天の救いが自分のものになって、三位一体の神と向き合うようになり、三位一体の形を取り戻さない限り無理なのです。
では、主イエスの十字架・復活・昇天の救いが、自分のものになるためにはどうしたら良いのでしょうか。それは、神に聖霊の働きを求めて祈ることです。「あなたが、罪と死の力に勝利していることを、信仰の目によって見つめさせて下さい。」そう祈り求めていくことだけです。
そのことを真剣に祈り求めていくとすれば、ペンテコステの日に弟子たちに降った聖霊が、私たちにも必ず注がれて信仰が与えられて、主イエスの十字架に続いている復活という救いを、腑に落ちて分かるようにして下さるのです。
私たちのこの世の現実は、私たちの罪に溢れて色々な悲惨な出来事が起こっていて、苦しみや悲しみが支配しています。でもその罪の全てを神は用いて、主イエスの十字架・復活・昇天の救いに与る祝福に、私たちを入れて下さるのです。その神の摂理を信じるところにこそ、動かざること山のごとしのような、不動な神の安きが与えられるようになるのです。
主イエスの十字架の死によって、罪の力は既に滅ぼされています。主イエスの復活によって、死の力は既に滅ぼされています。主イエスの昇天によって、罪深く弱い私たちに、聖霊が与えられています。
私たちは神のそういう救いの御業によって、新しく生きることが出来る道が開かれているのです。暗い罪と死の牢獄の門は、主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって、既に開かれています。そのことを信じるならば、勇気を持って、住み慣れて居心地が良くなっている暗い罪と死の牢獄から、住み慣れていない光の元に出てきて、罪や死の力と戦っていける力が与えられていくようになるのです。
その力が与えられるように、主イエスの復活を毎週日曜日に喜び祝うのです。毎週日曜日、復活の宣言を受けている私たちであれば、まるでダルマのように何度転んだとしても、果敢に、永遠に神と隣人との関りに生き続ける歩み、永遠に神と隣人を愛していく歩み、それにチャレンジしていくことが出来るようになるのです。
私たちの自我の死、私たちの体の死は、悲しみではなくて、永遠に、神と隣人を愛しぬいていける希望なのです。
そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいけたらと思います。
最後に一言お祈りさせて頂きます。