エフェソ2章14節~16節
「議論を呼ぶ平和」
牧師 野々川 康弘
クリスマスおめでとうございます。
でも、クリスマスとは、一体どういう意味なのでしょうか。
実は、クリスマスという言葉は、「クライスト」という言葉と、「マス」という言葉の合成語です。クライストという言葉の意味は、「キリスト」という意味で、「マス」という言葉の意味は、「礼拝」という意味です。
つまり、キリストを礼拝することが、クリスマスなのです。
その意味では、クリスチャン個人の歩みとしては、毎日がクリスマスです。また、信仰共同体に属する一人の歩みとしては、毎週日曜日が、クリスマスです。
でも何故、クリスチャンは、そんなにいつも、キリストを礼拝するのでしょうか。
それは、イエス・キリストが、私たちがいつも、神様に背を向けて歩む罪の代価を支払うために、十字架に架かって死んで下さって、神様を「パパ~!」そのように、呼べるようにして下さったからです。
神様に、今まで背を向けていた私たちが、神様と向き合って、生きることが出来るようになっただけではなく、「パパ~!」そう呼ぶことが出来る程、親しい関係になることが出来る和解を成し遂げて下さったのが、イエス・キリストの十字架です。
そうなのです。イエス・キリストは、十字架に架かるために、天から降って、人となってこの世にお生まれになられたのです。
そのイエス・キリストの誕生を祝う礼拝をするのが、このクリスマスイブ礼拝なのです。
クリスマスイブとは、クリスマスイブニングの略です。
ユダヤの一日は、日没から始まります。だからこそ、イエス・キリストの誕生を祝う礼拝を、普段の礼拝とは別に、クリスマスイブの夜に、しているのです。
それはそうと、イエス・キリストは、イザヤ書9章5節では、「平和の君」そう言われています。また、今日の説教箇所であるエフェソの信徒への手紙2章14節では、「キリストは私たちの平和であります。」そう記されています。
皆さんは、「平和」という言葉から連想することは、一体何でしょうか。おそらく、何の問題もない、生きやすい穏やかな世界。それを連想するのではないでしょうか。
でも、そのような世界が実現していくことが、聖書の言う「平和」では無いのです。
聖書の言う「平和」には、色々な意味があります。でもその中でも、とても大切なことは、聖書の言う「平和」は、神に対する敵意という壁、人に対する敵意という壁。それを取り壊す、イエス・キリストのことであるということです。だからこそ聖書は、イエス・キリストのことを「平和の君」そう言うのです。「キリストこそが、私たちの平和」そう言うのです。
先程、「神に対する敵意という壁、人に対する敵意という壁、それを取り壊すイエス・キリストが、平和である。」そう申し上げました。
そうすると気になることは、「敵意」とは、一体どういう意味なのかってことです。
聖書の言う「敵意」とは、相手の存在を認めないことです。人間は、自分に苦難を与えた人に対しては、相手の存在を認めなくなるのです。関係を切って、関係の死で終わらせるのです。
でも、イエス・キリストは違うのです。イエス・キリストは、自分に苦難を与えた人すら愛し、和解に生きるのです。その究極が、十字架です。
ヨハネによる福音書15章13節を見ますと、こう記されています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
イエス・キリストの生涯の歩みを見ますと、イエス・キリストは、全ての人の、友となろうとしているのです。自分がたとえ、どんなに人から苦難を与えられようともです。でも、それだけではない。どうしても、神や人に対する、敵意という壁を壊せない、私たち罪人の友となるために、十字架に架かって死んで下さったのです。
私たちは、そのことをちゃんと信じて、イエス・キリストの友となれているでしょうか。別の言い方で言えば、私たちは、ちゃんと神様の友に、なれているでしょうか。
「友」とは、対等な関係であってこそ、「友」なのです。自分が何か一方的に、相手から受けることだけでは、「友」ではありません。逆に自分が、何か一方的に、相手に与えるだけでも、「友」ではないのです。
友とは、お互いに自分を分け与えることが出来る関係なのです。
だから、ヨハネによる福音書15章14節は、神の友となる条件として、こういったことを言っています。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
「わたしの命じること」とは、どんなに理不尽な目に、自分が合おうとも、神を愛し、隣人を愛することです。
皆さんは、裁判の本質を御存知でしょうか。裁判は、確固たる何かしらの証拠を持っていて、自分が正義であることを誇っている人が、相手を不義として、自分が被っていると思っている不利益を、取り返すことを目的として行われるものなのです。
実は、コリント信徒への手紙1の6章7節には、こう記されています。「あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」この言葉は、マタイによる福音書5章38節~42節で、イエス・キリストが言われたことを思い出しながら、パウロが書いたことです。マタイによる福音書5章38節~42節を見ますとこう記されています。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
此処に、神の友となる秘訣があります。神の友となる秘訣は、不義を甘んじて受けること、奪われるままでいることです。それを別の言い方でいえば、自分に義があると主張しないこと。自分が理不尽な目にあったとしても、相手を訴えないことです。
