2023年7月23日 聖霊降臨節第9主日礼拝
説 教 イエスの名
聖 書 使徒言行録3章1~10節
聖霊降臨(ペンテコステ)によって、新しい時代が始まりました。聖霊降臨の出来事によって、教会が誕生したのです。教会の宣教によって、キリストを信じる群れが起こされ、信じる者が一つとなり、キリストの救いの福音を分かち合い、さらにまた福音を宣べ伝えていく運動へと発展したのです。
この教会の営みは、2000年間営々と続けられてまいりました。これからも、世界の各地に福音が宣べ伝えられ、世の終わりまで福音が伝えられるのです。
今日の聖書は、権威ということが大きなテーマです。「イエスの名」は、権威であります。力であります。しかし、この世的な、すなわち政治的な力、権力ではなく、また、経済力における力というものではなく、イエスの名は神の力の表われであると言ってもいいでしょう。なぜなら、イエス・キリスト様は神だからです。
1.権威のしるし
生まれながら足の不自由な人がペトロによっていやされます。その時の、ペトロの言葉が5節です。
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
このイエス・キリストの名が、実は世界を変えたのです。新しい時代に入ったと最初に申しましたが、聖霊はこのイエスの名を大胆に伝える力をわたしたち教会の群れに与えられるのです。このイエスの名こそが、わたしたちにいのちを与え、生かす力なのです。
汚れた霊にとり憑かれていた人をイエスの名によって、追い出します。イエスの名が悪霊を追い出す力を持つのです。(ルカ9:49)
イエスの名によって、わたしたちは洗礼を受けます。罪が赦されます。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)
イエスの名によって、わたしたちは祈ります。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 (ヨハネ14:13~14)
イエスの名によって病気がいやされます。
イエスの名にゆえに受難を覚悟し、死をさえ恐れません。
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。 (使徒5:41)
初代教会は殉教者が大勢でました。キリストの名のためです。日本もそうでした。
2.救いのしるし
イエスの名こそが救いなのです。
この足の不自由な人を立ち上がらせた後に、4章に入ると大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まり、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問します。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言うのです。
「民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
イエスという名は、旧約時代はありふれた名前でした。ヨシュアです。その意味は、「神は救い」です。このヨシュアがギリシャ語読みになってイエスとなります。後世、ユダヤでは十字架につけられたイエスの名をつけることはありませんでしたし、クリスチャンは救い主イエス様の名を子どもにつけることもありませんでした。まさしく、イエスという名は、わたしたちにとっては「神は救い」として与えられているのです。
3.愛のしるし
イエスの名は、権威のしるしであり、救いのしるしです。ちからと支配を表します。しかし、一番のしるしは愛のしるしであります。キリストの権威と救いのしるしは、何でしょうか? それは、十字架であります。キリストの名が人を愛するということは、人を生かすことなのです。
今日の聖書で、ふたつの側面から見ることができます。
足の不自由な人にとって、いやされた。それだけではありません。6,7節から読みます。
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
二人と一緒に入って、神の証人として用いられるのです。使命が与えられたのです。
この使命により、人は生きるのです。
わたしたちは、イエス様のお名前によって洗礼を受けます。これがキリスト者です。キリスト者とは、クリスチャンともいいます。その意味は、わたしはキリストのものです。キリストに属しています。教会に属しています、という意味です。わたしたちはイエスの名をいただいているのです。イエス様を愛し、教会を愛していくのです。
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