2025年4月13日 仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録8章14節-25節

[聖霊を受けるとは]

牧師 野々川康弘

 8章は、フィリポの福音宣教のことが記されています。フィリポは、サマリアで福音を宣べ伝えた後、サマリアから南の方にあるエルサレムからガザに向かっていく道に行って、異邦人であるエチオピアの宦官に福音を宣べ伝えました。

それにしても何故フィリポは、サマリアで福音を宣べ伝えていたのでしょうか。それは、ステファノが殺されたのを期に、エルサレム教会に大迫害が起こり、教会の人たちがユダヤとサマリアの地に散らされたからです。

 この時フィリポは、サマリアの地に散っていったのです。だから彼は、サマリアの町で福音を宣べ伝えていたのです。フィリポがサマリアで福音を宣べ伝えた結果、12節に記されていた通り、多くの人たちが主イエスの救いを信じ、洗礼を受けたのです。その結果、サマリアの町に教会が生まれたのです。そのことを知ったエルサレムの使徒たちは、14節に記されている通り、ペトロとヨハネを派遣しました。彼らがサマリアの教会に着いた時、17節に記されている通り、聖霊を受けるように、教会の人たちに手を置いて祈ったのです。その理由は、洗礼は受けてはいても、まだ聖霊が、彼らの上に降っていなかったからです。

 実は、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」という17節の出来事は、色々な解釈がなされています。

 例えば、聖霊を受ける聖霊体験を重んじる聖霊派の人たちは、17節を、水の洗礼と、聖霊による洗礼を、区別する根拠にしています。つまり、「サマリア教会の人たちは、水による洗礼では、まだ信仰確証を得る、キリスト者にはなっていなかった。でも、ペトロたちが来て、手を置いて祈った時に、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊が自分に降る体験を経て、彼らは信仰確証を得るキリスト者になった。だから、水の洗礼だけではだめなのだ。聖霊によるバプテスマを受けてこそ、本物の信仰者になれる。」そう主張するのです。ホーリネス教会も、聖霊派と似たような立場に立っています。

 それはそうと、17節は別の解釈もあります。17節を見ますと、使徒たちがサマリア教会の人たちに手を置いて、聖霊を授けていることが分かります。つまり、聖霊を授ける権威は、使徒にあることが分かるのです。皆さんが既にご承知の通り、フィリポは、ステファノと共に選ばれた、7人の奉仕者の内の1人にすぎなかった人です。そんなフィリポが、洗礼を授けているのです。だからカトリック教会などでは、信徒は緊急な場合、洗礼を授けることが出来るとしています。しかし、聖霊を授けることが出来るのは、使徒的な権威を受け継いでいる司教のみである。そうカトリック教会は解釈しているのです。確かメソジスト教会も、日本基督教団に加わる前は、牧師でなくても幹事であれば、洗礼を授ける権威を有している。そういう立場だったと思います。

 今、17節の出来事に関して、2つの解釈を皆さんに分ち合いました。でも、17節の解釈で、一番大切にしなければならない解釈が別にあります。それを知るためには、フィリポの福音伝道をもっと深く知る必要があります。

 サマリアという場所は、ユダヤ人たちが、複雑な思いを抱いている場所なのです。サマリアは、ユダヤ人たちにとって、外国でもなければ、同胞が住んでいる場所でも無かったのです。

 その理由は、サマリアには、ユダヤ人と異邦人の混血が多く住んでいたからです。だから、とても仲が悪かったのです。純粋なユダヤ人たちからすれば、サマリア人たちは、民族の純血を失った堕落した民なのです。だからユダヤ人たちは、サマリア人たちを異邦人以上に嫌って、軽蔑していたのです。純粋なユダヤ人たちにとって、サマリア人たちは異邦人たち以上に、付き合いたくない人たちだったのです。これには、紀元前722年のアッシリア捕囚が関係しています。サマリアは、かつて北王国イスラエルの首都でした。しかし、アッシリア帝国に滅ぼされた時、北王国イスラエルに住んでいた半分の人たちをアッシリ帝国に移住させて、アッシリア帝国からも、北王国イスラエルから移住させた人数分、北王国イスラエルに移住させたのです。そのことをした理由は、アッシリア人とユダヤ人の混血を増やして、ユダヤ人のアイデンティティーを奪い取って、支配しやすくするためです。実際、フィリポが生きていた当時、サマリアには、アッシリア人とユダヤ人のハーフが沢山住んでいたのです。だから純粋なユダヤ人は、サマリア人や、サマリアの地域を嫌っていたのです。フィリポはそんなサマリアで、「主イエスこそ、ユダヤの民に約束されていた救い主である」そう語っていたのです。その結果、それを信じる信仰者たちの群れである教会が生まれたのです。

