イザヤ書2章1節~5節
「もはや戦うことを学ばない」
成智圭伝道師
本日の礼拝は、2024年最後の主日礼拝です。しかし、教会の暦で言いますと、アドベントの第一主日から、新しい一年が始めっているので、新しい一年を一か月、歩み終えたところだと、言ってもいいかもしれません。しかし、どのように俗にいう年末を過ごされているでしょうか。2024年あった喜ばしい出来事、誰にもわかってもらえないような悲しい出来事、さまざまであったと思います。本日の礼拝は今一度、一年を振り返りながら、神様からいただいた恵みを思い返し、同時に神様への訴えや希望を確認するひと時になればと思います。
もしかすると、今年一年何があったか振り返ることができる、ということも、一つの恵みなのかもしれません。悲しいことがあったあとなんて、わたしたちはその出来事を思い出したくないからです。なかったことにしたい、してほしい、そのようなことも、あるのです。
きっと、世界中で、そのような思いをしている方々はたくさんいらっしゃいます。世界中と言わないまでも、私たちのすぐ隣にいる人だって、そのような思いをされているかもしれない。
そのようなわたしたちに与えられている本日の御言葉は、平和ということを思い起こさせます。新共同訳聖書では実際に小見出しに「終末の平和」とつけられるほどに、読者にそのことを思い起こさせるのです。早くこのような御言葉にかかれていることが実現すればいいのに、終わりの時が来ればいいのに、と思います。自分に悲しい出来事が起こった時はもとより、特にニュースで戦争のことを聞くとわたしたちの心は荒れ果てるからです。祈ろうにも、なんと祈ればよいのかわからず、なにもできない自分に嫌気がさします。なかば、どこかであきらめているような気もします。平和って、なんだろうか。平和って、本当に実現するんだろうか。終わりの日を、あきらめとして、待ち望んでいる自分がいます。平和の実現という本当の願い、戦いが止んでほしいという本当の願いがわたしたちにはあります。しかし、現実の状況を目の前に、その願いは、ただの理想のように思えてしまうのです。
「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」ユダヤの民だけではなく、多くの民が、そのように言うだろうと御言葉は語ります。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」と預言されています。この御言葉が実現するのはいったいいつなのだろうか。わたしたちが生きるこの世界では、不可能なのではないのか、私たちはそう思ってしまうのです。
これを記した預言者イザヤが生きた時代もそうでした、彼が生きた時代は、人々が神に反抗する時代でした。神に背く人々が多くいる時代でした。1章の4節には次のように語られています。「災いだ、罪を犯す国、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。」神の愛される民であるにも関わらず、神の言葉に耳をかたむけない。聞こうとすらしない。神ではない者に、自分をまかせてしまっている、望みをおいている。まさに、わたしたちが生きるこの時も同じことが起こっています。しかしそのような時代において、イザヤは幻を見たのです。国々の民がこぞって、主こそ神であると歌い、神の言葉に聞き、神の道に従おうとするすがたを、確かに見たのです。
今、わたしたちの時代は、国が国に対して争いを起こしています。しかし、主はそれを裁かれると記されています。実はわたしたちも、日々、そのような国を、特に、その国を治めている為政者たちを、裁いています。あの人がやめると言えば、戦争は終わるのに。そもそも、あの人があんな発言をしなければ、戦争は始まらなかったのに。わたしたちは、国々の為政者たちを、そのように裁いています。
しかし、わたしたちが注目しなければならないのは、その次に記されている御言葉です。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。」神は、その国々の為政者たちを裁かれるのではありません。国々の民を戒められるのです。神によって戒められるのは、わたしたちとはかけ離れた人々と思うかもしれません。でも確かなこととして言えるのは、この民の中に、わたしたち自身も含まれている、ということです。私たちこそ、主が戒められる、多くの民の中の一人一人です。
