2025年9月7日 仙台青葉荘教会礼拝説教

使徒言行録9章10節-22節

神に生かされよ」

牧師 野々川康弘

今日の箇所を見ますと、主イエスがアナニアに現れて、サウロを訪ねるようにお命じになったことが記されています。じゃあ、アナニアが、サウロを訪ねようとしていた時、サウロは一体、何をしていたのでしょうか。そのことが記されているのが11節です。そこを見ますと、「今、彼は祈っている」そう記されています。

この時、サウロがしていた祈りは、悔い改めの祈り、新たな道を求める祈り、主イエスを無視していた自分の罪を赦す、十字架の救いを信じる祈りだったのです。

そういう祈りをしていたサウロのところにアナニアがやって来たのです。そしてアナニアが祈ったら、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、もう一度サウロの目が見えるようになったのです。そして彼は、主イエスの救いを宣べ伝える新しい器として、神に立てられたのです。そのことが、今日の箇所が言っていることです。

でも、よく見ますと、9章1節~9節と、10節~18節では、内容がちょっと違うことに気付かされます。1節~9節は、復活した主イエスが、サウロの前に立ちはだかって、語りかけたことが記されています。でも10節からは、復活した主イエスが語りかけた相手は、アナニアなのです。

実は、サウロのなすべきことは、復活した主イエスからではなくて、アナニアから告げられたのです。

ではアナニアは、一体どういう人だったのでしょうか。

アナニアという人は、ダマスコ教会の一員だったのです。彼はダマスコ教会の代表として、サウロのところに遣わされた人だったのです。そんな彼がサウロにしたことは、主イエスの御言葉を伝えること。聖霊に満たされるように祈ること。洗礼を授けることだったのです。

サウロは、ダマスコ教会の代表として来た、アナニアのそういう働きを通して、教会に加えられたのです。

つまりサウロは、アナニアに象徴される教会の働きを通して、教会に加えられて、目が開かれたのです。でも、サウロの目が閉ざされたのは、主イエスの直接的な働きかけによるのです。つまり、自分を中心として生きる古い自分の生き方が閉ざされるのは、神の直接的な働きによるのです。でも、「目が開いて」、主イエスの十字架の軛を負って歩むようになる新しい生き方は、教会の働きを通して与えられるようになるのです。

つまり、教会が健全でなければ、神を無視して、自分を中心として生きる、古い自分の生き方が閉ざされても、主イエスの十字架を信じ、十字架の軛を負って歩むようになる生き方、目が開かれた新しい生き方は、生まれないのです。

だから教会は、ちゃんと主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を語っていかなければならないのです。もし教会が、神を無視して、自分を中心として生きる罪を曖昧にするなら、主イエスの十字架は、ぼやけていくのです。

教会が原罪をぼやかせば、主イエスの救いはぼやけていって、目が開かれる人が、起こされないようになっていくのです。そしてそれが意味していることは、主イエスの救いに与って、主イエスの十字架の軛を負うキリスト者が、教会から生まれなくなるということです。

罪深いこの世は、みんな自分を中心に考えて歩んでいます。罪深いこの世は、自分を中心に、ちゃんと持つことを教えているのです。

そんな世の中にあって、多くの人たちに教会に来てもらいたい思いから、教会は、自分の罪が赦された、十字架の罪の赦しではなくて、弱い自分に寄り添ってくれる愛を語るようになるのです。

その方がこの世の人たちの受けが良いのです。その方が、この世の人たちの自我を強化したいという欲求が満たされて、教会に多くの人たちが集まるようになるのです。

でも、それは、罪の赦しである十字架をぼやかすものです。罪の赦しである十字架がぼやけていくならば、教会は、神を神としない礼拝に自然になっていくのです。

礼拝はギリシャ語で「レイトゥルギア」と言います。「レイトゥルギア」の語源は、「ラトリア」というギリシャ語です。「ラトリア」という意味は、「仕える」という意味です。

つまり礼拝は、私たちが神に慰められることが目的ではなくて、私たちが神に仕えることが出来るようになることが目的なのです。礼拝の中心は、神に仕えていくための言葉が与えられることです。もし礼拝が、私たちが慰められることを目的としているとすれば、礼拝は、私たちがこの世で生活していくための補助的なものになっていくのです。そんなことでは、私たちが神に仕えるのではなくて、神が私たちに仕えることになってしまいます。

でも礼拝は、そういうものではありません。神に仕えている私たちが、先週一週間、神を無視して、自分を中心に歩んでいた罪の赦しの宣言を受けて、新しい一週間、神に仕えている者らしく、十字架の軛を負うことを喜びとして、この世に派遣されていくようになることを目的としているのです。つまり、神の子としてメンテナンスされること。それが礼拝をする目的です。

礼拝のことで、ある神学者がこのように言っています。

「現代の多くの教会の礼拝は、十字架の罪の赦しを語らない。それよりも、弱い人や、弱い自分に寄り添う愛を語る。現代の教会の説教は、人々に受け入れてもらえるための出品物になり下がっている。そんなことでは、教会に人が増えたとしても、主イエスと「あなたとわたし」という関係が構築されない。その結果、何か教会内で問題が発生したら、すぐに自分には合わないといって、自分に合う教会を探し始める。さながらショッピングセンターで、今の自分の生活に必要なものを買うような感覚でである。そこに神を神としている姿、主イエスの十字架の救いを大切にしている姿は無い。」

