2026年1月11日 仙台青葉荘教会礼拝    

使徒言行録12章 1節-25節

「信仰の確証を与えられる秘訣」

牧師 野々川康弘

使徒言行録12章は、ヘロデ王の教会の迫害と、ペトロが投獄された時、ペトロが天使によって救い出されたことと、教会を迫害していたヘロデ王が、天使に撃ち倒されて死んだことが記されています。

つまり今日の箇所は、初代教会を襲った大きな危機と、神の御手による教会の守りが記されているのです。

今日はそんな12章から、神の御業がどのように前進していったのか。そのことを、皆さんと学びたいと思います。

1節の「ヘロデ王」とは、ヘロデ・アグリッパⅠ世のことです。彼は、ローマ皇帝クラウディウスの後ろ楯によって、紀元41年からユダヤ王となりました。

彼はクリスマスの話に出てくるヘロデ大王の孫です。

また、主イエスが宣教活動をなさっていた時、ガリラヤで領主をしていた、ヘロデ・アンティパスの甥です。

ちなみに、使徒言行録25章~26章に出て来る「アグリッパ王」は、ヘロデ・アグリッパⅠ世の息子です。

彼らは皆、ローマ帝国の後ろ楯によって、ユダヤを支配することが出来ていたのです。

実は、ヘロデ家の出身地は、ユダヤの南のイドマヤ地方です。イドマヤとは、旧約聖書に出て来るエドムのことです。

つまりヘロデ家は、エドム人の子孫なのです。ということは、純粋なユダヤ人ではなかったということになります。そんな一族が、ローマ帝国の力によって王となっていたのです。ユダヤ人たちはヘロデ家を、ユダヤを治める正統な王家として認めていなかったのです。

そのことを身に沁みて分かっていたからこそ、ヘロデ家は、ユダヤ人たちの支持を得ることに必死だったのです。彼らの支持を得る一つの手段が、何十年もの月日を費やして、エルサレム神殿を改築することでした。

ヘロデ・アグリッパⅠ世が、教会に迫害の手を伸ばした理由は、ユダヤ人たちの人気を得たかったからです。その証拠に、1節~3節に、こう記されています。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。」

今まで学んできましたが、ユダヤ教を信じるユダヤ人たちが、ステファノを殺害したり、ステファノの殺害を期に、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者たちを迫害したりしたのは、律法を無視して、神殿を冒涜しているという理由からです。

そんなユダヤ人たちの機嫌をとるために、ヘロデ王は、王としての権力で教会を迫害したのです。そして、2節に記されている通り、ヨハネの兄弟ヤコブを殺したのです。殺されたヤコブは、主イエスの十二弟子の一人である、ゼベダイの子ヤコブです。つまり、ゼベタイの子ヤコブが、十二使徒の中で最初の殉教者になったのです。

ゼベダイの子ヤコブをヘロデ王が殺したことは、3節に記されている通り、ユダヤ教を信じているユダヤ人たちに喜ばれたのです。彼らはヘロデ王が、ゼベダイの子ヤコブを殺したのを、ユダヤ教の教えを、尊重している姿勢の現れであるとして歓迎したのです。だからヘロデ王は、さらにペトロを捕えて投獄したのです。その理由は、彼が十二使徒の筆頭で、教会の中心的指導者だったからです。そんなペトロを処刑して、ユダヤ教を信じているユダヤ人たちの支持を、万全なものにしようとしていたのです。だからヘロデ王は、宣伝効果抜群の状態の中で、ペトロを処刑しようとしていたのです。

その証拠が3節です。そこを見ますと、「それは、除酵祭の時期であった」そう記されています。除酵祭とは、4節の過越祭が行われる際に、行われる祭りのことです。

除酵祭は、ユダヤ人たちの最も大きな祭りで、その時期に多くのユダヤ人たちが、エルサレムに巡礼に来ていたのです。その人たちの前にペトロを引き出して、裁判で死刑宣告をして、自分がいかに、ユダヤ教を支持しているか。そのことを示そうとしたのです。