 14節には、「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。」そのようにしか書かれていません。でも、使徒たちにとって、サマリア人たちが主イエスの救いを受け入れたことは、喜びというよりは、驚きだったと思います。きっと使徒たちは、「忌まわしい混血のサマリア人たちが、神の言葉を受け入れるなんて。。。。」そう思ったはずです。でも、主イエスの福音は、ユダヤ人とサマリア人の間にある壁を、とうてい乗り越えることが出来ない壁を、簡単に乗り越えるのです。でも人間は、なかなかそのことを信じられないのです。だからこそ、使徒たちが共に祈って、話し合った結果、ペトロとヨハネを、サマリアに遣わすことを決めたのです。サマリアで福音を宣べ伝えていたフィリポが、かつてステファノを含む、7人の奉仕者の一人として選び出された理由は、エルサレム教会の中に、ギリシャ語を話すユダヤ人たちとヘブル語を話すユダヤ人たちの間で、いさかいが起っていたからです。エルサレム教会内では、外国生まれのギリシャ語を話せるユダヤ人たちは、ギリシャ語を話せない生粋のユダヤ人たちから軽蔑されていたのです。だから、いさかいが起こっていたのです。そのいさかいを解決するために、外国生まれのギリシャ語を話せるユダヤ人7人が、選ばれたのです。つまりフィリポは、外国生まれのギリシャ語を話せるユダヤ人であったが故に、生粋のユダヤ人たちから軽蔑されたり、低く見られたりしていたのです。そういう経験があった彼だからこそ、サマリア人を差別する思いから解放されていたのです。だから彼は、純粋なユダヤ人たちから軽蔑されていたサマリア人たちも、主イエスの救いが与えられることを確信していたのです。そんなフィリポは、異邦人であるエチオピアの宦官(男性器を切った人)にも、福音を宣べ伝えて、洗礼を授けています。

 使徒言行録8章は、そういうフィリポの福音伝道を書き記しています。それは、使徒言行録の著者ルカが、主イエスの救いが、生粋のユダヤ人から混血の人たちへ、混血の人たちから異邦人たちへ、宣べ伝えられていったことを教会の歴史として書き残したかったからです。つまりルカは、最初に世界宣教に踏み出した人がフィリポであることを、8章で書き残したかったのです。

 でも、フィリポが偉大な人物だった訳ではないのです。主イエスの救いが、生粋のユダヤ人からサマリア人へ、サマリア人から異邦人へ宣べ伝えられていったのは、主イエスが予告していたことが実現しただけなのです。使徒言行録1章8節を見ますと、主イエスが昇天される前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムはかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そう言っていたことが分かります。その主イエスの言葉が、フィリポの働きによって実現し始めたのです。もっと言うと、ステファノの殉教が、書き記されていることに続いている8章1節で、サウロの名が出て来ていることも世界宣教と関係しています。著者ルカが、8章1節でサウロの名を書き記した理由は、サウロこそがステファノの殉教を期に、復活の主イエスと出会うことになって、世界宣教をしていく人になることを指し示すためです。

 サウロとは、後のパウロのことです。彼が、世界宣教を始めたフィリポの働きを受け継いで、世界宣教を完成させていくことになるのです。つまり、フィリポの世界宣教が記されている8章の冒頭で、サウロの名が記されているのは、この後パウロが、フィリポが始めた世界宣教を受け継いで完成させていくという伏線なのです。

