投稿者: 三輪大
2024年6月30日仙台青葉荘教会礼拝
コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章14節b―18節
「聖化」
今日は、皆さんと聖化を共に学びたいと思います。
今日の17節で、パウロは、「ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」そう述べています。
何故突然、主イエスのことではなくて聖霊のことを、パウロは述べ始めたのでしょうか。
その理由は、復活した主イエスが、天に昇られて以降、聖霊によってこそ、主イエスの救いを信じることが出来るようになっていることを、はっきり意識していたからです。
だから17節後半で、「主の霊のおられるところに自由があります」そうパウロは述べたのです。
聖霊がおられるところに自由があることを知るためには、自分たちの罪とは一体何か。それをはっきり知る必要があります。
ですからそのことを、深く掘り下げて考えてみたいと思います。
以前にも申し上げました。キリスト教会には、西方教会と東方教会があります。
西方教会とは、カソリック教会や、プロテスタント教会のことです。東方教会とは、ローマ正教会や、ロシア正教会や、ギリシャ正教会などのことです。
ホーリネスの源泉になっているジョン・ウエスレーは、西方教会と東方教会の神学に精通していました。
その証拠に、ウエスレーは、東方教会を代表するカパドキアの3教父の内の一人、ニュッサのグレゴリウスの本の影響をとても深く受けています。
実は、西方教会と、東方教会の救済理解は違っています。
西方教会は、人間は理性を含めて完全に堕落した状態にある。そこからの救いは、主イエスの十字架の贖いである。そういう理解です。実はその理解は、ヒッポのアウグステュヌスの聖書理解から派生しています。
その一方で東方教会は、人類に罪が入って以来、本来の三位一体の神の像(イマゴ・デイ)が、壊れた状態になっている。その三位一体の神の像の回復が神の救済である。そういう理解です。
西方教会が、法的な救済を説いているのに対して、東方教会は、三位一体の神の像に、私たちが日々似る者になっていくことが神の救済なのです。
ジュン・ウエスレーは、救済は、ヒッポのアウグスティヌスの立場をとっています。つまり、彼の救済理解は、法的な救済理解なのです。
でも有名な、「キリスト者の完全」という彼の本の中で、彼はこう語っています。「神が与えてくださるこの偉大な贈り物、すなわち私たちの魂の救いは、私たちの心に三位一体の神の像、つまり(イマゴ・デイ)が新たに刻印されることに他ならない」
実はこれは、東方教会を代表するカパドキヤの三教父の一人、ニュッサのグレゴリウスから来ています。
実は、ジュン・ウエスレーが一番最初に、キリスト者の完全を説いたのではなくて、グレゴリウスが、「キリスト者の完全」を説いたのです。
ジョン・ウエスレーは、グレゴリウスの影響を受けて、人間の堕落によって失われた三位一体の神の像の回復(イマゴ・デイの回復)それを救済そのものとは位置付けずに、救済の印と見ていたのです。
イヌマヌエル教団の指導者である藤本満先生は、「三位一体の神の像の回復」がジョン・ウエスレーの聖化の中心になっている。そう言っています。
その証拠に、先生が書いた「ウエスレーの神学」という本の中の「聖化の神学」という項目の中に、こういう記述がありあす。
「かつて三位一体の神の像を刻まれた人間が、恵みによっていかにその像を回復し、その神的運命を完成させるか。それがウエスレー神学の中心的課題であった。」
つまり、ジョン・ウエスレーが救済の印である聖化を、三位一体の神の像の回復としたのは、東方教会の救済理解の影響を受けてのことなのです。
三位一体の神の像の回復が神の救済の印であるという考え方は、確かに聖書的です。創世記1章26節を見ますと、「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」」そう記されています。神は御自分のことを、「我々」と複数形で言われているのです。確かに、アダムとエバが罪を犯して以来、父・子・聖霊の愛の交わり共同体に似たものとして、三位一体の神・アダム・エバという愛の交わり共同体として歩んでいた人間の形が崩れたのです。人類に罪が入って以来、神や隣人との関係が断絶してしまったのです。神の救済は、そんな人間が、父・子・聖霊が愛の交わり共同体であるように、三位一体の神・自分・隣人の愛の交わり共同体に回復していくことも含まれるのです。
