2025年1月1日 仙台青葉荘教会元旦礼拝

ペトロの手紙一3章13―16節

「私たちはキリストの証人」

牧師 野々川康弘

新年明けましておめでとうございます。

今日は、ペトロの手紙1の3章13節―16節までの御言葉に、耳を傾けます。

この手紙が書かれた時、初代教会への迫害が強くなりかけていました。だからこそペトロは、「励まし」の手紙を、書き送ったのです。

今日の13節を見ますと、「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば幸いです。」そう記されています。

此処で注目すべきことは、ペトロが、「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」そういう言葉に続いて、「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば幸いです。」そう語っていることです。

つまりペトロは、「善いことに熱心な義なる人が、苦しみをうけてしまう、特殊な状況が起こりうる。」そう言っているのです。

じゃあ、ペトロが言っている「善いことに熱心な人」、「義のために苦しみを受ける人」とは、一体どういう人なでしょうか。

それは、自分が勝手に思っている良いことではなくて、神の御心にそって、神や隣人にとっての善いことを、熱心に行える人のことです。

13節の「熱心」という言葉は、別の箇所では、「熱心党」と訳されて、使われている言葉です。

主イエスの12弟子の中に、「熱心党のシモン」という人がいました。熱心党とは、熱狂的な愛国者たちの集まりです。自分の母国を、外国の支配から解放するためなら、喜んで命を投げ出してまで、外国の勢力を追い出そうとしていた人たちです。

つまり、13節の「熱心」という言葉は、熱心党の人たちぐらい、神の御心に沿う、神や隣人にとっての、善い行いに励みなさいということなのです。

教会は、主イエスを礼拝するために集められた群れです。そんな教会が、ローマ皇帝礼拝を、強要されるようになったのです。そんな中、教会は、皇帝以外のものを礼拝しているという理由で、迫害を受けるようになってきていたのです。

そういった中にあって、ペトロが言ったことが、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」ということなのです。

このペトロの言葉は、主イエスの山上の説教を、思い起こさせるのです。主イエスは、山上の説教の中で、こう言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

此処で言う「幸い」とは、神の祝福があるということです。キリスト者は、迫害される最中においても、決して消えてしまうことがない、神からの祝福があるのです。

それが、主イエスがいう幸いなのです。キリスト者に与えられているその幸いは、外部からの力によって左右されることが無い。外部からの圧力は、キリスト者の内に住んでおられる聖霊に、勝つことが出来ないのです。

普通に考えれば、神や隣人と、正しい関わりに熱心に生きていたとすれば、歓迎されるはずなのです。でも、現実は甘くない。神や隣人と、正しい関わりに熱心に生きていたとしても、迫害を受けるなんてことがあるのです。それは、人間が罪人だからです。

神の御心に叶う、隣人にとって本当に善いことを行おうとする時、とばっちりを受けそうになるなんてことが、起こり得るのです。

 私がとても考えさせられた事件をお分ちします。

「2006年8月3日、富山駅発大阪駅行き特急「サンダーバード」車内で、21歳の女性の隣に座った35歳の男性が、「俺はヤクザだ」「逃げると殺す」そう脅して、女性をトイレに連れ込んで、30分間も女性を恥ずかしめるという事件が起こりました。この時、異変に気付いていた付近の乗客は、「何をジロジロ見ている」そう怒鳴られて、誰も、女性を助けることをしないばかりか、誰も車掌に通報することもしなかったそうです。私は、もし私が、この事件に出くわしていたならば、自分は女性を助けられるだろうか。。。そう考えずにはいられませんでした。自分可愛さに、見て見ぬふりをしたのではないか。。。そう思わされたのです。」

罪深い人間は、神の御心に叶う、隣人にとって本当に善いことより、自分が損をしないことを一番に考えるのです。でもそこに、神は不在です。私たち人間は、エゴの塊です。いつも自分のことを一番に考えているのです。それが、聖書が浮き彫りにしている私たち人間の姿です。

そういったことを考えた時、神の御旨に沿った善いことに熱心であるためには、私たちは外部の敵ではなくて、自分自身と戦う必要が出て来るのです。

自分が痛い目に遭うのが嫌だから。。。そう思って、御言葉に従って生きることを止めたくなる自分と、戦う必要が出て来る。

善いことに熱心であるためには、主なる神以外のものを恐れたり、主なる神以外のものに心を乱されたりすることなく、主なる神に従うことが必要になるのです。

主なる神に従うためには、主なる神から自分の心が離れてしまわないように、自分自身と日々戦わなければならないのです。

ペトロは、そのことを良く知っていました。だからこそ15節で、「心の中でキリストを主とあがめなさい。」そう言ったのです。

ペトロは、人を恐れて、人に自分の心をかき乱されないために、いつも心の中で、主イエスを、「主」とあがめることが大切なのだと、教えているのです。

「キリストを主とあがめる」とは、具体的には、神に背を向けて生きる私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なれて、三日目に甦られた主イエスを、私たちの「救い主」であると、信仰をもって告白するということです。

