2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日礼拝

2022.0612.Syuuhou

聖 書  ローマの信徒への手紙9章1~5節

説 教  あなたは選ばれている

 1900年すなわち明治33年を挟んで約5年ごとに、明治文化を代表する3冊の英文の書物が日本人によって書かれました。いずれも当時、大きなセンセーションをもたらし、現在まで日本人の心と精神史に大きな影響を与えています。このような時期はその後の日本の近現代史に、まったくありません。
 その3冊とは、内村鑑三の“Japan and The Japanese”、新渡戸稲造の“Bushido“岡倉天心の”The Book of Tea”であります。(松岡正剛「千夜千冊から」)

 さて、内村鑑三のJapan and The Japaneseは、直訳すると「日本と日本人」という意味ですが、内村鑑三自身が訳した題は「代表的日本人」です。日本の歴史の中で、代表的な人物を5人挙げています。時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山(ようざん)、西郷隆盛となります。内村鑑三は明治初期の熱心なクリスチャン、平和主義者ですから、この5人に対して無条件に絶賛しているのではありません。クリスチャンらしく、内村はこの5人がキリストの先駆者である洗礼者ヨハネとして位置づけたのであります。

 

 本日は、礼拝説教ですから内村鑑三の書物を詳しく紹介するつもりはありません。しかし、その内村がこの書物で残した言葉を一つ紹介したいのであります。それは「二つのJ」という言葉です。

Jとは、イエス・キリストのJ、Jesus・ChristのJであります。これが第一番目のJ。第二番目のJとは、JapanのJです。日本ですね。

内村鑑三は、武士出身のクリスチャンでありました。日本人として、クリスチャンであるとはどういうことか。日本において、キリスト教は可能なのか? 常にそれを意識し、問い続けた人物でありました。

内村鑑三と同時期に札幌農学校に学んだのが新渡戸稲造です。新渡戸は「武士道」を英語で書きました。武士道において、日本人の精神とキリスト教は矛盾しない。それが新渡戸の考えでした。日本と日本人を愛したのです。日本人として、クリスチャンであるとはどういうことか。日本において、キリスト教は可能なのか? 常にそれを意識し、問い続けました。

明治初期の日本人クリスチャンは、このテーマを追い求めていたのだと考えられます。そして、今も直、明治維新(1868年)から160年たった今も直、わたしたちキリスト教会はそのことを問い続けているのであります。東洋、アジアにいるわたしたち日本人にとって、キリスト教とは何なのか?

実は、パウロもまたそのような問いをもって生きてきた人でした。もちろん、パウロはキリスト教初代のクリスチャンであります。新約聖書の書簡の半分以上がパウロの書いた手紙です。また、福音書でもマルコ、ルカはパウロの弟子とも言える人たちでした。マルコもルカもパウロの影響が大きいとも言えるのです。歴史的にはパウロが今のキリスト教を作り上げたのだとまで言う神学者や牧師もいるほどであります。

そのパウロ自身がキリスト教とは何か? そのことを真剣に考え、生きたのであります。そのパウロが書いたのがこのローマ書、ローマの信徒への手紙なのですね。

 本日は、9章1節からですが、5月4日の礼拝では、8章31~39節から「引き離すことができない愛と信仰」と説教しました。8章35節

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。

また、38~39節には次のように記されています。

 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

そのように、神とキリストに結ばれた信仰と愛は誰も引き離すことができない。死さえもと言っているのです。命がけで信じ、従い、全身全霊をもって神の愛に応えようとしているのですね。これがパウロの信仰でした。

そのパウロが、今度は引き離されても構わないと言うのです。

9章3節

わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

パウロは矛盾しているのでしょうか? 嘘をついているのでしょうか? 分裂しているのでしょうか?

 パウロが自分の命が損なわれても、引き離されてもかまわないという思いは、実はイスラエル同胞への愛から来ています。そのことを2節で記しています。

わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。

そして4節以下

彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。  先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。

パウロもまたユダヤ人であり、ユダヤ人であることを誇りとしてします。神の選びの民だからです。聖書はユダヤ人の歴史ですし、神ご自身がユダヤ人を通して、ご自身を現されたのです。