今日の18節は、まさに三位一体の神の像の回復が、神の救済の印であることを、言及している箇所であると言っても良いと思います。
でも何故、ジョン・ウエスレーは、東方教会の神の救済理解を、神に救済された印としての聖化と見たのでしょうか。
それは、「もう救われているのだから何をしても良い。」そう考えて、怠惰な生活をしていた人たちに対して、疑問を抱いていたからです。
しかし、西方教会の法的救済理解と、東方教会の三位一体の神の像の回復(イマゴデイの回復)という救済理解は真逆です。どうして真逆なのでしょうか。
それは、法的な救済理解は1回限りで過去から未来まで、救済されることを意味するからです。これは、神側の視点から見た救済観です。でも、三位一体の神の像の回復という救済理解は、スタートの時点から人生の最後まで、キリストを探求していく人が救われる。そういう救済理解になります。その救済理解は、神に救済された人間側の変化に着目した救済理解であり、一回限りの救済と反比例した救済理解なのです。
でもジョン・ウエスレーはあえて、神の救済は法的救済という立場に立ち、東方教会の救済理解を、神の救済に与った印としての聖化として取り入れたのです。
その理由は先程申し上げました通り、ジョン・ウエスレーが静止主義(一度救われたら何をしても救われる。)の思想の持ち主たちと戦っていたためです。
それはそうと、ここでとても大切になることがあります。それは、三位一体の愛の交わり共同体という神の像の回復とは、一体どういう意味なのかということです。それが分からなければ、ジョン・ウエスレーの聖化はチンプンカンプンです。
なので、そのことを知るために、まずは三位一体の神とは何か。そのことを皆さんと共に学びたいと思います。
実は、三位一体という言葉は、ラテン教父テルトゥリアヌスが発明した言葉です。聖書には三位一体という言葉は何処にも出てきません。
三位一体の神とは、世界教会会議で決定に至った、ニカイヤ信条、使徒信条、カルケドン信条を経て、「三つの人格、一つの実体」そう理解されるようになったことが、重要な意味を持ちます。
つまり、唯一の神は、ただ一人の神ではないのです。「オンリーワン」と、「ジャストワン」は違います。唯一の神は、父、子、聖霊という3つの異なる人格として存在しています。どのように唯一かは分かりません。でも、少なくともただ一人では無いのです。
三位一体の神は、「三つの人格、一つの実体」なる御方です。もしそれを否定すれば、それは異端です。いくら口でキリスト者といっていたとしても異端です。「三つの人格、一つの実体」それを否定しているからこそ、モルモン教会も、エホバの証人も、クリスチャンサイエンスも、どんなに自分はクリスチャンだと言っても異端なのです。
「三つの人格、一つの実体」そう理解しているからこそ、西方教会と東方教会は、キリスト教会なのです。
でも、西方教会と、東方教会では、違う形で三位一体の神の理解が発展していきました。西方教会では、「一つの実体」が強調されていきました。その一方で、東方教会では「3つの人格」が強調されていったのです。
現代の東方教会を代表する神学者、ジョン・ジジウラス先生は、三位一体の神についてこう述べています。
「神の存在は関係に基づく存在である。」これはとても重要な言葉です。この東方教会の概念が、西方教会では欠落しています。
その証拠に、「キリスト教の神は、関係に基づく三位一体の神」そういった感心を、西方教会に広めた、カトリックの神学者カール・ラーナー先生は、「西方教会のキリスト教は、一体の神を重視するあまり、神が三人格であることの意味を見失っている。だから西方教会から三位一体の教理を取り除いても、実質的に何も失われない。」そのように、西方教会を皮肉っています。
三つの人格を持たれる神を理解するためには、「相互内在」という概念と、「充当」という概念が、とても大切になります。