国が国に向かって剣をあげているのであって、わたしたちではない、と思うかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。わたしたちは、実は、王様となっています。またわたしたちは、その国を、日々支配しようとしている、総理大臣です。その国とは、わたしたち一人一人という国です。わたしは、成王国、という国の支配者です。他国が自国に危害を加えようものなら、有無を言わさずにやり返します。なんとなく気に入らない国がそこにあれば、いないことにしたり、場合によっては攻撃したりしようとします。気に入らない国に対して、他の国と力を合わせて、陥れようとすることもあります。それでいて、自分の国を非常に強固につくりあげ、自分の国が行うことはすべて正当化しようとします。信じているのは、自分自身。行うことは、自分が正しいと思うこと。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」?これは礼拝に行こうということですが、わたしたちにはその必要はありません。なぜなら、自分の国こそ、聖地だからです。自分が、神になっているからです。これはまさに、わたしたちの姿です。まさにわたしたちこそ、このように争いを行う国々であり、わたしたちこそ、他国に剣をあげようとする、いや、ずっと剣をあげてきた国々なのです。
しかしキリストを信じたわたしたちは、その剣をすでにおろしているはずではありませんか。そのような剣を、わたしたちは今持っていないはずなのです。なぜなら、わたしたちが持っていたその剣は、叫び声となり、釘となり、茨の冠となって、キリストを十字架につけたからです。わたしたちが振るっていた剣とは、わたしたちの罪のことです。わたしたちは、その剣を、隣人に対して、それだけではなく、神に対して、振るっていました。罪という剣を頑なにおろすことをせず、自分の国を造り上げ、自分が神のように振る舞っていたのです。その罪という剣によって、神に背いていた私たちこそ、死ぬべきものでありました。そのようなわたしたちのために、この世界にお生まれになり、十字架にかかられたお方が、私たちが信じる主イエス・キリストなのです。キリストは、わたしたちが振るった罪という剣を、すべて受けられました。わたしたちが受けるべきその剣の代償をすべて受けられたのです。神は、剣をふるっていたにもかかわらず、わたしたちをあきらめることをなさいませんでした。主御自身が、わたしたちの剣を砕いてくださるために、キリストを十字架につける、キリストにその剣を、罪を、すべて向かわせるという決断をしてくださったのです。
わたしたちは、十字架の愛、と簡単に言います、また、美しいものとして時には扱います。わたしが卒業した神学校で、様々な先生方がいつも指摘しておられました。「最近の説教者は、イエス・キリストの十字架と復活の説教の最後につければそれでよいと思っている節がある」わたしの耳も痛くさせる言葉ではありますが、少し意味がわかりました。決まり文句などではない。そこには血が流れています。十字架では、頭につけられた荊の冠から、血が流れています。その茨の冠は、わたしたちがキリストにつけたものです。手や足首に杭が打ち込まれたところからも、血がながれ、肉が裂かれています。その杭は、わたしたちがキリストに打ち込んだものです。十字架の愛、それは、綺麗で美しいものなんかではありません。わたしたち人間の醜さが見事に表されているものです。血が流れています。残酷です。目もあてられないくらい、むごい出来事です。それほどに、わたしたち一人一人は、救いようのない者たちです。神に剣を向け、血を流させることしかできないものたちなのです。わたしたちこそ、血を流すものでしかありません。
しかし、わたしたちがキリストに突き刺した剣を、神はキリストに一身に受けさせました。それは、わたしたち自身が、滅ぶことを主が拒否されたからです。それは、わたしたちの手が、もはや剣を握ることのないためでした。そのことを知らされたとき、わたしたちが造り上げた国々は、陥落しました。わたしたちは、自分たちの国を、主イエスを通して、父なる神に明け渡しました。神のように、王のようにふるまっていたわたしたちは、そのことを悔い改め、父なる神の御前に、神に従う者へと、変えられたのです。これこそ、本当の平和です。
