2023年4月9日復活節第1主日礼拝 イースター
聖 書 マタイによる福音書28章16~20節
説 教 復活、そして出発
先週、わたしたちは受難週を共に過ごしました。教会によっては、木曜日は洗足木曜日、足を洗い、聖餐式を行います。金曜日、聖金曜日としてイエス様の受難の時を祈りのうちに過ごします。
(仙台青葉荘教会はホーリネスの群の年会のため、牧師と教会の信徒代表がこの年会に参加したため、受難週の祈祷会ができませんでした。残念なことでした。)
そして、今日はイースター、復活日です。主の受難と十字架はまさしく、「主の苦しみがわたしたちの救い」、「主の辱めがわたしたちの力」、「主の絶望こそがわたしたちの希望」であるということです。そこにキリスト教の深い真理があります。
主イエス・キリストは復活されました。十字架の死、埋葬でもって、聖書は終わらないのです。もし、復活がなければ、キリスト教はないでしょう。そして、わたしたちの信仰も人生も虚しいものとなります。人に感化を与えるよい話(物語)として聖書は読まれ、イエス様は偉大で、立派な人間だったとして評価されるでしょう。そして、イエス様は過去の人であり、死んでしまった人であります。
しかし、聖書は十字架の死でもって終わらないのです。復活された。これが聖書です。そして、今もわたしたちとともにおられる。
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
この「イエスが指示しておかれた山」とは、あの山上の説教をされた山ではないかと言われます。あるいは、ペトロを代表とする弟子たちの信仰告白のあと、17章でイエス様
は弟子を伴われて高い山に登られます。そこにモーセとエリヤが現れ、きたるべき十字架について話しをする場面があります。「イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とあります。そして、光り輝く雲が覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が雲の中からする。そういう体験をした山です。
マタイの福音書にとって、「山」とは、特別な意味があります。それは神との出会いの場であります。神と触れ合うところ、聖なる体験をするところです。
今、復活されたイエス様は、ガリラヤの山の弟子たちにご自身を現されます。弟子たちは、イエス様に会い、ひれ伏すのです。そこには、弟子たちの言葉はありません。聖なる体験をすると、言葉を失うでしょう。沈黙して、ただひれ伏し、拝するだけです。
そしてイエス様は弟子たちに語られます。18節
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエス様の言葉、これは派遣の言葉ですね。四つあります。第一番目に、派遣の主体です。誰が派遣するのか? イエス様が派遣されるのです。主の権威です。使徒信条で告白するように、「十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる」のです。文字通り、イエス様はわたしたちの主となられたのです。救い主、癒し主、王の王たる権能をもってすべてを統治し、支配されておられる。その支配はこの世の力や武力ではなく、愛と寛容と柔和です。そのお方が派遣されるのです。
第二は、派遣の目的です。「すべての民を弟子としなさい」です。キリストの弟子です。
キリストの弟子化。それは、イエス様が生きたように、わたしたちも生きる。生活面において、生きる。それもまた、力や武力による生き方ではなく、神が人となられた、その謙虚さに生きる。謙遜に生きる。弱っている人、貧しい人たち、苦しんでいる人たちの友となって生きる。愛の人として生きなさいということです。
第三は、派遣の使命。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という言葉です。
キリストの弟子は洗礼を受けて、イエス様のご命令を守ることです。洗礼は、新しく生まれる、生まれ変わることを意味します。旧い自分が死に、新しいキリストの衣を着て生きるのです。そこにも、謙虚さと愛によって生きることを意味します。憎しみ、恨み、拒否、驕り、傲慢、恐怖で生きていた者が、新しく生まれ変わる。憎しみが愛に、恨みが赦しに、拒否が受容に、驕りが謙遜に、傲慢が謙虚さに、恐怖が喜びに変わる。
新しい生き方、価値観をもって生きるのです。そこにキリストの弟子としての特性があります。教会形成ですね。信仰の共同体を形成する。
第四は、派遣の期限。いつまでなのか。世の終わりまで。キリストの再臨まで。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との約束です。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)
そのように、主イエス・キリストは仰られました。ここに、この礼拝の場に、イエス様はおられるのです。家庭にも、職場にも、旅行に出るときも、キリストは共におられます。わたしたちは、そのように考え、生きているでしょうか。今月4月30日は、2023年度の教会総会です。今も生きて働かれる主イエス・キリストの臨在を覚え、会議に臨みましょう。そして、一年の歩みを感謝し、反省すべきところは反省し、すべてを神に委ねて、これからの一年の歩みのために祈り、会議を進めましょう。
復活されたイエス様が弟子たちに現れ、弟子たちを派遣されます。これは派遣の言葉なのですね。終わりではない。出発です。復活は始まりです。
この言葉を弟子たちは守り、世界に出て行ってイエス様のお言葉である福音を宣べ伝えました。これが教会です。