2025年3月3日 仙台青葉荘教会礼拝

使徒言行録7章17節-43節

「力ははいらない」

牧師 野々川康弘

 前回、申し上げました通り、ステファノが説教で語ったのは、イスラエルの民の歴史です。

7章16節までは、イスラエルの先祖アブラハムのこと。後にイスラエルの民となるヨセフの家族が、エジプトに移住したこと。そのことを語っていました。

でも、今日の17節から、ステファノはモーセのことを語っています。

ステファノが、モーセのことをどう理解をしていたのか。それがよく分かるのが、今日の箇所です。

彼はユダヤ人の伝統に沿って、モーセの生涯を40年ごとに、三つに区切って考えています。

申命記を見ますと、モーセの生涯が120年であったことが分かります。そのモーセの生涯を、三つに分けて考えているのです。

一つ目は、モーセの誕生から40歳までのことです。それが7章20節~22節です。

そこでステファノは、男の子が生まれたら、ナイル川に投げ込めというファラオの命令が下った時に、モーセが三ケ月間かくまわれていたこと。

かくまい通すことが出来なくなって、捨てられてエジプト王女に拾われたこと。エジプト王女の子として、最高の教育を受けて育ったこと。それらのことを語っています。 

二つ目は、40歳から80歳までのことです。それが7章23節~29節です。

此処では、モーセが40歳になった時に、奴隷として、苦しめられて、虐待されていたイスラエルの同胞を救うために、エジプト人を殺してしまったこと。その次の日に、イスラエル人どうしの喧嘩の仲裁に入ったこと。その時に、モーセが突き飛ばされて、「だれが、お前を我々の指導者や、裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしをも殺そうとするのか」そう言われたこと。その時、自分がエジプト人を殺したことを告げられて、自分が捕まってしまう恐怖から、ミディアン地方に逃れたこと。そこで40年間過ごすことになって、そこで結婚して、二人の子供をもうけたこと。そういったことを語っています。

三つ目は、80歳~120歳までのことです。それが、7章30節~43節です。

そこでステファノは、80歳になった時、シナイ山の近くの荒れ野で燃える柴の炎の中から天使がモーセに現れて、主なる神のみ声を聞いたこと。神が、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」そうモーセに語りかけたこと。神がモーセを出エジプトの指導者として用いたこと。そういったことを語っています。

つまり、7章1節~7章43節までのステファノの説教は、アブラハムに約束を与えて、イスラエルの民の旅路を導いた神が、エジプトに奴隷として売られたヨセフと共にいて、大臣にさせ、イスラエルの民をエジプトに逃れさせて、生き延びる道を切り開いた神が、イスラエルの民をエジプトから脱出させるために、モーセを用いた。そういった説教内容なのです。

私は最初の方で、「ステファノは、今日の箇所でモーセのことを語っている。」そう言いました。でも彼は、モーセの活躍や、業績のことは、ほとんど語っていないのです。36節で、「この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました」そう言っているのみです。

つまりステファノは、モーセの活躍や、業績のことよりも、主なる神が、モーセをたてられたところまでのことを詳しく語っているのです。

何故ステファノはそうしたのでしょうか。

そのことを紐解く鍵が35節と27節にあります。35節でステファノは、「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」そう言っています。またステファノは27節で、「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』」そうモーセが言われたことを語っています。実はこの27節の言葉を纏めているのが、25節の言葉なのです。そこでステファノは、「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。」そう言っています。

つまりステファノは、25節の「自分の手を通して」という言葉と、35節の「天使の手を通して」という言葉を、対比させているのです。

ここにステファノが、モーセの生涯を語った時に、何を中心として見つめていたのか。そのことが示されています。モーセが出エジプトの指導者になったのは、自分の手を通してではありません。自分の手、自分の情熱、自分の力、自分の決心によって、同胞を助けようとした時にモーセは挫折したのです。

モーセは、主なる神の御手によってこそ、同胞を、エジプトの奴隷状態から救い出すことが出来たのです。

ステファノが、モーセのことで語っていたのはそのことだったのです。イスラエルの指導者だったモーセの素晴らしい働きは、彼の力ではなくて、主なる神の御力によったのです。

つまりステファノは、「モーセを冒涜している。」そう自分に言ってくるユダヤ人たちや、ユダヤ人の指導者たちに、「本当の意味で、モーセを敬(うやま)って、モーセの教えに従って歩むということは、自分の力や決意で出来るものではない。そうではなくて、自分の力に頼り、挫折ばかりしてしまう私たちを、神が、御自分の御手でしっかり支え、立たせて、用いて下さる。そのことを知ることが、神の民である。」そう主張しているのです。