わたしたちの手には、もはや剣は握られていません。代わりに、鋤が、鎌が、握られています。鋤というのは、今でいう大きいスコップのことです。鎌は、昔お米の収穫などに使われていた、草を刈り取るための道具です、私は実際、神学校時代、人生で初めて本物の大きいスコップを手にしました。3年前に取り壊された学生寮の跡地に、畑を作りました。本当に小さい畑でありました、しかし、がれきだらけだった土を掘り起こすのは、本当に大変な仕事でした。手で掘り起こすことは、ほとんど不可能で、鋤を使ってやっと少し掘り起こすことができるぐらいでした。大変すぎて、掘り起こすのをあきらめようともしました。しかし、その頑張って掘り起こした畑に苗を植えると、雨が降り、受粉が起こり、実りが豊かにありました。修士2年の夏は卒業論文と格闘しながら、ししとうとゴーヤを鎌ではないけれども、ハサミで収穫し、それをいただきながら過ごしました。頑張って自分が掘り起こした畑ではありましたが、コンクリートだらけであった学生寮の跡地に、掘り起こした後はなにもせずとも実りができるのをこの目で見たことは、なんとも不思議な感覚でした。
わたしたちの手には、そのような鋤が、スコップが握られています。それは使い方を誤ると、人を殺めてしまうこともできる道具です。しかし、わたしたちはそれをもはや剣のようには扱いません。それを使って、実りのために、労苦します。まだ剣を握っている隣人のために、わたしたちは鋤の使い手として、神に用いられていきます。また、他の誰かが実りのために労苦した場所で実りが与えられた時には、手に握られている鎌を使って収穫をします。わたしたちは労苦します、ひとりでも多くの人が、聖霊に導かれ、キリストを通して父なる神と出会い、陥落し、手に握っているその剣を神に滅ぼしていただき、代わりに鋤を握る人になるために、わたしたちは遣わされていきます。初めは自分の国を固く据え、神に背き、剣をおろすことをしなかったわたしたちでした。わたし自身は、他の国に向かって剣をあげていた国の一つでありました。しかし、わたしたちはもはや剣をあげる国ではありません。わたしたちは、こぞって大きな川のようであります、すべての国を支配される神を、世界を統治される神を礼拝するために、高くそびえるあの山に、イスラエルの神の家に向かっている国々の一つとして、今ここにいます。わたしたちは高らかに歌います、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」その道というのは、シオン、主の神殿から出ます、御言葉というのはエルサレムから出ます。キリストが十字架につけられたあのエルサレムから、赤い垂れ幕が引き裂かれたあの神殿から、わたしたちの歩むべき道が、示されました。
イエス・キリストが十字架にかかった時に、全地が暗くなり、イエス・キリストが息を引き取られる直前に赤い垂れ幕が引き裂かれたことが、ルカによる福音書に記されています。そのことは、大きな意味があります。昔の神殿には、至聖所という、一年に一回、選ばれた者しか入れない場所がありました。聖なる場所でした。神と人とを隔てる役割を、赤い垂れ幕は持っていました。その垂れ幕が、キリストが十字架にかかった時に、真っ二つに裂かれました。キリストが、神と、わたしたちの間に立ちはだかっていたそれを、砕いてくださいました。その赤い垂れ幕が引き裂かれた神殿から、わたしたちに示された道、それは、各々の剣を、神によって、キリストの十字架によって砕いていただき、代わりに鋤を握って、神のために実りを待ち望む道です。真の平和の主であるキリストが再び来られ、全き平和を実現されることを、待ち望む道です。希望の道です。そのために、キリストは、暗闇に満ちているこの世界に来てくださいました。このことを知らされているわたしたちは、今日、本当の意味で、ダビデの子にホサナ、主よ、主イエスよ、救ってくださいと希望を持って祈ることが出来るのです。
キリストが、わたしたちの剣を砕くために、この世に生まれてくださったこと、また、十字架の道を歩まれたこと、しかし復活されて、いまも実りのためにはたらかせていただくわたしたちとともにいてくださることを信じます。この主イエス・キリストこそ、今なお働いておられることを信じます。わたしも、みなさんも、聖霊に導かれて、手に握られているスコップをもって、主のために精一杯働くものとされています。隣の住人に、自分の愛する子供に、自分の愛する両親に、友達に、伝えていきます。うわべだけの平和を伝えるのではありません。まことの平和を実現してくださる方がいる。私たちが持っている剣を砕いてくださる方がいらっしゃった。神と和解させてくださる方が、いらっしゃった。その方こそ、イエス・キリストであると。剣を砕いてくださるために、この世に来られた光である主イエス・キリストのうちを、歩ませていただきましょう。暗闇に満ちているとしか思えないこの世界を、悔い改めをもって、また、希望をもって歩ませていただきましょう。なにより、キリストこそ、真の平和の主であること、そのことを、この世界において、宣べ伝えつづける私たちであるように、ともに祈ります。