今日、改めて吟味したいことは、私たちにとって、主イエスが、自分の人生の主、自分の救い主と、ちゃんとなっているかということです。

「かつてはそう思っていた時もあった。でも、今はそうなっていない。主イエスを、私の人生の中心ではなくて、自分の人生の端に追いやっている。」そんなふうにはなっていないでしょうか。

私たち人間は、弱く愚かな者で、世の在り方に、いつのまにか染まっている。いつのまにか、神を信じていない周りの人たちの影響を受けてしまっている。なんてことに、なっていたりするのです。

今日改めて、聖霊によって私たちの心を探って頂き、罪を示されたならば、悔い改めの祈りをもって、再度、心の王座に、主イエスをお迎えしたいと思うのです。

御子主イエスが、神に背を向ける私たちの罪のために、十字架にかかって死なれ、復活して、昇天して、聖霊を与えて下さったことを確信すること。それが、あらゆる恐れを退けて、私たちの心が満たされて生きる唯一の道なのです。

私たちが人を恐れずに生きるためには、主イエスが、聖霊を与える人であること。私たちを、すべ治めてくださる御方であること。私たちを支え守って下さる方であること。いつも私たちを慰めて下さる方であること。そういったことを信じる必要があるのです。

そういったことを信じるなら、私たちは人を恐れず、心が乱されることなく、神の御思いに叶った、善い業に励むことが出来るようになるのです。

初代教会の時代も、現代も、恐れる必要のない人たちを恐れたり、畏れるべき方をかえって畏れなかったりする私たち人間の弱さがあるのです。

だからペトロは、初代教会の人たちに、今日の箇所の励ましを与えたのです。そしてその励ましは、仙台青葉荘教会に属する私たちに対する励ましでもあるのです。

私たちが恐れるべき人は、主なる神のみです。周りの人の顔色を見るのではなくて、真(まこと)の救い主である、主なる神のみを、見つめて生きるのです。

15節後半-16節で、ぺトロは、キリスト者にふさわしい在り方を説いています。そこを見ますと「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

私たちが、迫害に負けることなく、神の御心に叶った、隣人にとって本当に善いことを行った時、キリスト者は、キリスト者の希望について、弁明が要求されるときがくるのです。その時、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」そうペトロは教えています。

熱を帯びることなく、淡々と、相手に敬意をもって、正しい聖書解釈で、理路整然に説明して、弁明を要求してきた相手が、キリスト者が抱いている希望に、生きることが出来るように導くことが大切なのです。

キリスト者に出来ること。それは、主イエスの十字架・復活・昇天という救いの御業を見上げて歩むことだけです。

でも、それが難しいのです。罪深いこの世を歩んでいくことは、決して平坦なものではないからです。色々な試練が私たちを襲って来るのです。それを忍耐することが出来るのは、本当に主イエスの救いの御業を見上げること、つまり、罪に対する勝利の十字架と、死に対する勝利の復活を、確信することによるのです。

それを確信していたことが、迫害を受ける中で、多くの殉教者が、教会から生み出た理由なのです。

キリスト者は罪に対する勝利と、死に対する勝利という希望があるのです。キリスト者は、その希望を見つめて日々歩んでいるのです。それは机上の空論ではないのです。

罪に対する勝利と、死に対する勝利という希望の「証人」となること。それがとても大事なことなのです。「証人」とは、主イエスの救いを見たこと、経験したこと、知ったことを、伝える人です。

ということは、私たちは自分で何を証しようか、そんな心配をする必要は無いのです。

何故なら、主イエスの救いを見たこと、経験したこと、知ったことは、聖霊から与えられることだからです。それらのことを与える聖霊は、それらのことに結び付く御言葉をも、教えて下さるのです。

そして、聖霊が教えて下さる御言葉は、主イエスが宿っています。何故なら、神の言こそ、主イエスという御方だからです。

つまり、聖霊の働きにより、自分が見たこと、経験したこと、知ったこと、別の言葉で言えば、自分が聖霊体験をしたことは、必ず主イエスそのものである御言葉と結びつくのです。

だからこそ、私たち自身が、何を証しようか、思い煩う必要は全く無いのです。

私たちが聖霊に導かれて、聖霊体験したことを、それを立証する正しい聖書の御言葉と共に、積極的に証していくことが大切なのです。

それが教会で積極的になされていった時にこそ、私たちは生きて働いている主なる神を知らされて、大きな慰めを受けるようになるのです。

1月の礼拝から、主なる神は、月に一度、聖霊体験をした証人を、仙台青葉荘教会の礼拝にたてて下さろうとしています。

みんなで、生きて働いておられる神を、豊かに見ることが出来る一年になることを、心から願っています。

最後に一言お祈りさせて頂きます。