そんなステファノは38節で、モーセがイスラエルの民と、神との間に立って果たした役割を語っています。そこを見ますと、「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」そう言っています。

此処でのポイントは、「命の言葉」という言葉です。モーセは、神と、イスラエルの民との間に立って、神から受けた「命の言葉」を受けて、その受けた「命の言葉」を人々に伝えたのです。それが、モーセが果たした役割です。

では、モーセが人々に伝えた「命の言葉」とは、一体どういう言葉だったのでしょうか。それは、モーセの十戒を中心とする律法です。なので、モーセの十戒が、神から与えられた「命の言葉」であると言って良いと思います。モーセの十戒こそが、別の言葉で言うと、神を愛し、隣人を愛することが、私たちが本当の命を保つために、神から与えられた言葉なのです。

つまり、父・子・聖霊の三位一体の神が、相互内在、充当という愛の交わり共同体であるように、私たちが、三位一体の神と、隣人と、相互内在、充当という愛の交わり共同体を造り上げていくこと。それが、本当の命を保つための、神から与えられた言葉なのです。

その言葉を、人々に伝える仲立ちの働きが、モーセに与えられたのです。

でも、ユダヤ人たちや、ユダヤ人の指導者たちは、「モーセの律法を、神の絶対の掟として位置づけて、それを自分の力で守って行なっている人が、神の民の印である。」そうステファノに主張したのです。だからこそステファノは、自分の説教を通して、「それは正しい理解ではない。」そう主張したのです。

ステファノの結論は、「律法を、つまりはモーセの十戒を守ることを、神の民である、目に見える印とするのは、本当にモーセを敬(うやま)っていることにはならない。モーセに聞き従っていることにはならない。律法を守ることを、神の民である、目に見える印とする行為は、イスラエルの先祖たちが、モーセに聞き従わず、雄牛の像を造って、拝んでいたことと同じである。」そういうことだったのです。

7章39節以下で、ステファノはそのことを語っています。

モーセが、主なる神から十戒を授かるために、シナイ山に登っている間、山の麓にいたイスラエルの民は不安になり、アロンに、「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです」そう言ったのです。その結果アロンは、若い雄牛の像を造ってしまったのです。そのことは、「自分たちを救い、導いてくださる神を、目に見える形としてちゃんと持っていたい。」そういう人間の思いからしたことです。モーセを通して与えられた、目に見えない神の「命の言葉」に依り頼むのではなくて、目に見える依り所を求めてしまったのです。人間の愚かさはそこにあります。

ステファノは7章42節から、イスラエルの民が荒れ野の旅路の中で、いろいろな偶像を拝んだことを語っています。天の星々を拝んだり、モレクの神輿や、ライファンの星を担ぎ回ったりしたのは、全てちゃんと目に見える形で、救いを実感したいという人間の心からです。

そういった人間の心が、律法を守って神殿で礼拝を行うという目に見える印に拠り頼み、救いを自分に実感させるように自分を導いていくのです。

でも本当のイスラエルの民とは、アブラハムのように、神の約束の言葉、つまり、命の言葉にのみより頼み、自分の心の拠り所を捨てて旅立って、主なる神の導きに自分の身を委ねて、歩んでいる人のことです。モーセもそのように歩んだ人です。

今日の箇所を通してステファノは、「律法と神殿を、目に見える神の民の印としてしまうことは、神と共に歩まず、自分の安心出来る自分の故郷に留まっているようなものだ。」そう、自分の説教を通して熱弁したのです。

そんなステファノは、モーセを尊重しているつもりのユダヤ人たちや、ユダヤ人の指導者たちに対して、モーセが語った一つの預言を語っています。その預言が37節に記されています。そこを見ますと、「神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。」そう記されています。これは申命記18章15節の言葉です。

「神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。」この37節の言葉は、主イエスのことです。

主イエスは、神と、人々との仲立ちをしました。主イエスは、主なる神の「命の言葉」に生きること、つまり、神を愛し、隣人を愛するように生きること。そのことを私たちに伝えて下さいました。更に言えば、主イエスご自身が、その「命の言葉」そのものなのです。主イエスの思い、言動、行動が、神の「命の言葉」であり、私たちを本当に生かす言葉なのです。

考え深いことにステファノは、主イエスがモーセのような預言者であることを語った時に、彼は主イエスと、モーセの共通点を見出していたのです。

モーセは殺されてこそいませんが、人々から「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか」そう拒絶されました。実は主イエスも、人々に拒絶された結果、十字架にかけられたのです。