つまりヘロデ王は、ユダヤ教を信じるユダヤ人たちの心を掴むために、ペトロの処刑を決めたのです。彼にとって、ペトロが本当に有罪であるかどうかは、どうでも良いのです。彼は心の中で、ペトロを殺すことを、既に決めていたのです。

だから4節に記されている通り、ペトロは、厳重に監視されていたのです。四人一組の兵士の群れが4つあって、交替でペトロを監視していたのです。

6節を見ますと、「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」そう記されています。つまり、ペトロの右と左に一人ずつ兵士がいて、それぞれの兵士が、ペトロの手と自分の手を鎖でつないでいたのです。そんな状態の中でペトロは寝ていたのです。そして、もう二人の兵士は、牢獄の入り口で、番兵として見張っていたのです。

10節に記されている通り、たとえ脱獄出来たとしても、町に出るには、第一の衛兵所と、第二の衛兵所を通り抜けて、更にその先にある鉄の門も通り抜けなければならないのです。

ということは、ペトロが脱獄するのは、絶対に不可能だったのです。ペトロの危機は、主イエスが殺されて以来の、教会の危機だったのです。ユダヤ教の指導者たちや、ユダヤ教の民衆だけではなくて、国家権力も、教会を迫害していたのです。国家権力の前で、教会は、風前の灯だったのです。

そんな時、教会は何をしていたのでしょうか。それが記されているのが5節です。そこには「ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」そう記されています。

教会が危機に直面している時に、教会がしていたのは、祈ることだったのです。もっと正確に言えば、祈ることしか出来なかったのです。圧倒的な国家権力の前で、人間は無力なのです。

でも祈りがあったからこそ、6節以下記されている通り、ペトロは絶体絶命の危機から解放されて、救われることが出来たのです。これは人間の思いを、遥かに越えた神の御業です。

大衆の前に引き出されて、処刑されるその前夜に、主に遣わされた天使がペトロのもとに立ったのです。天使はペトロのわき腹をつついて、「急いで起き上がりなさい」そう言ったのです。すると鎖が、彼の手から外れて落ちたのです。

自分の手と、ペトロの手を繋いで寝ていた2人の兵士は、鎖が外れたことに全く気づかなかったのです。その時、天使がペトロに、「帯を締め、履物を履きなさい」そう言ったのです。だからペトロは、その通りにしたのです。

そして、そんなペトロに「上着を着て、ついて来なさい」そう天使は言ったのです。だからペトロは、天使についていったのです。そうしたら、牢獄の戸は勝手に開いて、第一の衛兵所と、第二の衛兵所を通り抜けることが出来て、町に通じる鉄の門も勝手に開いて、町に出ることが出来たのです。

ペトロは、自分に起こったことが信じられなくて、「自分は幻を見ている。」そう思ったのです。ペトロが、ボ~としていると、天使が去っていって、はっと我に返ったのです。我に返った時、捕らわれの身から解放されていて。救われていたのです。

人間は、自分の常識を超える神の御業に出会った時、神の御業を幻と思ってしまうぐらい、自分の常識に囚われているのです。でも、自分の常識を超える神の御業が、自分自身に起こっていることを知らされた時、自分の常識ではなくて、神のみ旨を基準にして、生きるようになるのです。

つまりペトロは、自分の常識では、絶対に不可能と言わざるを得ない状況の中で、その常識を打ち破る神の御業が、自分になされたことを認めざるを得ない中に置かれたからこそ、実際の意味では、心の意味でも、自由になったのです。ペトロが得た実際的な自由や、心の自由は、自分を主として生きる自由ではなくて、神をあがめて生きる自由なのです。それが、ペトロが解放されて、救われたということです。

解放されて、救われたペトロは11節でこう言っています。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」

つまりペトロは、「自分が解放されるという救いは、主なる神のみ旨と、御力によって起こったことがはじめて分かった。」そう言ったのです。そんな彼は、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に行ったのです。その理由は、ヨハネの母マリアの家こそが、主イエスを信じる人たちが、いつも集まっていた場所だったからです。

