2023年12月17日 待降節第3主日礼拝

2023.1217.Syuuhou

聖 書  ルカ2章8~20節

説 教  王と馬小屋

本日の礼拝後には、第2部としてクリスマス・ページェントがあります。聖誕劇ですね。すでに、子どもたちや大人の有志では、衣装をまとって備えられています。

ページェントは、マタイによる福音書及びルカによる福音書に記されているイエス様の誕生にまつわる出来事、エピソードによって演じられます。そこにはマタイですと、天使がヨセフの夢に現れ、いいなづけのマリアについて語ります。

マタイによる福音書1章21節です。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

ルカによる福音書では天使ガブリエルが今度は夢ではなく、現実に現れマリアに語りかけます。1章26節以下ですね。

「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

こうして、マタイによる福音書とルカによる福音書が交互に読まれ、ページェント(劇)が進行するのです。

マタイによる福音書では、占星術の学者たちが星を見て、はるばるエルサレムに来ます。

そこで、学者たちはヘロデ王に言います。2章2節

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

 イエス様はユダヤ人の王として生まれたのです。これがマタイによる福音書のメッセージです。マタイの1章にある系図は、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図とあります。イエス様はイスラエルの王である「ダビデの子」として福音書は宣言しているのです。系図もダビデ家の系図です。

 そのために東方の学者たちは、イエス様を「ダビデの子」として「黄金、乳香、没薬」を献げるのです。王に相応しい宝物、貢物です。

 ルカによる福音書で2章4節に「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」とあります。ダビデの町とは、ベツレヘムであり、ダビデ王の出身地なのですね。

 本日の説教題は、「王と馬小屋」です。イエス様は王、王の子としてお生まれになりました。そのイエス様が馬小屋で生まれ、飼い葉桶に入れられているのです。動物たちの臭いが立ち込める部屋でお生まれになったのです。

 そこでは、快適なホテルでのまっさらのシーツはありません。王ですから、豪華な家具付きのホテルを予約しておくこともできたでしょう。それもない時代です。

 ルカによる福音書2章8節以下は、救い主イエス様の誕生を最初に知るのは、羊飼いたちであることが分かります。マタイによる福音書では、東方の学者たちが星を見て、王であるイエス様の誕生を知るのですが、ルカでは、天使によって救い主の誕生を知らされるのです。

 11節、12節

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

16節

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

 モーセがパピルスの籠に入れられて、ナイル川の葦の茂みに置かれました。

神学生の時、堂園さんという方が教会に来られていました。かれは、赤ん坊の時に公園の池に投げ込まれているのを散歩中の人が見つけ、助けだされました。虫の息であったとのことです。施設に預けられ、小学、中学と施設で育ったのです。キリスト教の施設で、その理事長が役員をしている教会に一緒に出席していました。神学生であったわたしは、彼の担当になり、いろいろ話しかけて仲良くなりました。はじめはこころを開かなかったのですが、毎週欠かさず、礼拝には来ていたのです。

 なぜ、見捨てられたのか。彼の疑問でした。母は誰なのか。分かりません。父は誰なのか。それも分かりません。40年以上も前のことでした。

「いのちがあること、生かされていることに意味があること。聖書には、あなたを一人にはしないとあります。」

そのように言いました。その後、彼は洗礼を受けました。神学生であったわたしは聖書学校を卒業し、盛岡の教会に赴任しました。それから5年後、病気のために亡くなったことを知らされました。教会で葬儀が行われ、そこには施設の人たちも大勢列席されたとのことです。

イエス様は神の子、王でいらっしゃいますが、同時に仕えるために来たといわれました。

マタイによる福音書20章 28節です。

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」

キリスト教は、不思議です。世俗の世界では、王は支配し、統治するものです。神は全能です。そのかたが、しもべとなり、仕える者となり、無能の人となられたのです。

「十字架から降りてみよ。そうすれば、信じてやる」とユダヤ人はイエス様をさげすみ、バカにしました。そのイエス様は、「父なる神よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、何を言っているのかわかないのです」と祈られました。

クリスマスは、神が人となられたことを喜び、感謝する時です。その神はわたしたちのためにいのちを投げ出されたのです。そして、イエス様を信じる者は永遠のいのちを受け、救われるのです。その喜び、感謝の日なのです。

そこにはユダヤ人だけでなく、東方からの学者、それは異邦人を代表するひとたちです。貧しい羊飼いたちに天使と天の大軍が加わり、神を賛美するのです。

ルカ2章14節

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適うひとにあれ」

ハレルヤ! 御名を賛美します。




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