フィリピ信徒への手紙3章9節~16節
「聖く化けるために」
牧師 野々川康弘
今日は聖化を、皆さんと学びたいと思います。
13節後半から14節で、パウロはこう語っています。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
パウロは此処で「なすべきことはただ一つ」そう言っています。この言葉は、自分が何の為に、どこに向かって生きているのか。そのことを自覚して、そこに向かって生きている人が言える言葉です。
つまり、パウロはそういう人だったのです。
私たちは生きていく上で、色々なことをしていかなければなりません。でも、その色々なことがバラバラのままではなくて、明確な一点を目指して集中していくこと。それが、私たちキリスト者に与えられている歩みです。
では、明確な一点に向かって集中していく「なすべき一つのこと。」とは、一体何でしょうか。
実は、私たちキリスト者は、主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって、「既に」罪が赦されていて、既に永遠の命を得ています。でも、「未だ」完全に罪が赦されていて、完全に永遠の命を得ているとは言い難いのです。
私たちは確かに「既に」救われています。でも、「未だ」その救いは完成していません。私たちキリスト者の救いは、「既に」と「未だ」の間で、一日一日、完全な救いに向かっているのです。
完全な救いに向かっている、一日一日の私たちの歩み。それが私たちの人生を、「なすべきことはただ一つ」そう言い切れるものにするのです。
先程、私は、「私たちは『既に』救われている。でも『未だ』その救いは完成していない。」そう言いました。
宗教改革をしたルターは、このことを、実に象徴的な言葉で言い表しています。それは「義人にして罪人」という言葉です。
私たちは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じたが故に、神に義と認められています。だから私たちは、神の目から見て「義しい人」なのです。でも私たちは、「尚、罪を犯す罪人」です。「既に」神に義と認められてはいても、「未だ」罪人なのです。「既に」義人ではあっても、「未だ」に罪人という狭間にあって、「神に似た、聖い者に造り変えてもらいたい」そういう願いが起こされるのです。罪人である私たちのことを、神が義と認めて下さった感謝の故に、「神に義と認められた者らしくなろう。」そんな気持ちが、湧きおこってくるようになるのです。間違っても、「もう義と認められているから大丈夫。罪人のままで良い。」そう思って、自らの罪の上にあぐらをかくなんてことは、起こらないのです。理屈から言えば、既に罪を赦されているとすれば、もう何をしても良いのです。神に義と認められた者らしく生きる必要は全くないのです。でも実際は、そのようなことは、決して起こりえないのです。
何故ならば、私たちが神を無視している罪を背負うために、主イエスが十字架に架けられて殺されたことを信じるということは、主イエスを無視しなくなるということだからです。主イエスを無視しなくなるということは、主イエスと向き合って生きるようになるということです。主イエスと向き合って生きるようになるということは、主イエスの言葉を聴いて歩むようになるということです。
主イエスの言葉を聴いて歩むようになっている私たちは、主イエスの救いの素晴らしさ、主イエスという御方の素晴らしさを、味合わされているはずです。そうであれば、自らの罪の中にあぐらをかくなんてことは出来ないはずです。何故ならそれは、主イエスの救い、主イエスの人格を、否定する行為だからです。主イエスの救い、主イエスの人格を、否定する行為は、主イエスを、裏切る行為なのです。だから、自らの罪の中にあぐらをかくなんてことは出来ないのです。
それだけではありません。主イエスの十字架の救いを信じて、その救いに与った人は、聖霊がその人の内に宿ります。その聖霊が、私たちが神を無視する罪の中に、留まり続けることを許さないのです。
主イエスの十字架の救いを信じた人は、聖霊によって、主イエスと向き合わされて、主イエスの言葉を聴く人に、日々変えられていくのです。それが聖化です。
以前にも申し上げましたが、主イエスを無視して生きていた人が、主イエスと向き合って生きるようになる関係の変化が生じることを、新生といいます。新生した人は、その時点から、主イエスの言葉を聴く内実の変化が起こるのです。その内実の変化こそ聖化なのです。つまり、新生は聖化に繋がるのです。そうであるならば、逆のことも言えます。主イエスの言葉を聴く内実の変化が起きていない者は、新生しているとは言い難いのです。
そのことを踏まえて、パウロは9節で、「わたしは聖化の大元になる『キリストへの信仰による義』、『信仰に基づいて神から与えられる義』が、既に与えられている。」そう言っているのです。でも10節~11節で、パウロは、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活の命に達したいのです。」そう言っています。
此処でパウロが言いたいことは、「新生、聖化の恵みに与って、『既に』救われてはいても、『未だ』、完全に救われてはいない。」そういうことです。
パウロは今日の箇所で、「新生、聖化の恵みに与って、『既に』救われてはいても、『未だ』、完全に救われてはいない。」そういった主張を、何度も何度も繰り返しています。その証拠に12節でも、「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」そう言っています。そして、それに続く13節でも、「既に捕らえたとは思っていません。」そう言っています。
そういうパウロの言葉から感じることが出来るのは、彼には主イエスのようになりたいという欲望あったということ。主イエスに憧れていたということです。
主イエスのようになりたいという欲望や、主イエスに憧れを抱くことが聖化です。そんな聖化が目指すところは、主イエスの十字架を追体験するようになることです。別の言葉で言うと、主イエスの十字架の軛を負うことが出来るようになることです。