これは、とても考えさせられる言葉です。

それはそうと、アナニアに象徴される教会の働きによって、サウロは再び目が見えるようになりました。でもそれは、視力が回復したという単純な話では無いのです。目からうろこのようなものが落ちた時、サウロは新しい自分になったのです。

彼は教会を積極的に迫害する者から、主イエスの救いを積極的に宣べ伝える伝道者になったのです。でもそれは、サウロの情熱を注ぐ方向が変わったということではありません。そうではなくて、自分の心に基づいて、情熱を注いで生きる生き方が、崩れ去ったことを意味しています。

教会を迫害していた時のサウロは、自分の信じる心に従って、熱心に、情熱を注いで生きていました。その証拠が9章1節です。そこを見ますと、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」そう記されています。でも、9章1節の口語訳聖書を見ますと、「殺そうと意気込んで」という言葉が、「殺害の息をはずませながら」となっているのです。

それ程サウロは熱心に、教会を迫害することが、神の意志だと思う自分の心に忠実に、教会を迫害していたのです。

そんなサウロが、復活の主イエスとの出会いや、アナニアに象徴される教会の働きを通して、神と「あなたとわたし」という関係になって以来、別の言い方でいえば、サウロが救われて以来、自分の心を大切にして生きることに死んだのです。

実はサウロが、アナニアに象徴される教会の働きによって、神に救われた後のこと。神と「あなたとわたし」という関係になった後のことが、19節後半~22節まで記されています。

そこを見ますとこう記されています。「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。」

確かに此処を見ますと、迫害を熱心にするサウロの心が、伝道を熱心にするサウロの心に替わっただけのように見えるのです。

でもそれは間違いです。

サウロが、主イエスの救いを宣べ伝える人になったのは、自分の熱心な心からではありません。サウロの熱心な心からではなくて、主イエスがアナニアに語った15節の言葉によるのです。

その15節を見ますとこう記されています。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

アナニアは、この主イエスの言葉をサウロに伝えたのです。

アナニアに象徴される教会から、神からの言葉が与えられて、サウロの絶望状態の中に、光が差し込んできたのです。そして、神の言葉という光に導かれて生きる、新しい歩みが始まったのです。

19節後半~22節の熱心なサウロの伝道は、神が教会を通して、サウロに与えた言葉。それが源になっているのです。

サウロは、自分の心に基づいて、熱心に情熱を傾けて生きる生き方から、教会を通して与えられる神の言葉に基づいて、熱心に情熱を傾けて生きる生き方に変わったのです。

それは、主イエスと出会うことで、神を無視して、自己中心に生きる自分の罪深さに絶望したからです。その絶望が、アナニアに象徴されている、教会が語る神の言葉に従って、熱心に生きる生き方に彼を変えたのです。

サウロが、教会を通して、神から与えられた言葉に生きるようになった姿を、端的に表わしているのが、15節の「器」という言葉です。

サウロは、異邦人や、王や、ユダヤ人に、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を伝える、神の「器」として選ばれたのです。

器は、それ自体に価値はありません。器は、器の用途に相応しいものが入れられてこそ、器の真価が発揮されます。

通常、器を造る人は、何を器に入れるか。それを想定して器を造るのです。そうであるにも関わらず、器が、自分には自由意志があると言って、自分の入れたいものを入れていたとしたら、器の真価は発揮されません。サウロは、神に用いられる器として、この世に誕生したのです。そうであるにも関わらず、主イエスを迫害していたのです。そんな器は、神に打ち壊されて、捨てられても、おかしくない無価値な器だったのです。でも復活した主イエスは、サウロと出会うことで、サウロが無価値な器になっていることを思い知らせたのです。

その主イエスの取り計らいと、それに続くアナニアの働きに象徴される教会の働きによって、サウロは、十字架の軛を負うという、高価な宝を入れる器になったのです。

無価値になっていたサウロという器を、本来の輝きがあるパウロという器にしたのは、神の働きと教会の働きによるのです。

神がサウロという器を、大伝道者パウロという器になるように導いたのです。それは、ただただ一方的な神の憐れみであり、神の選びです。

サウロが、パウロという大伝道者になりたかったということではないのです。サウロの感情は全く無関係なのです。

神の一方的な憐れみ、神の選びによって、十字架の軛を負うキリスト者になったパウロは、自分の心に基づく歩み、自分の信念を主体とする歩み、自分の熱心さによって生きる歩みから解放されて、神と、「あなたとわたし」そういう関係に生きるようになった人として、神の言葉に従う歩み、主イエスの軛を負って歩む器に変えられたのです。神を無視して、自分の心に基づいて、神に熱心になっていくことが信仰であると洗脳されていたサウロという器は、その洗脳から解き放たれて、神の言葉に従って、十字架の軛を負う大伝道者パウロという器になったのです。それがサウロに起ったことです。