 実はサマリア伝道が、外国生まれのフィリポによる伝道だったという事実から、見えて来ることがあるのです。それは、エルサレムにいた使徒たちが、ペトロとヨハネを、サマリアに派遣した理由です。使徒であったペトロとヨハネは、イスラエルで育った生粋のユダヤ人です。そういう人たちが、外国生まれのフィリポの伝道で生まれた、混血のサマリア人たちが中心となっている教会に送られたのです。

 さて、何故、エルサレム教会で迫害が起こって散らされたにも関わらず、使徒たちをサマリアへ送り出すことが出来たのでしょうか。そのことを紐解く鍵が8章1節です。そこには、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」そう記されています。「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」。。。散らされて行ったのは、使徒たち以外の人たちだったのです。つまり、使徒たちはエルサレム教会に残ることが出来ていたのです。これはとても不思議なことです。教会が迫害されるとしたら、真っ先にターゲットになるのは、普通は使徒たちです。でもそうではなかったのです。その事実から分かってくることがあります。それは、最初のエルサレム教会の迫害は、ギリシャ語を話す外国生まれのキリスト者たちに対してだったということです。

 6章9節以下に記されている通り、ステファノを最高法院に訴えたのは、ステファノと同じギリシャ語を話すユダヤ人たちだったのです。つまり、ステファノを殉教に追い込んだ迫害は、ステファノの殉教を期に起こってきた大迫害は、ギリシャ語を話す外国生まれのユダヤ人による、ギリシャ語を話す外国生まれのキリスト者に対しての迫害だったのです。ということは、生粋のユダヤ人であった使徒たちは、迫害の対象ではなかったのです。だから、迫害を受けている最中にあっても、使徒たちを中心としていたエルサレム教会はちゃんと機能していたのです。エルサレム教会が機能していたからこそ、サマリアに使徒たちを派遣することが出来たのです。

 使徒たちを派遣した目的は、ギリシャ語を話す外国生まれのフィリポが形成した教会を、ちゃんと目に焼き付けて置く必要があったからです。エルサレムには、使徒たちが形成した生粋のユダヤ人たちを中心とした教会があり、サマリアには、外国生まれのフィリポの伝道によって、混血のサマリア人たちを中心とする教会が生まれていたのです。使徒たちがエルサレム教会で祈って話し合った結果、エルサレム教会と、サマリア教会の信仰の一致を確認しなければならないということになったのです。

 そう考えるなら、17節の「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」という出来事は、生粋のユダヤ人たちを中心としたエルサレム教会と、外国生まれのフィリポの伝道によって生まれた、混血のサマリア人たちを中心とした教会の間に、聖霊による一致が与えられたことであると、解釈することが出来ます。実はそれこそが、使徒言行録全体を貫いている大事なテーマなのです。

 エルサレムでは、生粋のユダヤ人たちを中心とした教会が生まれました。でもその群れは、次第にユダヤ人という枠を越えて、混血のサマリア人たちにも、さらには異邦人たちにも広がって、教会が出来ていったのです。このことは、自然にそうなっていったのではありません。

 生粋のユダヤ人たちが聖霊の囁きに耳を傾けて、「自分たちこそが、選ばれた神の民なのだ。」そういう思いを捨てて、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じる信仰というただ一つの絆によって、自分たちが敵視していた身近なサマリア人たちや、自分たちが見下していた異邦人たちと共に、一つの教会に連なるために、別の言葉で言えば、公同教会に連なるために、乗り越えなければならない壁をいくつも乗り越えていった結果なのです。教会は、聖霊の働きに自分の身を委ねてこそ、乗り越えなければならない壁を、一つ一つ乗り越えていくことが出来るようになるのです。

 実は、使徒言行録というのは、聖霊の働きに自分の身を委ねて、乗り越えなければならない壁を、一つ一つ乗り越えていった教会の記録なのです。

 仙台青葉荘教会で言えば、聖霊の働きに身を委ねて、乗り越えなければならない壁を、一つ一つ乗り越えていった記録が、教会記念誌なのです。教会記念誌は、ホーリネス教会の特色を、神から与えられている仙台青葉荘教会が、公同教会に連なるために聖霊の息吹を受けた仙台青葉荘教会員たちの言葉や行動を通して、一つずつ乗り越えていかなければならない壁を、乗り越えていくことが出来た記録なのです。