パウロもまた愛国者であり、愛国心が満ちていた人物であります。国粋主義に近い、熱心な愛国者でした。そのためにキリスト教を迫害したのです。

愛国心という言葉は、日本では戦前を思い出すので好きではないという人がいます。戦前のファシズムは愛国心を鼓舞し、協力しない人を非国民扱いしました。とくに、キリスト教は敵国宗教として差別され、疎外を受けました。その傷が癒えない多くのクリスチャンが今もいることは事実です。6月26日は毎年、ホーリネス教会弾圧記念礼拝を行っています。教会が弾圧される。それは、日本という非キリスト教国においてキリスト教を宣べ伝えているからです。しかも、キリスト教はキリスト教以外の宗教をすべて偶像宗教として否定もしくは排除しているからです。

それでもクリスチャンであって愛国者、愛国心を持つ人たちも大勢いると思います。いま、ロシアがウクライナに侵攻し殺戮と破壊を繰り返しています。それに応戦して、ウクライナでは若い女性、20歳未満の男性さえも訓練を受けて武装し、ロシアと闘おうとしています。かれらは、国を守っていくという強い意思を持っています。愛国心のない国民はいない、とまでいうのです。命をかけて、国を守る。

日本がロシアあるいは中国、北朝鮮に侵攻されたらどうなるだろうか。もちろん、仮定のことです。広島、長崎を経験している我が国は、戦争を放棄し、武器を持たないと宣言しました。憲法9条を掲げ、平和を堅持する。これが日本の国策です。

先ほどの内村鑑三のような明治のクリスチャンは真剣に愛国と愛民族、同胞を考えていました。とくに、内村鑑三は国粋主義ではないかと疑うほどに、日本と日本人を愛したのであります。

 さて、この9章から11章まで、ユダヤ人と異邦人というテーマでパウロは語ります。神の選び、救いがその内容であります。9章から11章にわたって、これから礼拝において説教します。そのことを共に学び進めたいと思います。

肉に寄ればイエス様もユダヤ人です。パウロもペトロも初代教会のクリスチャンはすべてユダヤ人でした。そのユダヤ人は、結果的にわたしたちが受け入れ、信じている神の子キリストを拒否し、教会を迫害したのです。そのことをパウロは深い悲しみ、痛みとしています。しかし、離れた同胞であるイスラエルの救いのために祈るのです。

月に一度旧約聖書を礼拝において説教しています。創世記からはじめ、いまは出エジプト記を連続講解説教しています。旧約聖書にはテーマが骨子としてあります。屋台骨です。その一つが祝福です。祝福を巡って親子兄弟が対立していきます。アブラハム、イサク、ヤコブの神として、祝福が受け継がれていくのです。もう一つが選びです。神はアブラハムを選び、イサクを選ばれた。それが出エジプト記において、モーセを選び、モーセを通してイスラエルの救いを実現されるのです。

旧約聖書に出てくる人名は、神の選びの系統です。その選びの中心はイスラエル民族です。アブラハムの子孫としてのイスラエルです。4節、5節。

「肉によればキリストも彼らから出られた」とある通りです。

この選びの中に、教会があるのです。イエス・キリストの十字架は、イスラエル民族だけではなく、イエス様の十字架の贖いを信じるすべての人に神の祝福がある。永遠のいのちという祝福です。キリストを信じることによって、わたしたちは神の子とされたのですね。「アッバ、父よ」と神に呼ばわる聖霊を与えられたのです。神の国の世継ぎとされているのです。

今日の説教題は、「あなたは選ばれている」です。

キリストを信じる人は、神に選ばれている。これが選びの本質です。キリストを通して、天地創造の神は、信仰者であるわたしたちに神のいのちと恵みを与えてくださるのです。そこに神がわたしのようなもの、異邦人、日本人、小さな者です。そのわたしを神は選んでくださった。能力によらず、身分によらず、神の恵みによって。

大きな恵み以外の何ものでもありません。特別ですよ、ということです。

聖書に記されている祝福と神の約束の言葉がキリストのゆえに与えられるのです。そのために聖書を読み、赤線を引き、暗誦するのです。それは何のためですか。良い言葉、教訓になる。慰め、励ましとなる。もちろん、そうです。しかし、それ以上です。

ことばのいのちを神は与えてくださるのです。

イエス様のことば

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)の意味がここにあるのです。

「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と言われるのです。神はわたしたちを選び、価たかくされ、愛を注いでくださるのです。

何という恵み、祝福でしょうか。これがキリストの十字架の恵み、神の愛です。

しかし、選びには意味があります。次のステップ、段階があるのです。そのことを聖書によってともに読み解きましょう。