実は、主イエスが弟子たちと最後の晩餐をされた場所も、ヨハネの母マリアの家だったのです。

それはそうと、12節の終わりを見ますと、「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」そう記されています。つまり、5節に記されていた、ペトロのための教会の熱心な祈りは、ヨハネの母マリアの家で、なされていたのです。此処で注目しなければならないのは、6節~11節の、主の天使がペトロを解放した救いの出来事は、5節と12節の、教会の人たちの祈りに挟み込む形で記されているということです。

つまり、使徒言行録の著者ルカは、教会で熱心な祈りがささげられたからこそ、ペトロが解放という救いを神から得たことを、5節と12節の教会の祈りの間に、6節~11節のペトロが解放されて救われた出来事を挟み込むことで、強調しているのです。

更に言うと、「教会では彼のための熱心な祈りが神にささげられていた」という5節の言葉と、「大勢の人が集まって祈っていた」という12節の言葉を通して、使徒言行録の著者ルカが、私たちに教えているのは、共に集まって祈る、共同の祈りが大切であるということです。

勿論一人一人の個人の祈りも大切です。でもそれ以上に、共に集まって、共同の祈りを捧げる大切さを、私たちは知る必要があるのです。

教会は、三位一体の神・自分・隣人なる兄弟姉妹の祈りという対話の中に、自分の身を置いてこそ、神の御業にあずかって歩んでいくことが出来るようになるのです。それは、父・子・聖霊の三位一体の交わり共同体に似た者として、私たち人間は、神に創造されたからです。だから、三位一体の神・自分・隣人なる兄弟姉妹の交わり共同体である教会の祈りという対話の中に自分の身を置いてこそ、本当の意味で力づけられて、慰められて、支えられて、歩んでいくことが出来るようになるのです。

実は、祈る教会とは、個人個人が良く祈る教会という意味ではありません。祈る教会とは、三位一体の神・自分・隣人の共同体の中の祈りという対話を大切にしている教会ということです。

そういう意味で、神の御言葉を聴いて、その言葉に基づいた祈りを、兄弟姉妹と共に持つことは、とても大切なことなのです。だから祈祷会では、神の言葉を聴くところからスタートするのです。

でも、私たち人間は、個人の祈りでもそうですが、皆で集まって祈っていても不信仰です。その証拠が、13節~16節です。

そこにはこう記されています。「門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、『それはペトロを守る天使だろう』と言い出した。」

皆さん、彼らは、ペトロのために熱心に祈っていたのです。「主よ、御心ならば、どうぞペトロを死の危機から救い出して下さい。教会の大切な指導者であるペトロを私たちに帰して下さい」そう祈っていたのです。その祈りが聞き届けられて実現したのです。でも彼らは、その現実を信じることが出来なかったのです。その証拠こそ、15節の「あなたは気が変になっている」という彼らの言葉や、「それはペトロを守る天使だ」という彼らの言葉です。

つまり彼らは、熱心に祈っていたにも関わらず、その祈りが本当に聞き届けられるとは思っていなかったのです。これは他人事ではありません。私たちもそうです。祈りながらも、いくら神であっても、出来るわけがない。どこかでそう思ってはいないでしょうか。

私たちが祈ることが出来なくなったり、祈りに身が入らなくなったりする理由は、そこにあるのです。「どうせ祈ったって、現実は何も変わらない。祈るより、自分で何とかしなければならない。」そういう思いが、私たちの中にあるが故に、本当に真剣に祈ることが出来ないのです。

私たちの中に、祈りを妨げる不信仰があるのです。祈るためには、そういった不信仰と戦わなければなりません。私たちは、自分の中の不信仰にあらがって、祈りを戦い取っていかなければならないのです。そして、祈りを戦いとっていく原動力は、神を愛する思いなのです。神を愛していない者は、自分の中の不信仰にあらがって、祈りを戦い取っていくことは出来ません。