また、ステファノは、神がモーセをお立てになって、出エジプトの指導者としてお用いになったように、神は主イエスをお立てになって、罪の奴隷からの解放という、出エジプトを成し遂げて下さった御方であるという理解があったのです。

何故そういえるのでしょうか。それは37節の「神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる」の「立てられる」という言葉は、「復活させる」そういう意味もあるからです。父なる神が、主イエスを罪の呪いである死から復活させたように、罪の呪いの死から、新しいイスラエルの民への出エジプトを成し遂げて下さったのです。

ステファノは、モーセのことを語った時に、そこに、主イエスの姿をも見ていたのです。つまりステファノは、「モーセを正しく受け止めて、モーセを尊重することと、主イエスを救い主として信じることはイコールである。」そう、自分の説教を通して主張していたのです。

ステファノは、「自分が属している教会は、モーセを冒涜しているのではない。そうではなくて、自分が属している教会は、本当の意味でモーセを尊重して、モーセの伝えた「命の言葉」に生きている。そういう真のイスラエルが、自分が属している教会である。」そう主張していたのです。

ステファノは、モーセが荒れ野の集会で「命の言葉」を伝えたことを、38節を通して語っています。38節に出て来る「集会」という言葉は、ギリシャ語で「エクレシア」です。つまり集会とは、「教会」のことなのです。

真のイスラエルは、律法や神殿によってなんかではなくて、主イエスによって齎された「命の言葉」が聴かれる教会、主イエスという「命の言葉」が受け入れられる教会においてこそ成り立つのです。教会が、真の神の民なのです。私たちは教会の礼拝で、命の御言葉を通して、神と出会い、自分の安心出来る安全地帯を捨てて、荒れ野のようなこの世界を、主なる神の約束の御言葉のみを信じて旅している者です。

実はそれがキリスト者です。そんなキリスト者の歩みには、目に見えるものに引っ張られていってしまう、堕落した私たちの力は一切不要です。

むしろ、目に見えるものに引っ張られていってしまう、堕落した私たちの力は、神の通り良き管となるためには邪魔でしかないのです。

 かつてのイスラエルの民は、本当の主なる神の言葉を持ち帰るモーセを待つことが出来ずに、金の子牛という偶像を造って、それを拝みました。

何故でしょうか。それは、目に見えない主なる神に信頼することなく、目に見える何かに依り頼もうとしたからです。自分の中に、安心できる目に見える確かなもの、目に見える確かな拠り所、それを持とうとしたのです。

私たちも同じことをしてしまっているのではないでしょうか。おそらく私たちは、具体的な偶像を造って、それを拝むなんてことはないと思います。

しかし、ステファノを裁いたユダヤ人たちや、ユダヤの指導者たちが、目に見えて律法を守ること、目に見えて礼拝を守ること、そのことを神の民の印として、それに依り頼んだのと同じ間違いを、私たちも犯しやすいのです。

ステファノは、そのような偶像を求める思いは、「エジプトをなつかしく思う」ことである。そう7章39節で語っています。

エジプトでの奴隷状態を、何故なつかしく思うのでしょうか。それは、そこから解放されて、神の民として自由に生きることは、目に見えない神の約束の言葉のみを信じて、その言葉にのみにより拠り頼んで、自分の中には何の拠り所も、確かさも、安心感も持たずに生きることだからです。

主イエスの救いを信じて、その救いにあずかって生きることは、ある面で、人間的には不確かなものに拠り頼んで生きていくことを意味するのです。そしてそれが意味することは、自分の中に、何の保証も、何の安心感も持つことなく生きていくということです。でも、そこにこそ、本当に私たちを生かす命があるのです。実際に、神の独り子、主イエスの十字架・復活・昇天の御業を成し遂げて下さった救いを信じて、神の子として生きていくことは、私たちが自分の中に見出そうとするどのような確かさにも勝った、本当の確かな平安、本当の確かな慰めがあるのです。

ステファノは、その本当の確かな平安、本当の確かな慰めを与えられて歩んだからこそ、殉教の死をとげることが出来たのです。本当の確かな平安、本当の確かな慰めは、殉教して死ぬその時までステファノを支え続けたのです。

私たちも、自分の中から湧き出て来るような主観的な平安や、主観的な慰めを得ようとして、主イエスの救いを追い求めることに必死になるのではなくて、ステファノのように、主イエスの救いそのものに、平安や、慰めを得て、目に見える確かなものに引っ張られていく堕落した自分の力を捨てて、この世を歩んでいけたらと願っています。

今週一週間、いつも自意識から遠のいて、神意識に生きることが出来るように、皆さんと共に祈りつつ、共に歩んでいけたらと心から願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。