相互内在とは、「『父・子・聖霊』は、御自分を完全に相手に与えて、相手の内に生きている。」そういう理解です。つまり、三位一体のそれぞれの人格であられる、父・子・聖霊が、互いに、他の人格の内にある命である、その人らしさを共有している。そして、他の人格の内にある命である、その人らしさが発揮されている業は、他の人格と分離することなく、関りを持っている。そういう理解が相互内在です。
分かりやすく言えば、相互内在は、それぞれの人格の独自性が生かされあって、一つになっているということです。
例えば、人間の救済の創造の業は、父なる神がなさった業です。でも、その業には御子も、聖霊も共に深く関与しています。その業は、父なる神の単独の業ではないのです。そういう理解です。当然ながら、御子と聖霊の業も、同じことが言えます。
そういう相互内在は、「父・子・聖霊は、それぞれの人格のユニーク性を生かすために、ご自分を相手に完全に与えて、相手の内に生きている」そうまとめることが出来ます。
ヨハネによる福音書14章10節を見ますと、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」そう記されています。
主イエスの内に、父なる神が生きておられて、主イエスも、父なる神の内に生きておられるのです。つまり、三位一体なる神は、父・子・聖霊の、それぞれのユニーク性が生かされていくように、自分を分け与える愛の交わり共同体なのです。
そして充当とは、「父・子・聖霊は、永遠にそれぞれの人格と、御業の独自性を失わない」という理解です。つまり、父・子・聖霊は、永遠にそれぞれの独自性を喜びあって、それぞれの独自性を生かすために、御自分を完全に相手に分け与えておられるにも関わらず、自分と相手との区別。別の言葉で言えば、自分と相手との境界線を失わないのです。それぞれの人格が、それぞれ独自性を有する存在であり続けるのです。父は父、子は子、聖霊は聖霊のままなのです。
つまり、相互内在にも関わらず、救済の創造の業は、やはり父なる神の業で、贖いは主イエスの業なのです。父・子・聖霊のそれぞれが、十字架の業に関わってはいても、実際に十字架に架かったのは、主イエスなのです。
例えばコリントの信徒への手紙2の1章21節-22節を見てみますと、父・子・聖霊のわざが書かれています。そこにはこう記されています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」
此処で父なる神、子なる神、聖霊を入れ替えると、支離滅裂な話になります。父・子・聖霊は、永遠にそれぞれの人格と、御業の独自性を失わないのです。それこそが充当という概念です。
三位一体の神を理解するためには、相互内在と、充当という概念が、とても大切なのです。
カナダのリージェントカレッジの教授であられたフーストン先生は、「三位一体の神学は、必然的に交わりを生む。」そう言っています。つまり、三位一体の神に救われて、三位一体の神との交わりに生きるようになったキリスト者は、三位一体の神・自分・隣人という三位一体の内に、あるいは、三位一体の神、妻、夫という三位一体の内に、あるいは、三位一体の神、二位一体の父と母、自分、という三位一体の内に、あるいは三位一体の神、自分、社会という三位一体の内に、相互内在と充当がある存在に、回復されていくということです。それが、三位一体の神の像の回復なのです。
じゃあ、私たちの内に、三位一体の神の像が回復していくために、具体的に必要なことは一体何でしょうか。
相互内在という観点からいえば、父・子・聖霊が、それぞれの人格の独自性。それが生かされるために、それぞれが完全に御自分を相手に与えたように、私たちも、私たちの関わる相手の独自性が、消えることなく生かされていくように、完全に相手に自分を与えて生きることです。
でも、「自分を与えなくても良いなら与えたくない。」「自分を与えることで、自分の人格や尊厳が踏みにじられる。」そういう否定的な思いがありながら、無理をして、自分を相手に与えるのは、相互内在とはいえません。