サウロという器は、復活の主イエスとの出会いと、アナニアに象徴される教会の働きを通して救われて、大伝道者パウロという器になりました。そんな彼のことを、主イエスは16節で、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」そう言っておられます。

サウロがパウロになって、歩み出した歩みは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を多くの人たちに告げ知らせるために、多くの苦しみを自分が背負う歩み、十字架の軛を負う歩みだったのです。自分の心に基づく熱心さに生きていた時の彼は、自分が苦しみを受けるのではなくて、教会の人たちを苦しめて、殺していたのです。

でも、神と、「あなたとわたし」そういう関係になって、神の言葉に生きる器となって以降、十字架の軛を負う人になったのです。人を苦しめるのではなくて、自分が苦しみを受ける者になったのです。主イエスの救いを信じるキリスト者になるとは、そういうことです。

教会で、パウロは人を苦しめるのではなく、自分が苦しみを受けることを貫き通したのです。自分の心に基づく熱心さは、人を傷つけ、人を殺します。でも神と、「あなたとわたし」そういう関係になって、神の言葉に生き、十字架の軛を負う器となって生きる熱心さは、自ら苦しみを引き受けて、自らが泥をかぶって、人を生かすのです。

実は、サウロのところに遣わされたアナニアも、彼が所属していたダマスコ教会も、サウロと同じような体験が起きていたのです。

主イエスが、「サウロのところへ行って、手を置いて、目が見えるようしなさい。」そうアナニアに命じた時、アナニアはそれが嫌で、文句を言いました。それが13節~14節です。そこを見ますと、「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」そう記されています。

アナニアは、「サウロは教会の敵だ。せっかく神に打ちのめされ、目が見えなくなっているのに、サウロを癒すなんてことは、とんでもない。」そう思っていたのです。

私も含めて、ここにいる皆さんは、そんなアナニアの気持ちが、良く分かると思います。でも主イエスは、「行きなさい。」そうお命じになられたのです。主イエスは、アナニアをサウロのもとに遣わしたのです。

アナニアは自分の嫌な感情は横に置いておいて、主イエスの言葉に従って出かけたのです。彼も、自分の思いや、自分の確信によって歩むことを主イエスに阻まれて、十字架の軛を負う器になったのです。

もし彼が、自分の考えに拘って、サウロのところに遣わされることを拒んだとしたら、サウロの回心は完成していなかったのです。大伝道者パウロは生まれていなかったのです。

もしそうであれば、世界の歴史は、今とは随分違ったものになっていました。

大伝道者パウロが生まれていなかったとしたら、新約聖書は27巻の内、14巻しか無かったのです。また、外国にキリスト教会が誕生していないために、私たちは此処で、礼拝することは出来ていなかったはずです。

またダマスコ教会が、自分の心に基づく信念や自分の考えに固着して、主イエスの十字架の軛を負う器になっていなかったなら、アナニアをパウロのもとに遣わすことはなかったのです。その結果、パウロに救いが及ぶことなく、主イエスの救いが全世界に、ひいては、私たちのところに、伝えられていなかったはずです。

そう考えるならば、仙台青葉荘教会は、自分の心に基づく信念から来る熱心さに生きることなく、主イエスの救いを信じ、神の言葉に従い、主イエスの十字架の軛を負う器になりましょう。今まで以上にそうなれば、神は私たちを用いて、私たちの想像を遥かに超える、大きな御業を成し遂げて下さいます。

私たちは、私たちの造り主の思いを無視して、自分勝手なものを自分という器に入れて、自分という器を、無価値にしてしまう愚か者です。

でも神は、そんな私たちを憐れんで、主イエスの十字架・復活・昇天の救いによって、神の子として下さいました。そして、主イエスの十字架の軛を負う器として、仙台青葉荘教会に加えて下さいました。

神は、どんなに無価値な器も、お用いになることが出来ます。神に造られたはずの器が、自己主張するのをやめて、器の造り主が望む、主イエスの十字架の軛を負う器になっていってこそ、私たちの真価が発揮されるようになるのです。

でも、罪深いこの世に汚染されている私たちは、「自分で自分を認めていくこと。自分の思いを大切にしていくこと。マイナスになることは極力考えないようにすること。自分で自分を褒めてあげることで、自分の真価が発揮されるようになる。」そう思っています。

それ程までに神を無視して、自分で自分を立たせようとする罪深い私たちのために、主イエスは十字架・復活・昇天の御業を成して下さって、主イエスの十字架の軛を負う私たちに、日々造り変えて下さっているのです。

その恵みに支えられて、生かされている私たちであることを覚えて、今週一週間、皆さんと共に歩んでいけたらと願っています。

神は、御国をこの世で広げていくために、教会をこの世に造られました。御国は、十字架の軛を負う人たちの集まりです。十字架の軛を負う人たちが、この世に増えていくところに、神の栄光が豊かに現れるのです。

今日は聖餐式があります。主イエスが裂かれた肉、流された血によって、私たちの本当の幸福が築かれていることを覚えたいと思います。

最後に一言お祈りさせて頂きます。