 使徒言行録は、人間的な色々な違いや対立が、聖霊の働きに耳を傾けることで、乗り越えることが出来ていった記録なのです。聖霊降臨以降、聖霊は私たちの内で、私たちの間で、働いていて下さっています。ペトロとヨハネが、一人一人に手を置いて祈った時に降られた聖霊が、今、私たちの内に住んでおられるのです。その聖霊が、私たちに信仰を与え、主イエスの救いに与らせて、人間的な色々な違いの中で、つい対立を望んでしまう私たちの内や、私たちの間で働かれて、一つのキリストの体として結び合わせて下さっているのです。ということは、逆に言えば、人間的な色々な違いの中で対立をして、教会を離れていってしまっている人たちには、聖霊が働いていないことになります。でも大丈夫です。聖霊が働いていないとしても、私たちが怯えたり、心配したりする必要は全く無いのです。聖霊が働いていないことが分かることが幸いなのです。聖霊が働いていないことが分かれば、自分が聖霊の囁きに耳を傾けていない罪を、認めれば良いのです。そして、悔い改めれば良いのです。

 何故でしょうか。それは、聖霊がおられることを無視して、人間的な色々な違いの中で対立して、神や、神にある兄弟姉妹から離れていってしまっている自分の罪の代価を支払うために、即ち、神や、仙台青葉荘教会から離れていってしまっている自分の罪の代価を支払うために、父なる神は、独り子である主イエスを十字架に架けられたからです。

 本当に自分に聖霊が働いていて、神に背を向け歩んでいく罪の身代わりの十字架に感謝があるかどうかは、ホーリネスの群れに連なる仙台青葉荘教会にちゃんと自分が属して、公同教会の一員として歩んでいるかどうかで分かるのです。私たちが、ホーリネス教会に連なっている仙台青葉荘教会を選んだのではないのです。神が私たちを、ホーリネス教会に連なっている仙台青葉荘教会に召して下さったのです。自分にどんなことが起こってこようとも、その神の召しに従っているかどうかで、聖霊が自分にちゃんと働いていて、主イエスの十字架に感謝があるかどうか、主イエスの十字架の軛を負っているかどうかが分かるのです。

 私たちは、主イエスが昇天されて、聖霊が降られた以降の聖霊時代を生きています。聖霊が働いて私たちを導く時代は、主イエスが再臨されるその時まで続くのです。

 使徒言行録は、聖霊時代に聖霊の囁きに耳を傾けて、使徒たちが聖霊の働きに押し出されて言ったこと、行なったことが録されている書簡です。だから使徒言行録と言うのです。そんな使徒言行録から見えて来ることは、私たちに降った聖霊が、十字架信仰を与えた私たちの内に住んで、人間的な色々な違いの中で、つい対立を願ってしまう私たちの内や、私たちの間で働かれて、神が、私たちを召した個教会に結び合わせながら、キリストの体なる公同教会に私たちを結び合わせていくということです。そういう教会の歴史が使徒言行録なのです。

 私たちは、使徒言行録の時代に生きています。私たちの仙台青葉荘教会も、使徒言行録の延長上にあることを覚えて、今週一週間、聖霊の囁きに耳を傾けて、聖霊に自分の全てを委ねて、皆さんと共に歩んでいければと心から願っています。

 とはいっても、私たちは、いつも聖霊の囁きに耳を傾けないような罪人です。そんな私たちは、人間的な色々な違いの中で、つい対立を起こし、神や人から離れていってしまいます。

 私たちがそのような罪深い存在だからこそ、父なる神が独り子主イエスを、そういう私たちの罪のために、十字架に架けて下さったのです。その事実をいつも見上げて、神にいつも感謝の祈りを献げて、罪を悔い改めて、聖霊の囁きにいつも耳を傾けて、ホーリネス教会である仙台青葉荘教会に、皆さんと共に、結び合わされていきたいと心から願っています。

最後に一言お祈りします。