そうではなくて、相手の独自性が生かされていくために、自分が一般的であると思って疑わない自分の常識。それを積極的に喜んで無くして、相手のために、自分の時間、労力、お金、心、それを喜んで差し出すことが出来ること。それが、三位一体の神と交わっている中で、隣人との関りにおいて反映されていくこと。それが三位一体の神・自分・隣人の関りの中に、三位一体の神の相互内在が回復している印なのです。
でも私たちは、相手の独自を生かすために、なかなか自分が一般的であると思い込んでいる常識を、なかなか喜んで無くすことは出来ないのです。何故でしょうか。それは、色々な大変な経験を経て、常識を所持するようになったからです。自分には、常識が備わっている。そのように自分を鼓舞して、日々生きているからです。でも、自分で自分を鼓舞して、自分で自分を必死に支えようとする姿勢こそが、神の力に頼ろうとしない人間の罪なのです。
自分で自分を鼓舞して、自分の力で自分を守るということは、神共にいましという信仰がない何よりの証拠なのです。
自分で自分を守るというところから脱却して、三位一体の神・隣人・自分という三位一体の関係の中に生かされ生きていくようになること。それが、神が私たちに与えようとしている救いなのです。その救いは、三位一体の神の像が回復していく印である聖化。それが伴うのです。
自分で自分を守るのではなくて、自分を与えることを通して、逆に自分も豊かにされる。自分を与えることで、人を豊かにすることを通して、逆に自分も豊かにされる。それが、三位一体の神の愛の交わりの像に似せて造られた、人間の本来の生き方なのです。
そして、充当という観点からいえば、父・子・聖霊が、永遠にそれぞれの人格と、それぞれの御業の独自性を失わないように、神は神。自分は自分。隣人は隣人、そういったそれぞれの人格と、それぞれの人格が持っている独自性を失わないことが、人間本来の生き方なのです。
でもそれが難しいのです。罪深い私たちは、相互内在を意識すれば、自分という人格や、自分の独自性が失われていくような感覚に陥るのです。また、充当を意識すれば、自分を相手に分け与えていくことが嫌になるのです。
だからこそ、主イエスの十字架を見上げて、聖霊の働きに自分の身を委ねることが大切になるのです。
カナダのリージェントカレッジで学ばれていた篠原明先生が、御自分が書かれた「霊性の神学とは何か」という本の中で証していたことを御紹介させて頂きます。
先生が、特別伝道集会の担当をされていた時。伝道集会が行われる度に、集会に必要な奉仕者になってくれるように、色々な先生方に依頼していたそうです。篠原先が、誰かに奉仕の依頼をしたならば、まず断られることはなかったそうです。
でもある時に、ある人から「私がいつもこの奉仕を引き受けるとは思わないで下さい。」そう言われたというのです。その時、先生は、「人が生き生きと、神に仕えることが出来るように、人に仕えていなかった。自分は奉仕分担表を埋めることに、必死になっていただけだった。」そのことに気付かされたというのです。
父・子・聖霊が、それぞれの独自性が発揮できるように、それぞれが生かし合っていたように、私たちが、三位一体の神との関係の中に生かされ生きている中で、隣人の独自性が発揮されていくように、関わっていくことが大切なのです。
三位一体の愛の交わりの神の像の回復は、父・子・聖霊の相互内在と充当が、三位一体の神・自分・隣人の三位一体の関りの中で、実践されていくことなのです。そしてそれが、ジョン・ウエスレーが説いている聖化なのです。
そのジョン・エスレーの聖化は、私たちが天の御国に帰るその時まで続いていくのです。
私たちが、ホーリネスの群れという教会に召された理由は、ジョン・ウエスレーの聖化理解の背後にある「三位一体の愛の交わり共同体である神の像の回復」を大切にして、壊れた三位一体の神の像が、神・自分・隣人という三位一体の中に回復していくためなのです。
そして、それを成し遂げるのは自分の力ではなくて、聖霊の力によるのです。私たちが大切にしなければならないことは、私たちに対する聖霊の働きを邪魔しないことなのです。
そのことを、私たちの心に深く刻み込んで、今週一週間、皆さんと共に豊かに歩んでいければと心から願っています。
最後に一言お祈りさせて頂きます。