でも御安心下さい。神は不信仰な教会の祈りであっても、神はそれを喜んで下さり、御自分がベストであると思う応答を、神はして下さるのです。教会の祈りは、聞かれないことはありません。私たちからすれば、神に祈りが聞かれなかったと思うような神の沈黙も、神がベストと思われている神の答なのです。神は私たちの祈りをちゃんと聴いて下さる暖かい御方だからこそ、私たちは祈ることができるのです。だから、祈りを妨げる自分の不信仰と戦っていくことが出来るのです。

はっきり言います。私たちの祈りは、いつも不信仰でしかありません。いつも神が本当におられることを軽視するのです。でも、その不信仰な者の祈りを、何故神は赦して、喜んで下さるのでしょうか。

それは、神の自由意志によって、御自分の愛する独り子である主イエスを、十字架に架けて殺してまでも、御自分の恵みの内に置いて下さるようにして下さっているが故です。

神は、御自分の愛する独り子である主イエスを、十字架に架けて殺してまでも、神を神として歩まない不信仰な罪を赦して、御自分と共に、私たちが歩むようになることを望んでおられるのです。

それ程までに、神は私たちが、三位一体なる御自分と、あなたと、隣人なる兄弟姉妹が、対話する共同体、つまりは祈る共同体になることを望んでおられるのです。

その恵みに支えられているからこそ、私たちは安心して、たとえ不信仰であったとしても、神と、隣人なる教会の兄弟姉妹と共に、対話という祈りをしていくことが出来るのです。

20節以下には、ヘロデ・アグリッパⅠ世の最期のことが記されています。彼はユダヤの王となった3年後の紀元44年に、23節後半に記されている通り「蛆に食い荒らされて」死にました。どうしてそのようなことが起ったのでしょうか。それは、ティルスとシドンの住民たちが、ヘロデ・アグリッパⅠ世に怒られた時に、ご機嫌を取るために、彼の演説のことを「神の声だ。人間の声ではない」そう褒めたたえた時、それを拒まなかったからです。

自分を神とするのは、神に対する重大な冒涜です。「神の声だ。人間の声ではない」そう言われたなら、自分は神ではないことを言い表さなければならないのです。でも彼は、そうしませんでした。だからこそ、主の天使に撃ち倒されたのです。

皆さん、思い出して下さい。ペトロの解放という救いも、主の天使によってなされました。そして、ヘロデを打ち倒したのも、主の天使だったのです。

神は、不信仰をかかえていても、教会という共同体の祈りを大切にしようとする人には、不信仰からの解放という救いの御業を与えますが、神の御支配を思わず、祈ることを蔑ろにして、自分を主とする者には、神は裁きの御業が働くということです。

自分を主とする者は、神のご支配の前に撃ち倒されて、蛆に食い荒らされて滅び去るのです。

24節は、そういった主の天使の2つの働きを受けて、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」と言っています。

つまり使徒言行録の著者であるルカは、今日の箇所を通して、「神に祈らず、自分を主とする者は滅びる一方で、不信仰をかかえつつも、教会という共同体の祈りを大切にしようとする人たちは、神に救われていく。」そう言っているのです。

その事実によって、神の言葉はますます栄えて、広がっていくのです。その証拠が24節です。そこには、教会という共同体の祈りを通して、ペトロの解放という救いが、主の天使によってなされたことと、自分を主だと思って、祈ることを蔑ろにしていたヘロデが天使に打ち倒されたことを受けて、「神の言葉はますます栄え、広がっていった。」という事実を、ルカは書き記しているのです。

そういう事実があるが故に、たとえ不信仰であっても、不信仰に抗って、祈りを盛んにしていく必要があるのです。

不信仰であっても、不信仰に抗って祈る姿勢を教会という共同体が持ち続ける中に、神の慰めや、神の励ましが日々深まっていき、信仰が与えられている喜びが増し加えられていくようになるのです。

その結果、この世で、どのような荒波に見舞われようとも、決して神に滅ぼされない確信を持った歩みが、与えられていくようになるのです。

そのことを覚えて、今週一週間、皆さんと共に豊かに歩んでいければと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。