キリスト者であれば、誰しもが、主イエスの十字架を追体験出来るようになること。主イエスの十字架の軛を負うことが出来るようになること。そういったことに、憧れを抱くのです。
真(まさ)にパウロの人生は、主イエスの十字架を追体験出来るようになること。主イエスの十字架の軛を負えるようになること。それを目標として、ひたすら走っていました。そのようなパウロの歩みこそが、再臨に時に備えている歩みであり、完全な神の国の民になっている印であり、完全に永遠の命を得ている何よりの証拠です。
パウロは、そんな自分の歩みをフィリピ教会に勧めました。
パウロは今日の箇所で、競技場で走る人をイメージして語っています。マラソンランナーは、レースが始まると、後ろを振り返ることなく、ひたすらゴールを目指して走るのです。マラソンランナーは、何となく走るのではなくて、賞を得ようとして、真剣に走ります。パウロは、今日の箇所を通して、「それこそが、私たちキリスト者である。」そう言っているのです。
私たちは、何となく信仰生活をこの世で送っているということではないのです。明確な目標があって、そこに向かって走っているのです。その目標が、再臨の時に備えることであり、完全な神の国の民となることであり、完全な永遠の命に与ることなのです。
私たちキリスト者は、そのことを目標にして、罪に満ちているこの世を走っています。
キリスト者の姿を描いた絵、聖人と呼ばれる人の肖像画を見るならば、それらは必ずと言って良いほど、「右斜め上45度」の方向を見ています。後ろを見たり、うつむいて下を見ていたりするような絵はありません。それは、信仰に生きていた人たちは、明確な神の国への憧れを持って、天を見上げ、神の王座を見据えて生きたことを示しています。
私たちが毎週日曜日に、仙台青葉荘教会に集って礼拝を守るということは、先週一週間、主イエスの復活の命である御言葉に生ききれなかった自分の罪が、主イエスと共に十字架に架けられて死んで、主イエスの復活の命である御言葉に養われて、日曜日から始まる一週間を生きていくことを意味します。つまり礼拝は、神に背く罪の死と、神の言葉による復活を体験する場なのです。神の言葉による死と再生が自分に起こる礼拝を捧げることが、神に仕えるという意味なのです。
私たちは、日々の慌ただしい歩みの中で、神の言葉による死と再生を体験して生きる大切さを、直ぐに忘れます。だから、毎週日曜日、此処に集うことが大切なのです。
ある人たちは、「毎週日曜日、教会に集うことは難しい。」そう言われるかもしれません。キリスト教は、「~しなければならない」そういう宗教ではありません。でも、聖書は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」そう言っています。礼拝に出られない、最もな理由はきっとあるでしょう。でも、神の国と神の義を求める思いが弱くなってはいけません。
神の国というからには、個人で礼拝していれば良いということではありません。キリスト者の集まりに参加して、そこで神の義を得るために、聴くことの出来る聖餐である聖書の解き明かしや、五感で味わうことの出来る聖餐を受けることが大切なのです。
それはそうと、パウロは12節で、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」そう言っています。
パウロは此処で、「自分が完全に聖化されて、完全な永遠の命を得ているわけではない。なんとか、完全に聖化されて、完全な永遠の命を得ようと努めている。それは、自分が主イエスの十字架・復活・昇天の御業によって救われて、主イエスのようなりたいと願っているからである。」そう言っているのです。
全ての人が救われるために、主イエスが、十字架・復活・昇天の御業を成して下さったのです。全ての人が救われるために、主イエスが救いの御業をなした神の恩寵のことを、先行恩寵と言います。その先行恩寵が自分の心に響いてきてこそ、「完全に聖化されたい。完全な永遠の命を得たい。そう思わされるようになるのです。」
そう思わされるようになること。それが、自意識ではなくて、神意識に生きるようになっている状態なのです。
神意識に生きていることが、「キリスト者の完全」なのです。でも誤解しないで下さい。「キリスト者の完全」とは、私たちが完全に神意識に生きている状態になっていることではありません。完全に神意識に生きることが出来た御方は、主イエスしかいないのです。私たちは、完全に神意識に生きることが出来た主イエスに似た者になろうと、前のめりに突き進んでいくだけです。
キリスト者の信仰の生涯は、よく出エジプトの旅にたとえられます。エジプト人の奴隷状態であったところから、神の民とされて、言葉を換えていえば、神の奴隷となって、神の約束の地カナンに向かっていく旅人のようなものです。この旅で印象深いことは、40年の旅の最後に、約束の地に入れた人は、最初に出エジプトの旅を始めた時の人の中の、ほんの一握りの人たちだけだったということです。モーセでさえも、約束の地に入ることが出来ませんでした。モーセはヨルダン川を渡る前に、ピスガの山頂に登って、約束の地カナンを見渡しました。でも、そこには入れませんでした。約束の地カナンを目前にして、そこを仰ぎ望みながら、この地上の生涯を閉じたのです。
私たちの信仰の生涯も同じです。約束の地である完全な天の御国を目指してはいても、生きている内に、そこに入ることはおそらく出来ません。この地上の生涯の中で、完全な天の御国に入ること、完全な復活の体を手にすることはおそらく不可能です。でも、私たちは既に、いつの日か、完全な天の御国に入ることが出来る約束、完全な復活の体が与えられる約束が与えられています。その約束を信じて、その約束がいつの日か、自分に訪れることを目標にして、完全な御方である主イエスに似た者になろうと、前のめりに突き進んでいくことが大切なのです。
聖化を学んでいる今日、完全な御方である主イエスに似た者になることを目指して、前のめりに突き進んでいくことを大切にしながら、今週一週間、皆さんと共に歩んでいければと思います。
最後に一言、お祈りさせて頂きます。