でもそう言われますと、「そういうことをみんが出来れば、確かに幸せな世界になる。しかし、そんな聖人君子にはなれない。」そう思う人や、「そんな甘いことを言っていたら、相手のために良くない」そう思う人が出て来ると思います。
少し、アーミッシュのお話をさせて頂きます。
実は、2006年の秋に、ペンシルヴァニア州にあるアーミッシュで、ある事件が起きました。これはとても有名な話です。アーミッシュの近くに、住んでいた32歳の男性が、アーミッシュの子ども達の学校に、銃を持って押し入ったのです。
その男性は、その時、女子生徒だけを教室に残しました。教室に残された少女の中の一人が、自分より年下の子をかばおうとして「私を先に撃って下さい!」そう彼に訴えのです。まだ13歳だったその勇敢な少女は、彼に銃で撃たれて即死しました。その少女の11歳の妹も「次は私を撃って下さい!」そう彼に言申し出て、その子も銃で撃たれて即死したのです。その時、5人の少女が亡くなり、5人の少女が重軽傷を負いました。犯人の男性は、その後、自分を銃で撃って自殺したのです。
実は犯人の男性は、アーミッシュの人たちと顔なじみの人だったのです。彼は、自分が銃で撃ち殺した、ある少女の家庭に、かつて牛乳配達をしていた人だったのです。
驚くべきことに、アーミッシュの人たちは、事件があったその夜から、犯人の家族の家に訪問をして、赦しの意を表明したのです。それだけではないのです。彼らは、犯人の葬儀にも参列したのです。
このことは、2つのことで世間を驚かせました。
1つは、わずか13歳と11歳の少女が、自分より年下の子たちを庇うために、「私を先に撃って下さい!」そのように勇敢に、犯人に申し出たことです。もう一つは、この事件が起きた直後、自殺をした犯人と、その遺族を赦すことを、即座に表明したことです。
でも、この2つのアーミッシュの人たちの対応は、世界中で議論になりました。
一方では、攻撃には攻撃で仕返しをする世の中で、攻撃に対して「赦し」を返したアーミッシュの人たちに、尊敬の声や、賞賛の声が挙がりました。でも、もう一方では、批判の声が挙がったのです。それは、「殺人犯を安易に赦して良いのか!甘いのではないか!」そういう批判です。
先程ご紹介した、イエス・キリストが言われた、マタイによる福音書5章38節~42節の言葉の実践。それが、世界中で議論となったのです。
でも私は、「安易に赦したのではない。甘いのではない。」そう思うのです。アーミッシュの人たちは、イエス・キリストの友だったからこそ、そういうことが出来たのです。
彼らは、イエス・キリストと、友という深い絆で結ばれているのです。彼らは、神や隣人と、敵意という隔ての壁を設けてしまう自分たちの罪の身代わりとなるために、十字架にお架かりになられたことを、ちゃんと心から信じていて、イエス・キリストの軛を、ちゃんと負っているのです。つまり、「神や隣人と、敵意という隔ての壁を設けてしまう自分たちの罪が赦されましたとさ。めでたしめでたし。終わり。」ではないのです。そういういいところどりの、信仰ではないのです。ちゃんと、主イエスの十字架という軛を負う、友となっているのです。
だから、自分たちにとって、最愛の人が殺害されても、その罪を、即座に赦すことが出来たのです。自分たちがどんなに理不尽な目にあっても、「敵意という隔ての壁」を、打ち壊すことをしたのです。
私たちはどうでしょうか。自分たちが、「神様や人から、理不尽な目にあわされている。」そう思った時、「敵意という隔ての壁」を、ちゃんと自ら率先して、打ち砕いて、歩んでいるでしょうか。
海外では、自分がびっくりする良いことが起こった時に、「オーマイゴッド」そう言います。でも、それ以上に、自分に何かしら理不尽なことが起こった時、「オーマイゴッド」そう言うのです。でも、その時に、敬虔なクリスチャン家庭では、「オーマイゴッド」そう言うと叱られます。「『オーマイゴット』ではなくて、『オーマイマインド』そう言いなさい。ちゃんとイエス・キリストの十字架を見上げなさい。」そう言われるのです。
つまり、「自分に何かしらの理不尽なことが起こった時、それは神のせいにせずに、神の友として、自分の問題として引き受けなさい。」そういうことです。
イエス・キリストの友になった人は、自分に何かしら理不尽なことが起こった時に、イエス・キリストのように、自分が率先して、それを積極的に受容することをするのです。それが、クリスチャンの醍醐味です。
でもそれは、自分の力では出来ません。自分の力でそれをやろうとすると燃え尽きます。それが出来るようになるのは、イエス・キリストの十字架の愛が、ちゃんと心に響いてこそです。
モンテニューという人はこう言っています。「人間は、手を広げる以上に広げることは出来ない。足を広げる以上に、足を広げることは出来ない。それが出来るとすれば、それは神の働きによる。」
その通りだと思います。
神様は、今日、此処にいる私たちに、「私が、愛する独り子イエス・キリストをこの世に遣わして、人として誕生させた理由は、直ぐに、私や人に敵対視する、あなたの罪を赦して、私の子にするためだ。今まで以上に、私が愛する、独り子イエス・キリストの十字架を信じて、私の友となって欲しい。友として生きて欲しい。」そう語りかけています。
今この時、神様は、私たちへのプレゼントとして、イエス・キリストの命を、私たちを信頼して、私たちに託して下さっているのです。
その神様の愛を覚えて、皆さんと共に、このクリスマスを、過ごしていくことが出来たらと、心から願っています。
このクリスマス、神様の豊かな祝福が、皆さんの上にありますように。 最後に一言、お祈りさせて