2023年3月12日 受難節第3主日礼拝

2023.0312.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙12章15~21節

説 教   復讐するは我にあり

 前回の説教は、「嫌いな人のために祈れますか」でした。12章14節の「迫害する者のために祈りなさい」を嫌いな人に置き換えた題名です。悪を行う者に対して、どう立ち向かうか。悪をもって対決するか。聖書のことばに従って祝福を祈るか。でも、感情的なしこりが残ることでしょう。難しいところです。

ロシアとウクライナ、戦争を仕掛けるものと仕掛けられるもの。侵略、いのちを奪われ、財産を奪われる。国の領土が奪われる。赦すことも祈ることもできない。むしろ、味方の国民が時間を追うごとに、ミサイルで殺されている。

歴史には、極悪非道の専制君主が生き延びている国、時代があります。暴力の歴史です。

しかし、イエス様は、その中で、敵を愛しなさいと、お手本を示されました。非暴力の教えです。これが十字架の贖いです。

 本日は12章15節から21節までの説教です。本日も3つのポイントで説教いたします。

  • 共に喜び、共に泣く 

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(15節ですね)

これは文字通り、喜ぶ人と共に喜び、悲しみに泣く人と共に泣くことです。しかし、これも世の中では、他人の不幸は蜜の味といいます。いやな相手の苦しみや悲しみ、不幸を喜ぶことだってあるのです。

これもキリスト者は泣く人と共に泣く。悲しみも不幸も分かち合うということでしょうか? これは難しいですね。悲しみを経験した人は、同じような悲しみに遭った人の気持ちを察することができます。

むしろ、喜びを共にすることは難しいですね。人の喜びは嫉妬になります。結婚、恋人がいる。子育て、子どもが進学する。会社で出世する。他人の、身近な人の喜びを一緒に喜び、祝う。キリスト教の世界で、教会ではこのように共に喜び、共に泣く。そういう分かち合いは大切ですね。

ですから、聖書は12章1節にまずわたしたちの心と信仰に呼びかけるのです。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

昨日、3月11日は東日本大震災の12周年の記念集会がありました。東日本大震災で被災した市町村で行われましたが、ここ宮城県仙台市近郊の教会関係では、エマオ、塩釜バプテスト教会、石巻栄光教会で開催されました。大地震と津波で家族や知人を亡くした方々の哀しみや辛さはいまだ癒えない方もおられると思います。まさに、泣く人と共に泣く、ですね。

この信仰と神の恵みによって、わたしたちはこの呼びかけに応えるように召されているのです。キリスト者の心は聖霊によってきよめられ、神の恵みと愛に満たされる時、世の誘惑や試練、競争心から解放され、自由にされているのです。

2.復讐するは我にあり

17節

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

21節

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

9節

愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び

この12章の9節から21節の段落で、三度も善と悪について語られます。神の助けによって悪を克服し、良い信仰生活を送るように導かれるのです。

3度も語られているのは、悪を受けると悪でもって返したくなる。復讐したくなるのです。倍返しをしたくなる。これが人間であるゆえんです。しかし、キリストを信じたキリスト者はそうあってはならない。これは聖書が語っているのです。

それゆえに、19節にこう言われるのです。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

ここは、文語訳では次のようになっています。

 愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。

これは申命記32章35節からの引用ですが、この通りではありません。ヘブライ書10章30節にもあります。

審きは神がなさることであり、あなた、すなわち人間が神になり代わって審判者となってはならないということです。自分が神の座に座って同じ人間を裁いてはならない。

従って、20節についても、その文脈から悪ではなく善を行うという意味で解釈するのが妥当です。20節からお読みします。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

  • 燃える炭火を頭に積む

実は、本日の説教の予告は、この「燃える炭火を頭に積む」でしたが、説教原稿を書いているうちに、「復讐するは我にあり」と変更しました。復讐、報復は、神にお任せすること。人間が神の座に座ってはならないのです。

復讐したくなるほど、相手を憎む。それは自分を悪魔に明け渡していることなのだ。これがイエス様の教えです。信仰の敗北なのです。ですから

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

「燃える炭火を頭に積む」とはどういうことでしょうか? 同じ言葉が箴言21章 21,22節にあります。このことばの引用がローマ書12章20節です。

「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。

こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」

「燃える炭火」とはどのような意味でしょうか。悪に対して、悪に向かわないこと。相手がその良い行いを返されることよって、顔が赤くなるほど恥じるということですね。そして、悔い改める。むしろ、悪に悪を返し、復讐すれば、相手も同じように悪でもって返す。悪循環となります。どちらかが滅びるか死ぬまで復讐の繰り返しになるのです。ですから、悪に対して愛をもって報いる。これがキリストにある者の立場、信仰となるのです。

 そのようなことが可能でしょうか。これこそが、イエス様の十字架の贖いの本質です。神の愛とイエス様の十字架の愛です。十字架上の言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」その赦しですね。「7の70倍までも赦しなさい」とも

言われたイエス様のお言葉です。

ずっと以前のことですが、あるクリスチャン女性の息子さんが事件に巻き込まれて殺されました。彼女は熱心なクリスチャンでした。祈りと賛美が喜びで教会の奉仕、聖書を読むこと、信仰生活のすべてが生きる喜び、張り合いだったのです。それなのに、最愛の息子が殺された。

「神様、どうして? 何故、このようなことが許されたのですか? あなたの許しなくしては、起こらなかった事件です。わたしが不信仰だったのでしょうか?」 

そう自問自答し、神に祈り、訴えました。悩みと憂い、苦しみが彼女を襲い、苦しめました。 

 でもある時から、彼女は、加害者のために祈るようになったのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。その主イエスの言葉が今こそ、彼女の心を占め、迫ってきたのです。それから、息子を殺した殺人者に手紙を出しました。苦しい胸の内を書いて送りました。息子を失った哀しみと殺人者への憎しみ。しかし、自分はクリスチャンであるゆえに、あなたを憎いけれども、赦すようにとイエス様の言葉が自分に迫ってくること。

 それから、殺人者との手紙のやりとりが始まった。いつか、加害者もこのお母さんの手紙で神を信じるようになった。殺人者と息子を殺されたお母さんとの心が交流するようになったのです。

 何年かたって、加害者が刑務所から出てきました。刑期が短縮されて出所したのです。

その夜、母は加害者を迎え、自宅に泊めます。一緒に食事し、刑期を務め終ったことを神に感謝し、これからの歩みを祝福する祈りをします。そして、蒲団を隣にして眠るのです。殺人者と被害者の母というより、母と息子のような懐かしさの中で、二人はいたのです。

 人が赦され、生かされるということは、真の愛によってのみ可能だと信じます。

(「Noからイエスへ」飯 清牧師著より)